聖書箇所 Ⅰコリント人への手紙11:23-25

 

11:23 私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、

11:24 感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」

11:25 夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」

 

「主の聖餐」というテーマで、御言葉に沿って、みていきたいと思います。

 

この箇所は、礼拝に出席されている方でしたら、御存知の方が多いと思います。

私たちは、月に一度ならびに、礼拝のたびに、聖餐式にあずかります。

また、この箇所は、最後の晩餐のときに、イエス様が弟子たちに語られたことでもあります。

「聖餐」というと、決まりごとのように、「パン」と「ぶどう酒」が出てきます。

クリスチャン、もしくは、洗礼を受けていなくても、主イエス・キリストを信じて受け入れている人は、主の聖餐にあずかることができます。

ただし、もう、すでに皆様も御存知のように、このことは、「型」であります。

礼拝の中の聖餐式、パンを食べ、ぶどう酒飲みと、単にそれだけで終わるのではなく、実態としてなされる必要があるのです。

形式だけのものではないということを、どうか御理解ください。

「パン」は、「御言葉」のたとえですので、メッセージに通じることでもあります。

ですから、礼拝において、正しくメッセージを語り、それを受ける、ということを言われています。

このことは、レムナントキリスト教会の礼拝の中で教えていただいたことと、重複するのですが、23節に「渡される夜」と書かれているのですが、これは、KJV訳で、「裏切られる」という風に書かれています。

このことに関して、奥義があることも教えていただきました。

主イエスを渡し、裏切ったのは、イスカリオテのユダです。

このことも、有名なことですので、御存知だと思います。

さて、旧約の「ユダ」という言葉は、新約の「プロテスタント」のことを指します。

何を申し上げたいのかと言いますと、旧約時代の終わり、イエス様がユダに裏切られたことは、新約の時代、すなわち、世の終わりに、イエス様(御言葉)への裏切りがプロテスタントにおいて、再現するということを言われているのです。

そして、そのことは、もう、すでに再現しつつあるということを御理解ください。

たとえば、今まで、再三、例を挙げてきましたが、クリスチャンが艱難を通らないとかヤベツの祈りを奨励するとか、終末やクリスチャンの裁きについて語らない等です。

ですので、御言葉を扱う奉仕者は、メッセージを正しく語るように、努めていかなければいけません。

御言葉を正しく伝えないということは、御言葉への裏切り、冒涜であり、極端なことを言うなら、イスカリオテのユダと同様、結果としてキリスト殺しに加担してしまうことになるのです。

今は、目に見えるイエス様はおられませんが・・・イエス様御自身が御言葉ですから、もし、聖書を曲解したり改ざんしたり、取り除いたりするというのは、そういったことが言えると思います。

そして、こういったことを悔い改めないのなら、イスカリオテのユダと同じ運命をたどることになります。

はっきりいうなら、クリスチャンであっても、はたまた、ユダのように弟子として歩んでいても、滅ぼされてしまいます。

ユダに対して、イエス様がおっしゃったことを覚えていますか?

「人の子を裏切るような人間はわざわいです。そういう人は生まれてこなかったほうがよかったのです。」と。

何を言われているのか、もう、お分かりかと思いますが・・・

人の子とは、イエス・キリストです。

イエス・キリストは御言葉です。

クリスチャンであっても、御言葉に従わない人は、呪いを受けるということ、そして、あわや、そのような人はクリスチャンにならなかったほうがよいということを言っているのです。

ちなみに「生まれる」とは、新生すること、すなわち、クリスチャンになることを言っています。

改めて考えてみると、このとき、主は、恐るべきことを言われていることに気付かされます。

もっと言うなら、中途半端に歩むくらいなら、クリスチャンにならないで未信者のままでいるほうがいいと・・・そんなことではないでしょうか。

ですから、私たちは、御言葉に恐れを持たなければいけません。

繰り返しますが、語る立場の人は、聖書が言われている通りに語っていかなければいけません。

また、メッセージを受ける人たちも、聖霊にあって、きちんと吟味して、受け入れていかなければいけません。

24節についても、礼拝の中で教えていただいたことなのですが、新改訳聖書の脚注には「あなたがたに裂かれたわたしのからだ」と書かれてあります。

このことは、分裂のことを言われているという風に教えていただきました。

もちろん、このようなことは、よいことではありません。

ちなみに、「分裂」という言葉の意味合いは、「異端の教えを持ち込む」と、そんなニュアンスがあることを、このことも礼拝のメッセージの中で教えていただいたように思います。

やはり、新約時代の終わりに、異端的な教理がキリスト教会を席巻すると、そのようなことを言われているのだと思います。

主からのものでないメッセージは、残念ながら、人を永遠のいのちに導くことはできません。

聖書に書かれていないような教えを語るなら、最悪、滅びに至らせてしまいます。

何でも、メッセージをすればいいというものではないのです。

また、メッセージを聞く立場の人々に関しては、メッセージだったら何でもいいということではないということを主は、厳粛に言われているという点に関しては、よくよく御理解ください。

