聖書箇所 Ⅰヨハネの手紙5:14

 

 

 

5:14 何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。

 

 

 

「二種類の祈り」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。

 

 

 

冒頭のみことばにおいて、「何事でも神の御心にかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださる」とあります。もし、私たちが神さまの御心にかなうお祈りを捧げるなら、「聞いてくださる」とあるように、お祈りに応えていただけるのです。

 

 

 

ところで、「御心にかなう願いをするなら」のことばに、何か語りかけを感じませんでしょうか?「もし・・・するなら」という、まぁ英語では、“If文”という表現が妥当でしょうか?これって、いわば条件付のような言い回しだと思いませんか?「もしも、神さまの御心にかなうなら・・・」と。そしてその条件を満たすなら、「聞いてあげますよ」と、そんなことをこの箇所では言われているように思うのです。

 

 

 

さて、一般的にクリスチャンになったら、ほとんどの人が大なり小なり神さまにお祈りをすると思います。ごく稀に、祈ったことがないなんていう方もおられるようですが、基本的にはイエスさまに多少なりともお祈りをしている方が多いと思います。神さまにお祈りをしているのはクリスチャンだけではない、他の宗教の人も祈っている、なんていう意見も耳にすることはあります。しかし、「イエスの御名によって」お祈りするのは、クリスチャンだけですよね。ゆえに私たちクリスチャンが神さまに捧げるお祈りは、非常に尊いものであると言えるのです。しかしだからと言って、そしてイエスさまの御名によってお祈りしたからといって、すべてのお祈りを神さまが聞いてくださるか?というと、本日のみことばから察するに、そうではなさそうです。もちろん祈りをするかしないかどちらが良いかと言えば、それは当然祈ったほうが良いのではありますが、しかし、「御心にかなう願い」とは反対に、神さまの前に「御心に沿わない祈り」というものもどうやら実在するようです。そしてそのようなお祈りに関しては聞いてくださらないと、そんな風に思えるのです。「ええっ、そんなことない。神さまだから何でも聞いてくれるはず」とおっしゃる方もいらっしゃるでしょう。正直、かつての私もそう思っていました。何でもかんでも、聞いてくださって応えてくださると・・・でも本日のみことばもそうですし、今までの経験を通して何となく理解したことですが、やはりみことばが言うことが正しく、神さまの前に受け入れられない願いもあるということをだんだんと御霊に感じるようになっていきました。なので神さまの意思に反した祈りに関して著者は、ほぼ却下するようになりました。

 

 

 

それでは、御心にかなう願いとそうでない願いに関して見てみたいと思います。この区別が付けられないと、「祈り損」なんていうことになってしまいますよね。それこそ時間も労力も費やした挙句、しかし御心に反していたためにいつになっても聞いてもらえないなんていうことは、極力避けていきたいですよね。そのためには、どういうことが御心にかなうことでそうでないのか?について多少なりとも知っておく必要があるのでは?と思います。それに関して、私なりに示されたみことばがありますので紹介したいと思います。

 

 

 

参照 マタイの福音書6:7

 

6:7 また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。

 

 

 

上記のみことばは、イエスさまが言われたことです。この箇所をKJV訳で見ると、日本語とは若干意味が異なります。「異邦人」のところは、「異教徒」とあり、「同じことば」の部分は、「無駄なことば」「空虚なことば」と訳されています。要するに異教徒、すなわち神さまを知らない人たちのように、空しいことばかりを祈ってはいけないと言われているのです。また、「異邦人」と言えば、こういうみことばもありますよね。

 

 

 

参照 マタイの福音書6:31,32

 

6:31 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。

 

6:32 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。

 

 

 

これもイエスさまが言われたことですが、ここでも異邦人が求めているものについて、イエスさまが奨励していないことが言われています。32節で「異邦人が切に求めているもの」ということを言われています。「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか」と書かれているように、多くの異邦人、すなわち未信者はこの世の日常的なことに心が傾いています。ゆえにこのようなものを求めるわけですが・・・でも、この世の神さまを知らない未信者の人たちは、ある意味仕方がないのでは?と思います。しかし問題は、クリスチャンと呼ばれる人の中に、こういうものばかりを求めている人たちがいる、ということです。もちろん生活に困窮していたり、あるいは失業していてまったく立ち行かない状態の場合は別です。「それがみなあなたがたに必要であることを知っておられる」と書かれているので、そういう場合は祈り求めて良いのです。私も過去、何度となくお祈りしたことがありますし、その度に必要な助けを神さまから受けてきましたので・・・また、今後もそういう時にはお祈りしていくつもりです。でも、生活に特別支障がなかったり、概ね必要なものが揃っている時には、そのことを必要以上に祈り求めたり、あるいは日常生活に関わる祈りのみということには御心はないのでは?と思います。32節のみことばに続いて、「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」と書かれているからです。たしかに生きていく上で、住むところや着るものをはじめ、色々と必要なものはあるでしょう。でも、「神の国と~それに加えて、これらのものはすべて与えられます」とありますように、「神の国とその義」すなわち神さまに従っていくことを祈り求めていくことが非常に大事なのです。もし、本当にそのことを第一優先にするなら、「これらのものはすべて与えられます」のみことばが必ず成就していくのです。私自身、経済のことでは多少なりとも苦労することはありますが・・・でも不思議なことに、神さまから示されている歩みや働きをそれなりに優先していく中で今まで守られてきましたし、もし、そのことをきちんと続けるなら、きっと今後も守ってくださると、そんな風に信じています。話はそれましたが・・・そう、もし私たちが異邦人、すなわち未信者が求めているような祈りばかりを捧げていくなら、残念ながら神さまは聞き入れてくださらないということがお分かりになったでしょうか?具体的に言うなら、「マイホームが欲しい」「給料がさらにアップしますように」「高級車を手に入れたい」「豪華客船で世界一周の旅を満喫したい」等、いわば肉の欲求を満たすような祈りばかりをしていくことには御心はないのです。もちろん個々の人が何をお祈りするか、何を願うか、なんてことは自由ですのであえて引き止めはしませんが、ただし、そういうことばかりを優先するなら、神さまの御前には受け入れられないと可能性がある、もっと言ってしまうなら、「空虚な祈り」あるいは「無駄な祈り」と言う風に見なされてしまう可能性があるという点については、正しくご理解いただきたいと思います。

