聖書箇所 Ⅰヨハネの手紙4:1

 

 

 

4:1 愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。

 

 

 

「霊を吟味する」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。

 

 

 

クリスチャンもそうですし、未信者の人たちもそうですが、目には見えませんが、私たちは皆何らかの「霊」に導かれて歩みをしたり、生活をしたりしています。そしてどんな「霊」を受けるか?は、非常に大事なことであります。個人的なことではありますが・・・以前は、「霊」に関してあまり深く考えたことはありませんでした。むろん「悪霊」には若干の注意は払っていましたが、それほど気にしてはいませんでした。でも、今は、気にするどころか、日々、「悪しき霊の戦い」だという認識を持ちながら歩みをするようになりました。ではあっても、無意識のうちにも惑わされたり、いつの間にか聖霊以外の別の霊に引っ張られているなんてことは度々ありますけどね。ただ常々、聖霊さまに導いていただくことができるようにお祈りしています。

 

 

 

さて、冒頭のみことばに沿って話したいと思います。「霊だからといって、みな信じてはいけません」と言われているように、この世の中には2つの「霊」があります。もし、私たちの住んでいる世界が「聖霊」だけに満ちているなら、「みな信じてはいけません」とあえて言う必要はないわけです。しかし現実は、「聖霊」以外の別の「霊」が実在するので、注意書きとして書いているのだということは正しくご理解いただきたいと思います。そして「霊が神からのものかどうかを、ためしなさい」とありますように、神さまから来た霊なのか?あるいはそうではないのかを、「ためす」ことにポイントがあります。「ためす」ということばは聖書のあちこちで使われていますが、「吟味する」とか「試験する」いう意味合いもあるようなので、そうしていくように心がけていきたいと思います。もしも別の霊に引っ張られていくときに、神さまが示している方向とは全く違うところを歩んでしまうからです。ゆえに「ためし」すなわち「霊」の吟味は、必須だということをご理解いただきたいと思います。さらに、「なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです」とあります。これは何を言っているのか?と言うと、クリスチャンと称していながらもそのじつ、そうではない輩が「たくさん世に出て来た」ということです。「出て来た」とは過去形ですが、私の見解ではこれは未来、つまり今の終末の時代に起きてくることの暗示だと思います。もちろんヨハネの時代もそうだったと思いますが、しかし世の終わりにこのことはさらに拡大化していくのではないか?と思います。なぜかと言うと、聖書の所々に終末になると「惑わす霊」が送り込まれることが書かれているからです。参照箇所をいくつか紹介しておきますので、お時間がある時に読んでみてください。

 

 

 

  • マタイの福音書24:35、マルコの福音書13:36、Ⅱテサロニケ人への手紙2:10,11

    Ⅰテモテへの手紙4:1、テトスへの手紙1:10、Ⅱヨハネの手紙1:7

     

