聖書箇所 テサロニケ人への手紙4:28

 

4:2 私たちが、主イエスによって、どんな命令をあなたがたに授けたかを、あなたがたは知っています。

4:3 神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。あなたがたが不品行を避け、

4:4 各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保ち、

4:5 神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、

4:6 また、このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしないことです。なぜなら、主はこれらすべてのことについて正しくさばかれるからです。これは、私たちが前もってあなたがたに話し、きびしく警告しておいたところです。

4:7 神が私たちを召されたのは、汚れを行なわせるためではなく、聖潔を得させるためです。

4:8 ですから、このことを拒む者は、人を拒むのではなく、あなたがたに聖霊をお与えになる神を拒むのです。

 

「神を拒むことのないように気を付ける」というテーマで、御言葉に沿ってみていきたいと思います。

 

この世の異邦人は、すでに神さまを拒んでいます。5節の「神を知らない異邦人のように情欲におぼれず」とありますように、神さまを知らない異邦人の人たちは情欲におぼれています。また、聖書では神さまを知らない人のことを「愚か」とも言っています。

参照 詩篇

14:1 愚か者は心の中で、「神はいない。」と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい事を行なっている。善を行なう者はいない。

 

参照 ローマ人への手紙

1:20 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。

1:21 というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。

1:22 彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、

1:23 不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。

 

上記の御言葉はたしかに異邦人のことを言われています。しかし神さまを拒否するのは、この世の異邦人だけではなく、じつはクリスチャンの中にもいるのです。パウロがあえてテサロニケにいる教会の人々に対してこんな風に警告を与えているということは、クリスチャンであっても「神さまを拒否」するということがパウロの時代に起きていたのだということが理解できるのではないでしょうか?そして今でもなお、こういったことはキリスト教会やクリスチャンの間にもあって、また、特に終末の時代は教会が背教化していくので、益々こういう人が増えていくといことについて前もって暗示しているのでは?という風に思います。

 

さて、ここでは「不品行」とか「情欲におぼれる」ことの結末について書かれています。そのようなことに陥り続けていくときに意識しようとしまいと、神さまを拒んでしまうのです。その結果として、「さばかれる」ことが書かれています。ちなみにKJV訳では、「復讐」とか「報復」という言葉が使われています。その言葉で思い出すのが、Ⅱテサロニケ人への手紙に書かれている御言葉です。

 

参照 Ⅱテサロニケ人への手紙1:8

1:8 そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。

 

「報い」には良いものとそうでないものとがありますが、ここで使われている「報復」とは、悪い意味合いでのもの、つまり「神さまの怒りの裁き」のことを言われています。ですからこのことに恐れを持っていきたいと思います。

また、「不品行」「情欲」という言葉ですが、第一義的には、道義に反した異性の関係や姦淫の罪について言われています。ですから、あるクリスチャンはこのようにおっしゃるかもしれません。「自分は、そんなこととはまったく関係は無い」と。もちろんそのことは立派なことだと思いますし、そのように心掛けたり気を付けていくべきだとは思います。ただし繰り返して申し上げていますように、聖書の言葉には奥義と言われるものがありますので、そのこともみていきたいと思います。ちなみに国語辞典で「情欲」という言葉を調べてみると、「誰もが持っている世俗的な欲望」とも書かれています。「世俗的」という言葉で思い出すのは「この世」という言葉ではないでしょうか?ヨハネの福音書で、神さまは御子を信じる者が滅びることのないように世を愛されたことについて書かれていますが、ではあっても、クリスチャンが常にこの世と線引きしていくことの大切さについても、聖書には書かれています。

 

参照 Ⅰヨハネの手紙2:15

2:15 世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。

 

そうなんです、たとえ肉体的な不品行や情欲の罪を犯していないとしても、世の中のことに陥り続けていくのなら、霊的には、あるいは神さまの目には「不品行」「情欲」と判断されてしまうのです。さらに「欲望」という言葉に関連して、御言葉にも「どんな貪欲にも注意して警戒しなさい」と書かれています。つまり神さまよりも、神さま意外のもの、すなわちこの世のものを愛していくときに、気が付かないうちに、「神さまを拒む」ことになってしまうのです。また、私たちはこういったことに陥りやすいのでは?ゆえにそのことを自覚しながら神さまを恐れて謙遜になって歩んでいかなければいけないのでは?ということをパウロはテサロニケの教会の人々の手紙を通して語っているのでは?と、思います。

 

私自身のつたない証ではありますが、弟子として歩んでいるなら、こういうことから自分は以前に比べたら大分離れているのでは?といったうぬぼれが多少なりともありました。でも、日常的なことや感情思索のことをはじめ、思いのほか、まだまだこの世的な部分が沢山残っているということに、現実起きてくる様々な出来事を通して、身につまされて感じることがあります。いいえ、むしろ弟子として歩むようになってから、あるいは日を追うごとに、上記の御言葉に書かれていることは決して他人事ではなく、自分にも十分に該当するものだという風に感じるようになりました。そういうことで、他の人を傷つけてしまっているのでは?と思うことがあります。もちろん、それを放置していて良いか?というと、そんなことは決してありませんので、気付かせていただいたことは、その都度悔い改めていくことができるように祈り求めていきたいと思います。そうでないと、6節に書かれているように悪い意味合いで裁かれて滅びに入ってしまいますので、気をつけていきたいと思います。

 

繰り返して申し上げますが、パウロが言われていることは、恐らく多くのクリスチャンが陥りやすいことなのではないかと思います。「自分は絶対に大丈夫!」と思う方もおられるかも知れません。本当にそうなら良いのですが、しかし、いくらクリスチャンといっても今はサタンが支配する地上で肉体を持って生活していますので、やはり、かなり意識して気を付けていったほうが良いのでは?と、私個人はそのように思うのですがいかがでしょうか?こういうことに関して分かっていても、失敗を繰り返してしまったり、今すぐに実践出来ないこともあるかも知れません。でも、神さまの前にへりくだって祈り求めていくときに、その都度必要なことを主が教えてくださったり知恵や力を与えてくださったりして、そういったことから少しずつ解放されていったり変えられていったりしますので、そのように心掛けていきたいと思います。また、「この世」の事柄というのは、テレビや雑誌や新聞、お酒や煙草やギャンブルだけに限りません。心の思いや考えや感情、すべてひっくるめてのことを言われていると思いますので、そういったことに深く引っ張られてしまって、神さまを拒むことが無いように気を付けていきたいと思います。そして、いかなることにおいて、少しでも、「この世」と変わらないなぁと思ったら、その時々にあって軌道修正していきたいと思います。本日も大切なことを語ってくださった神さまに栄光と誉れがありますように。