聖書箇所 Ⅰコリント人への手紙14:1

 

14:1 愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。

 

「預言の賜物を熱心に求める」というテーマで、御言葉に沿って、みていきたいと思います。

 

冒頭の御言葉にありますように、「愛を追い求める」ことは、とても大切なことです。

Ⅰコリント人への手紙の13章には、終始一貫、「愛」について書かれています。

ですから、私たちが、キリストの愛を求めて、それによって、行動していくことは、とても大事なことですし、また、そのことは、クリスチャンとして、あるべき姿だと思います。

 

さて、本日は、後半の御言葉「特に預言することを熱心に求めなさい」ということについて、ご一緒に学んでいきたいと思います。

ここでは、御霊の賜物を求めていくことについて言われています。

ですから、預言の賜物に限らず、霊の見分けの賜物や奇跡を行う力や異言を語ったり解き明かしたりする賜物等も積極的に求めることが推奨されています。

ただ、あえて、「特に預言することを熱心に求めなさい」と書かれていますので、このことについても、素直に読み、理解し、実践していくことは大切だと思います。

預言の賜物や預言の働きについて、今まで、何度かメッセージの中で触れましたが、そのことに関して、再度、御言葉を通して確認をしてみたいと思います。

 

ヨエル書や使徒の働きの中で、預言について、このように言われています。

 

ヨエル書2:28

2:28 その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。

 

使徒の働き2:16,17

2:16 これは、預言者ヨエルによって語られた事です。

2:17 『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。

 

ここで言われているように、終わりの日、すなわち、終末の日というのは、神様の霊がすべての人に注がれる時なのです。

聖書に書いている以上、そうなのです。

そして、今は7つ目のミレニアムの時であり、(神が天地を創造されてから6,000年が経ち、7つ目の千年期に突入している時)まさに、今の時代を生きている私たちは、終末の日にいるのです。

重ねて申し上げますが、御言葉で言われている「終わりの日」なのです。

ですから、私たちが、そういったことに、気づいているかどうかは別として、もう、すでに、神様の霊というのが、注がれている時とも言えるのです。

 

私自身のことで、恐縮ではありますが、このことは、自分が実際に身を持って体験させていただいていることですので、少し話をさせていただきます。

何度か、話をしていますように、私は、今から、3年半ほど前に、弟子の歩みを始めました。

歩みだしてから、半年後に、預言の賜物を求めるようになり、預言の訓練をするようになりました。

そして、そのことは、今でも、日課として行っています。

はじめの頃は、預言をしているという実感がほとんど無かったのですが、日々、このことを積み重ねていく中で、確かに神様が語っているなぁと思うようになっていきました。

もちろん、神様だけでなく、サタンも悪い意味合いで預言を用いるので、100%神様からものだ!とは、言えないのですが、単に預言をするだけでなく、その後、聖霊にあって吟味していく中で、神様からのものか、そうでないのかという判断も少しずつ出来るようになっていきました。

そして、預言を通して、何が良いのか?何か役立つのか?と、言いますと、いろーんなメリットがあります。

それは、教会での働きの方向性を確認が出来たり、何か問題やトラブルが生じたときとかの対応方法に関しても、求めていくときに、神様が語ってくださり、人知を超えた方法で解決へと導いていただいたりしています。

そのほかにも、挙げだしたらキリが無いのですが、間違えた方向を歩んでいたりするときに、そのことを指摘していただいたり、正していただいたりもしています。

預言の賜物を熱心に求めることを実践して、本当に良かったなぁ、色々と助けられているなぁと、日々、実感しています。

 

要するに、人の思いや考え、知恵や能力は、それが、どんなに優れているものであったとしても、限りがあるのですが、神様の力は、そんなものとは計り知れないものだということです。

また、人は時として間違えたり、勘違いをしたりしますが、神様は、完全なお方ですし、お一人一人に何が必要かもご存知ですので、求めていくときに、その都度、必要な預言を与えてくださいます。

ですから、御言葉に書かれているように、もし、そのことを素直に実践していくのなら、そのような素晴らしいメリットを受け続けていくことができるのです。

また、同章の2節以降には、預言の賜物のことが、異言の賜物のことと対比して書かれているのですが、異言は、その人自身の霊の満たしには有益ですが、他の人には、ほとんど益をもたらすことはありません。

このことに関しても、自分自身の体験から、はっきりと申し上げられることですが・・・

私は、レムナントキリスト教会に行く前には、ペンテコステ派の教会に所属していました。

そこでは、礼拝、祈祷会、証会等、集会という集会、要は、すべての集会の中で、お祈りの時間、信者が一斉に異言のお祈りをしていました。

聖書に書かれているように、それぞれの人が神に向かって話しているので、その人自身は、霊の満たしや喜びを受けます。

でも、解き明かす人がいないので、異言を語る人以外は、徳を受けることはないのです。

もちろん、だからと言って、異言の賜物を否定するわけではありません。

このことも実際に、聖書に書かれていることですし、無いほうがいいか?と、いうと、そうではなく、やはり、異言の賜物もあったほうが良いと思いますので、このことも積極的に求めていくように心がけていきたいと思います。

ただ、聖書に書かれているように、もし、異言の賜物を教会で用いるのであれば、必ず、解き明かしをする人が必要です。

また、このことも、聖書に書かれていることですが、もし、解き明かす人がいないのなら、教会では黙り、自分だけで神に向かって話すべきなのです。

しかし、預言は、教会や人の徳を高めたり、たてあげをしたりするので、教会の中で、預言をすることが、奨められていることについて、うなずけると思います。

ゆえに、「特に預言することを熱心に求めなさい」と書かれているのです。

レムナントキリスト教会では、預言の賜物を熱心に求めています。

そして、毎週の礼拝の中で、預言を用いています。

そのことを通して、神様の働きを担ったり、歩みが強められたりしています。

また、このことも、以前、話したと思いますが、「賜物」は、英語で、「gift」と書かれています。

つまり、私たちが真剣に求めるなら、神様からの「プレゼント」として与えられるのです。

昨今、キリスト教会の中で、「預言」の賜物を用いているところが、あまり無いように思うのですが・・・

少なくとも、今まで、私が、行ったことのある教会や集会の中で、預言の賜物を用いているところは、皆無でした。

でも、求めていくときに与えられるのですから、求めないと、絶対に損だと思います。

いいえ、「熱心に求めなさい」と、命令形で書かれているのですが、求めていくべきです。

もし、求めないなら、働きの方向性がズレてしまったり、神様の御心を捉えられずに歩みや働きが的外れになっていくとも、言われているのではないでしょうか。

大げさな!と、おっしゃるかも知れませんが、私は、そんな風に、この箇所を理解しました。

たしかに、賜物を求めたり、預言の訓練を実行する前までは、半信半疑でしたが、今は、預言の賜物は信仰生活に、不可欠!とも、言い切れます。

事実、実践していく中で、今日のこの1節の御言葉の意味合いについても、理解したくらいですから・・・

もし、不信仰になって、このことを実行しなかったら、この点に関しても、いいえ、別のことに関しても、いまだに、霊的に盲目なことがいくつもあったように思います。

もちろん、まだまだ、知るべきことは山積みですので、これからも求めて続けていきたいと思います。

そういうわけで、皆様にも預言の賜物を求めることをぜひ、おすすめいたします。

エレミヤ牧師が、礼拝のメッセージで、たびたび言われていることですが、御言葉に書かれていることは、どんな小さなことでも、忠実に行っていく人に恵みや祝福がありますので、こういった点に関しても、目を留めておいていただけたらと思います。