 

 

 

それでは、どういう祈りをするなら神さまに受け入れていただけるか?について話したいと思います。同じⅠヨハネの手紙5章16節からそれに関してのヒントを得ることができます。

 

 

 

参照 Ⅰヨハネの手紙5:16

 

5:16 だれでも兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。そうすれば神はその人のために、死に至らない罪を犯している人々に、いのちをお与えになります。死に至る罪があります。この罪については、願うようにとは言いません。

 

 

 

「いのちをお与えになります」のみことばが、その答えになるのでは?と思います。「いのち」とは、「永遠の命」のことです。また、Ⅰテモテ2章には、「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます」ということが書かれています。「いのち」「救い」は、どちらも「永遠の命」に直結することです。さらにイエスさまご自身は、「わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来た」とおっしゃっています。いずれも神さまは、またイエスさまは、多くの人に、そしてできることなら、すべての人に「永遠の命」を与えたいと思われているのです。つまり多くの人が「永遠の命」を得ることにつながるお祈りが、「御心にかなう願い」なのです。絶えずそのことに着眼した祈りを捧げるなら神さまはお聞き届けてくださり、応えてくださるのです。たとえば「一人でも多くの人が救われますように」「メッセージが掲載されたHPに多くの人がアクセスできますように」「多くの人が真理を見ることができますように」「献身の歩みができますように」等です。私事ではありますが、「献身」の歩みに関して、多少なりとも年月をかけて祈り求めていましたら、神さまはお聞き届けてくださり、その祈りに応えてくださいました。ただし、色々な事柄にはすべて神さまの時と方法があるので、すぐに応えられない場合もあるかもしれません。ではあっても、御心にかなうお祈りを神さまは喜んでくださり、耳を傾けてくださり、主の時にみわざを成してくださるので信じて祈り求めていきたいと思います。その他にも神さまが喜んでくださるようなことに目を留めて祈るなら、そういったお祈りにも応えてくださいます。それこそ、「○○さんが体調を崩しているようですが、癒してあげてください」なんていうお祈りにも応えてくださいます。私も過去、ある事で人から相談を受けたことがあって、そのためにお祈りさせていただいたことがありましたが、神さまの不思議な助けによって、問題の解決へと導いていただいたことがありました。なので今後も神さまの御心をお祈りできるように祈り求めていきたいと思います。

 

 

 

最後に、神さまの御心を祈っていきたい!と思われている方に、補足までに助言させていただきたいと思います。私なりに示されたことですが・・・はじめに話をしたように、私も以前は異邦人のようなお祈りをしていた者でした。でも、ある時を機会に「これは良くない」と思いはじめて、思い切って方向を変えることにしました。どのようにしたか?と言うと、まずはお祈りの時間を徐々に増やしていくことにしました。それまでは、一日にせいぜい15~20分位だったのですが、何とか増やしていきたいと思いました。幸い、以前行っていた教会では平日に「お祈り会」という集会があったので、そこに参加させていただくことにしました。その集会では最低2時間の祈りの時間があったので、あっという間に祈りの時間が増えました。当初自宅ではあまり祈れなかったのですが、集会の中では割とすんなりと祈れるようになり、そのことが自宅での祈りにも少しずつつながっていくようになりました。そんな中で、神さまの御心のお祈りに関しても少しずつとらえられるようになっていきました。また、そのことと並行して聖書通読も日課とするようになりました。聖書の中には神さまの御心が事細かに書かれていますので、分かる範囲でみことばに基づいて祈りをするようになりました。そしてこのことは今でも継続中です。その時々に教えていただいたことに準じて、お祈りするようにしています。それがそのまま「御心の願い」につながっているのでは?と思います。以上は私個人が実践していることではありますが、ある程度のお祈り時間と聖書の通読が「御心の願い」をしていく上でのポイントになるのでは?と思います。よろしければ、ぜひ実践してみてください。