    また、「霊に気を付ける」ことに付け加えて、「にせ預言者」と書かれています。なので私たちは「にせ預言者」に気を付けなければいけないことが分かります。ちなみに「にせ預言者」とは、どういう人たちなのか?と言うと、KJV訳では「間違えた預言者」とあります。つまり意識的に「俺はにせ預言者になってやるぞ!」というよりも、間違えた教えを正しいと思い込んで伝えている人のことを「にせ預言者」だと言っているのです。ですから外見だけのことを言わせていただくなら、立派な会堂を持ち、信徒も大勢集まっていて、中にはパイプオルガンがあったり、聖歌隊もいて賛美も盛んであったりするのかもしれません。それはそれで良いことではありますが・・・しかし肝心要のメッセージにおいて、たとえば「創世記は神話。進化論は正しい」「艱難前にクリスチャンは携挙があります」「地獄はありません」「クリスチャンと名が付けば裁かれることなく、皆天国です」ということを語るような教師、牧師、神父等の働き人は、残念ながら神さまの前には「にせ預言者」と見なされてしまうのです。いくら神さまのために立派な会堂を建てました、あるいは神さまのために一生懸命働いていると言っても、です。本当に聖書に書いてあれば別ですけど先に挙げた事柄は、どれもこれも聖書のみことばを否定するものばかりです。それらのものはすべて「間違えた教え」なのです。ゆえに「間違えた教え」を語る人は、イコール「間違えた預言者」なのです。そして霊的なことを言わせていただくなら、「間違えた教え」を語ることは、要は、聖霊ではない別の霊、もっと言うなら、本人が自覚しているか否かは別として、「悪霊」に導かれている可能性が大いにあり得るのです。普通、教会で語られるメッセージはすべて神さまからのものだという風に考えると思います。かつての私も、「牧師が教会で語るメッセージは、ほぼ間違えは無い」と思っていました。でも、現実はどうだったか?と言うと、艱難前携挙説が大いに語られていましたし、クリスチャンが入るところは、ほぼ間違えなく天の御国だということが言われていました。当初はそれこそ、「ためし」、すなわちほとんど「吟味」をせずにそのまま受け入れていました。しかし、後になってそれは誤りであるということを聖霊さまの憐れみに示しをいただき、そして教えを「吟味」することはいかに大事なことであるか?ということを学ばせていただきました。どこの教会の牧師や神父もはじめから、「間違えや誤りを語ってやろう!信徒をだましてやろう」なんていう人はほとんどいないと思います。反対にそれが真理だと思い込んで、真面目に語っているのだと思います。しかし結果として誤った教えを伝えているということになっているのだと思います。ただし聞いた話だと、中には「信者が減っては困る」との理由で、「艱難前携挙を語っている」という牧師もいるとのことです。それはそれで大きな問題だと思いますが、しかし大半の働き人、すなわち預言者は間違えを盲信して、そのことを信者の人たちに伝えているのです。もちろんそれが良いわけではありませんのでレムナントキリスト教会では、特に依頼されているわけではありませんが・・・わずかながらも、指導の任にあたっている立場の人たちが正しく真理を伝えることができるように、とりなしや働きをさせていただいています。それはそうとして、しかしメッセージを聞く信徒のお一人一人も聖霊にあって、教えが神さまから来たものなのか?そうでないのか?については、吟味する必要があるのでは?あるいは責任を負っているのでは?と、思います。

     

    繰り返しますが、「にせ預言者がたくさん世に出て来た」とありますように、残念ながら今の時代は、「にせ預言者」すなわち「間違えた教師や牧師や神父」が多い時代であるということを前提にその都度教えを吟味して、正しく受け入れて歩んでいきたいと思います。先日、礼拝メッセージで詩篇37篇から教えていただいたことですが、「間違えた」教えに関しては、バックにいる悪しき「霊」、すなわちサタンがからんでいて・・・そしてなぜ、サタンがそういうことをするのか?と言うと、サタンがクリスチャンの永遠の命を妬んでいて、「にせ預言者」を通して一人でも多くのクリスチャンがおかしな教理に入るように画策をしているのです。つまりその背後には「霊的」な存在があるということです。サタンがそのために人を用いるのだということを、私たちはよくよく正しくとらえなければいけません。ゆえに、教えや霊に関しての「吟味」が大事なのです。

     

