聖書箇所 Ⅰコリント人への手紙15:52-58
15:52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
15:53 朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。
15:54 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。
15:55 「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」
15:56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
15:57 しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。
15:58 ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。
「罪に勝利して永遠のいのちを得る」というテーマで、御言葉に沿って、みていきたいと思います。
上記の箇所もそうですが、Ⅰコリント人への手紙の15章全体は、「死者の復活」や「よみがえり」について、書かれています。
そして、つい、数ヶ月前に、礼拝の中でこの箇所について学びました。
そのときに、エレミヤ牧師から、「復活」と「勝利」は、とても密接な関係があるということについて、教えていただきました。
上記御言葉において、「勝利」という言葉が、繰り返し使われています。
何に対して勝利するのか?と、言うと、まさに、本日のテーマに掲げましたように、「罪」にです。
結論を言うと、「罪」に勝利し続ける人が、イエス・キリストのように、復活し、よみがえる、そのようなことを言われているのです。
ところで、昨今、キリスト教会で言われている教理について、少し、考えてみたいと思います。
「神様は愛のお方」であることが、やたらと強調されていたり、「クリスチャンは、皆、天国」ということが言われたりしていないでしょうか。
そんなことはない!日々、怒る神様だし、罪はきちんと悔い改めないと永遠のいのちは危ない!と、そのように教えていただいているのでしたら、結構です。
私自身、ここ、数年の間、他の集会に行っているわけではありませんし、キリスト教書店で販売されている本を読む機会もめっきり無くなりましたので、最近のキリスト教会の状況というのをよく知りませんが、レムナントキリスト教会に通う前の教会では、終末や再臨は背信のクリスチャンへの裁きということについては、語られていませんでした。
そう、まさに、裁かれるのは、神様を知らない未信者であって、クリスチャンは、皆、天国行きという教えでした。
もちろん、「罪」についての悔い改めについては語っていましたが、それが、「復活」の条件であるということについては、言われていませんでした。
全く言わないよりかは、良いとは思いますが、命がけで、「罪」と戦うということや「罪」に負け続けていくと、永遠のいのちが危ないという点について、きちんと言わなければいけないのでは?と、思います。
もし、私たちが、罪に陥り続けていくのなら、分かりやすく言うと、罪に負け続けていくのなら、確実に滅んでしまいます。
今の時代、「罪」と真剣に向き合っていくという風潮は消えつつあるように思います。
それどころか、義が不義と呼ばれ、不義が義と、そんな風に転じているようにも思えます。
たとえば、この間、礼拝のメッセージの中で聞いたことですが、アメリカの牧師さん数人が、あるスーパーで路傍伝道をしていたら、逮捕され、警察署に連行されたそうです。
理由は、「逃げ場の無いところで、スピーチをした」とか、はっきりしたことは、よく分かりませんが、いずれにしてもそんな風な訳の分からない法律が持ち出されたり、言いがかりをつけられたりして、捕まってしまったそうです。
箴言に、こんな御言葉があります。
「悪者を正しいと認め、正しい者を悪いとする、この二つを、主は忌みきらう。」
ですから、私たちは、正しいことを正しいと認め、悪いことを、悪いとしなければいけません。
すなわち、罪から離れていかなければいけないのです。
「罪」の特徴について、このことも、以前、礼拝のメッセージの中で教えていただきました。
「罪」の大きな特徴は、その人の弱い部分にしつこく働き、そして、いつまでも、引っ張ることです。
サタンは、人間より、知能が高い存在です。
私たちの、一人一人の弱いところをよく知っていて、そこに、しつこく働きかけてきます。
悔い改めをさせないように、仕向けてきます。
ふと、以前、行っていた教会の方がこんな風に言っていたことを思い出します。
「サタンが一番嫌がるのは、私たちが悔い改めること」だと。
確かに、それは、そうだなぁと、私も思います。
続けて、その方は、こんな風に言っていました。
「ある罪を示されていて、その罪を悔い改めれば、その罪に関しては、サタンは攻撃をあきらめる。でも、それで、サタンが落ち着くわけではなく、また、別のものを持ってくる。それに私たちは、勝たないとダメなの」と。
そのことに関しても、「そうだっ!」と、うなずくものがありました。
サタンが私たちから永遠のいのちを奪う策略のひとつとして、「罪」を悔い改めさせないということについては、よくよく、覚えておかれると良いと思います。
人のことは、よく、分かりませんが、私自身、思い当たることが、いくつもあります。
たとえば、今は、こんな風に弟子として歩んでいますが、エレミヤの部屋のHPのメッセージを読みながらも・・・そこには、主の弟子として歩むことについてのポイントについて再三書かれているのですが、それにもかかわらず、はじめの頃は、群集の歩みでも、天の御国を受け継げるなんていう安易な考えがありました。
それどころか、既存の教会(そこでは、艱難前携挙説をはじめとするアメリカのバビロン由来の教理が広がっていたのですが)に、とどまり続けながらでも、天の御国を目指せるかも?!と、いう甘い考えをしばらくの間、抱いていました。
しかし、そのことに関する、主からの語りかけを受けました。
「そこにとどまっていてはダメだ、私に従うならそこを出なさい」と。
そして、思い切って、ある日を境に、そこの教会を出て、レムナントキリスト教会に行くことにしました。
その1ヶ月後には弟子の歩みにも入らせていただきました。
それまで行っていた教会を出て、群集の歩みをやめて、弟子として歩むようになって・・・要は、的外れなこと(罪)から離れて、改めて、見えなかったものが少しずつ見えるようになったり、理解できなかったものを少しずつ理解するようになっていきました。