 

最後に25節をみてみたいと思います。

「わたしの血」とは、「キリストの霊」のことです。

このことも、礼拝の中で学んだことなのですが、キリスト教会の中に、キリスト以外の霊もあるので、気をつけていきたいと思います。

たとえば、トロントブレッシングは、悪霊を下す集会です。

あろうことか、ベニー・ヒンは、「デーモン、デーモン」と言って、悪魔を呼び寄せて、そこに集っている会衆にそれらを下しているのです。

悪霊の影響を侮ってはいけません。

悪霊や聖霊以外の変な霊が下されるなら、そういった霊の影響を受けてしまい、霊的に物事を正しくとらえられなくなってしまいます。

霊的に惑わされて、あわや、正しく歩むクリスチャンに難癖を付けたり、迫害するように至ってしまう可能性があります。

もし、悔い改めないなら、結果として、滅んでしまいます。

ですので、私たちは、いつも、聖霊の力を祈り求めていかなければいけません。

そのためには、絶えず、祈っていく必要があります。

一日に、2時間?3時間?いいえ、もっとです。

なぜかと言いますと、目には見えなくとも、闇の勢力は、終わりに向かうにつれて、益々、盛んになっていきますので・・・それらに対抗するには、祈りの香を絶えずたいていかなければいけません。

祈りが枯渇してしまうと、あっという間に惑わされてしまい、知らず知らずのうちに、敵の領域に足を踏み入れてしまうことになります。

これは、脅しではなく、実際に自分自身が身をもって体験していることだからです。

聖書にも、「どんなときにも、御霊によって祈りなさい」と書かれています。

それに続いて「そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい」とあります。

言いたいことは、祈りが弱いと、霊的に眠ってしまう、そんなことでしょうか。

霊的に眠るとは、罪に陥ることにつながるのではないでしょうか。

こういったことにならないように聖書は前もって、懇切親切にこのようなことを書いてくださっていますので・・・

私たちは、終わりのときにむけて、時間のあるかぎり、力のあるかぎり、祈り、御言葉に触れて、全力を尽くして、益々主のわざに励んでいきたいと思います。

キリストの霊と御言葉だけが、唯一、私たちを永遠のいのちの道に導いてくださいますので・・・

ぜひ、そのことを念頭において、絶えず神様に恐れをもって、この地上での日々を厳かに過ごして、クリスチャンが入るべき天の御国を目指していきたいと思います。

 

「聖餐」について、長い間、勘違いしていました。

以前の教会でのことですが・・・その教会では、月に一度、聖餐式を行っていました。

第一聖日の時に、聖餐式が行われていました。

そのことに関して、ある方が、こんな風におっしゃっていました。

「私ね、仕事の関係で、いつだったか、聖餐式の日に礼拝を休んだことがあってさぁ・・・そしたら、その月は、色々と大変な目に遭ったんだよね。いわゆる、災いっていうのかなぁ?だから、聖餐式がある日は、何が何でも、礼拝に出席したほうがいい」と。

また、ある御夫妻は、その日、やむを得ず、礼拝を欠席しなければいけない理由があり礼拝には参加されなかったのですが、その日の夜に、パンとぶどう酒を飲むために、わざわざ、教会に足を運んだということを耳にしました。

つまり、パンとぶどう酒を飲まないと、大変な一ヶ月になるという、そんなことでした。

私は、そのことを真に受けていましたので、聖餐式が行われる日には、欠かさずに、礼拝に出席していました。

もちろん、クリスチャンは毎週欠かさずに礼拝を捧げたほうがよいのでしょうが、第一聖日は、特に、注意をしていました。

でも、のちになって、もう、大分経ってからのことですが、それは、大きな勘違いであることに気付きました。

メッセージの中でも、話をさせていただきましたように、パンとぶどう酒を飲むことは、型であり、そのことに力点を置くことに意味はなく・・・

日頃の歩みにおいて、主の聖餐にあずかっているのか?が、いかに大切であるのか?について、レムナントキリスト教会の礼拝メッセージやHPのメッセージをはじめ、御言葉から、そのことを学ばせていただきました。

つまり、いつも、祈りと御言葉に触れているのか?それこそが、真の意味合いの聖餐なのではないかと理解してから、そのことを実践していこう!と、そんな風に導かれました。

それこそ、霊的に盲目だったがゆえに、このような勘違いをしていたのですが、常日頃、祈りと御言葉に触れているということは、いかに大切なことだということを本日の箇所を通して改めて主が語ってくださったように思います。

まだまだ、霊的に見えていなかったり、聞こえていなかったりすることばかりですが、益々祈りと御言葉の奉仕に励んでいく中で、見えたり、聞こえるようになっていきたいと思います。

本日も主が大切なことを語ってくださり、感謝でした。

主に栄光を帰します。