    それでは、「吟味」の仕方について、最後に少し話したいと思います。これはいつも申し上げていますように、「祈り&聖書通読」を日々、行っていくことです。「祈り」によって、聖霊に導かれていくように常々心がけていきたいと思います。聖霊ではなく、悪霊に引っ張られていくなら、分別をつけることはできないからです。また、みことばがどのように語っているのか?について知ることも大事なポイントです。みことばをあやふやに握っている時に、あわや別の教えに引っ張られてしまうなんてことになりかねませんので・・・しかし、祈りによって聖霊に導かれ、聖書のみことばをきちんと読んでいく中で正しい教えを理解していけますし、はたまた徐々にではあっても霊の見分けもできるようになっていきますので、少しずつでもこのことを習慣にしていきたいと思います。また、神さまの御心を行っていくことに絶えず目を注ぐようにも心がけていきたいと思います。そうしていくなら、多少なりとも変なものを掴んでいたとしても、あるいは惑わしに入っていたとしても、神さまの憐れみによって示していただいたり、正しい方向に軌道修正していきながらも歩んでいけるようになりますので、ぜひ実践していきたいと思います。そしてやはり、どんな人でも、あるいはどんなに素晴らしい器と言われる人であっても、どこかに必ず誤りはありますので・・・そして場合によっては、悪しき霊に引っ張られてしまう時もありますので・・・そう、この世において100%という預言者は皆無だということを前提に、その都度その都度神さまに聞いて、正しい教えや霊を受けていきたいと思います。この世においてどんな教えや霊を受けるか?は、後の世に入るべき所に入れるかどうか?を大きく左右するものとなりますのでこういうことに関しても、ぜひ正しくとらえておきたいと思います。

     

    メッセージと符号する証かどうかは分かりませんが・・・私は大分前に、ある人に誘われて「癒しの集会」に行きました。アメリカの有名な器で癒しの賜物があり、年に一度は来日しているということでしたので、何の疑問も持つことなく出かけました。そこにはかなりな人が集まっていて、はじめは皆で賛美をし、その後、一時間ほど「聖霊」に関してのメッセージがあり、最後に癒されたい人は前に出てきて祈っていただくという流れでした。「癒し」が目的だったので、当然私も皆に続いて前に出て行きました。そして、癒しのお祈りをしていただきました。一人一人順番にお祈りをしていただいたのですがその時に、ある男性がお祈りをしてもらってからすぐに倒れました。皆がその時に「これは聖霊の働きだ」というようなことを言っていたように思います。それ以前にも、それとは別の機会に癒しのお祈りをしている間に女性が倒れたことを見たことがあったので、私も特に疑問に思うことなく、「うんうん、それは聖霊の働きだ」と思ってその日はそのまま帰りました。

     

    それからしばらく時を経て・・・その当時通っていた教会を離れて、レムナントキリスト教会に行くようになってから・・・ある時、外国の某リバイバル集会のビデオを自宅で観る機会がありました。するとそこには悪魔礼拝者と呼ばれる器がいて、「デーモン、デーモン」と口ずさんでいて、なんと多くの人が倒れたり、笑いのとりこになったりしているではありませんか?!そこにいる人たちは、その現象が聖霊の働きだと勘違いしているようでしたが、しかしサタンを呼び寄せている器から聖霊の働きが出るなんてことはありませんよね。もちろん私がかつて出かけた集会の器は、そんなことは口ずさんではいませんでしたが、しかしいずれにしても、人が倒れるという現象、いわば異常な現象は聖霊の働きではないことをその時に理解しました。かつてイエスさまもそうでしたし、また、主の弟子とか使徒と呼ばれる人が癒しの賜物を用いて人を癒されたのはたしかですが、しかしその時(癒された時)に「立ち上がった」記述はありますが、でも癒された後に、「倒れた」とか「倒された」という記述はどこにも見当りません。「癒し」に関して聖書には、ただ「主は癒された」とか「イエスは盲人の目を開けられた」ということが淡々と、しかも静かに書かれているだけです。今にして思えば・・・もし、本当に聖霊に導かれて癒しの賜物を用いる器なら・・・聖書の視点から言わせていただくなら人を起き上がらせることはあっても、恐らくその逆は起きないはずなのです。ですから働き人を通して賜物が用いられたとしても、必ずしも聖霊からのものとはかぎらないのだということが分かりました。キリスト教会において種々の働きがあり、それに携わる働き人々がいますが・・・それこそどんな働きや働き人であっても、「霊」の吟味は大事なのだなぁということを改めて教えられたように思いました。本日もみことばから大事なポイントを語ってくださった神さまに栄光と誉れがありますように。