もしも、そのまま、方向を変えずに、誤った場所にとどまり続けていたら、いつになっても真理を見ることなく、御言葉にとどまることもなく、成れの果ては、行きたくもない滅びの場所へとストレートに入ってしまったのではないかと思います。
改めて考えると、ゾッとします。
もちろん、今、話しをしたことは、ほんの一例ではありますが、その都度、主が促されている罪や悔い改めに関して、きちんと向き合っていくことは、とても大切だと思いました。
悔い改めをしてみて、はじめて理解したり、霊的に見えなかった部分が見えるようになったりすることが、たくさんあるからです。
さて、「罪」に勝利するためには、具体的には、どうすればいいのか?について、話したいと思います。
さっきも話しましたように、確かに、私たちは、なかなか、「罪」から離れられない存在であります。
でも、「罪」を持ったままだと、御国を受け継ぐのは、難しい、と、言いますか、厳しいと思います。
ありとあらゆる「罪」があり、それらは、ある意味、私たちの信仰の真価を問うために、神様に赦されているということもご理解ください。
聖書にも、神は、人を試すということについて、書かれています。
ですから、私たちが罪を犯しやすい存在であるということも、すでに、神様はご存知なのです。
ソロモンが、「罪を犯さない人はひとりもいないのですから、もし、悔い改めるなら、赦してください」というような祈りを捧げていますように、罪を犯してしまうのは、いたしかたのない事実ではあります。
だからと言って、そのまま放置して良いのか?と、言うと、それは、ダメです。
たとえ人間的にはたいしたことがないように見えても、主から指摘を受けたり、悔い改めを促されたりしたら、きちんと、その声に応答していきたいと思います。
確かに、罪は、しつこいもので、私たちをどこまでも引っ張ろうとしますが、決してあきらめないでください。
「祈り」によって、どんな罪であっても、必ず、解放されるからです。
もちろん、1分、2分の祈りでは、ダメであることは、言うまでもありません。
「罪から解放された!!」と、確信が持てるまで、しつこく祈っていくことにポイントがあります。
もし、あなたが、ある罪によって悩んでいたり、信仰の足かせになっていたりしていると感じていることがあり、そのことから真剣に解放されたいと願っているのでしたら、即、実践してみてください。
すぐには、解放されないかも知れませんが、祈りを積んでいくことによって、鎖に縛られていたものが解かれていくように、そんな風に、少しずつ、罪から解放されていくことを実感できるようになっていくと思います。
しつこく、引っ張り、なおかつ、一度悔い改めても、また、罪に陥らせようとする、敵の並ならぬしつこい力に、私たちも、全力を尽くして、抵抗していくためには、そう、まさに、しつこく、しつこく、主に祈ること意外、解決方法は無いと申し上げても過言ではありません。
ヘブル人への手紙に、こんな御言葉が書かれています。
「あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。」
ここに、「戦って」とありますが、「勝利」を得るためには、やはり、「罪」と戦っていくことが必要であることがここでも、理解できるでしょう。
それも、単に、戦うのではなく、ここに書かれているように、「血を流すまで抵抗する」ことです。
滅びないために、何がなんでも、永遠のいのちを得るために、全力を尽くして、罪と戦え!と、厳しい言い方ではありますが、そんなことを言われているのです。
私自身の証ですが・・・私は、いくつもの、いえいえ、たくさんの罪を持っている者ですが、その中に随分長い間、持ち続けていた罪がありました。
神様から、悔い改めるように、何度も何度も促されていたのですが、そのことに関して、祈りが弱く、失敗の連続でした。
でも、やはり、悔い改めないと、ロクなことにならないということが分かっていましたので、真剣に祈るようにしました。
一週間、一ヶ月、一年、二年と・・・かなりな期間を要しましたが、神様の不思議な方法によって、その罪から解放されました。
正直、途中で、あきらめようとしたり、ある程度のところで妥協しようかなぁと考えたりしなくもなかったのですが、ひたすら、神様の力だけを信じていこう、自分には出来なくても、この方にお願いすれば、すべてが可能になるに違いないと、そのような思いを一心に持ち続けていきました。
その結果、御言葉は、真実だなぁと、改めて、思いました。
イエス様が、弟子たちに、「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできるのです」と、おっしゃったことは、事実だと思いましたし、そのことが自分にも、該当し、成就したことは、恵みですし、そのことを通して、勇気や力を得ることができました。
ですから、繰り返すようですが、どんな罪があっても、決して失望したり、あきらめたりせずに、罪から解放されるように、神様に祈り求めみてください。
たとえ、どんな罪であっても、真剣に祈っていくときに、主からの憐れみや人知を超えた神様の力や知恵や方法や導きによって、見事に解放されていきます。
そして、悔い改めたのちには、神様がさらに憐れんでくださって、恵みや祝福を与えてくださいます。
このことも、聖書にはっきりと書かれています。
「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。」と。
「罪」を犯すのは、確かに良くないことかも知れませんし、まして、故意に罪を犯すことなどは、決して奨励はできませんが、しかし、万が一、「罪」を犯してしまったとしても、その「罪」を放置せずに、きちんと向き合って、勝利していくときに霊的にさらに強められたり、主に、より一層、信頼していく思いも増し加えられていったりもします。
また、「罪」を示されたときには、即座に悔い改められなくても、時を移さずに、まず、そのことを神様の前に素直に認めて、悔い改められるように、祈り求めていくことを心がけていきたいと思います。
誠実さをもって、そのような対応をしていく人を神様は決して見放したり、見捨てたりはしませんので、そのことを信じて実践していきたいと思います。
私たちは明日のいのちも分からないのに・・・「いつか、悔い改めればいい」とか「すぐでなくてもいいよ」とか、そんな風な敵の声にうかつにのってしまって、永遠の悔いを残すことのないように、ぜひ、気をつけていきたいと思います。
レムナントキリスト教会
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