聖書箇所 コリント人への手紙13:1

 

13:1 私があなたがたのところへ行くのは、これで三度目です。すべての事実は、ふたりか三人の証人の口によって確認されるのです。

 

「ふたり以上の証言によって事実を確認する」というテーマで、御言葉に沿ってみていきたいと思います。

 

「すべての事実」の部分を英語訳では“every word”と書かれています。

直訳すると「すべての言葉」です。

人から発せられたすべての言葉は、ふたりか三人の証人によって確認されるということです。

でも、ちょっぴり疑問に思いませんか?

私たちは、多くの人と色々な会話をしますよね。

けれども、その会話について、いちいち証言を必要とするでしょうか。

たとえば、快晴の日に「今日は良い天気ですね」なんて言われたら、そのまま素直に「そうですよね」と単純に答えて、そこで会話は終わりますよね。

そのことで誰かを証人として必要としたり立てたりする必要はまったくありませんよね。

つまり、ここで使用されている「すべての事実」という言葉は、あまり良い意味合いで使われていることではないことが何となく分かります。

新改訳聖書の注釈に書かれている聖書箇所を参照してみると、そのことが、かなり明確になると思いますので、ご一緒にみてみたいと思います。

 

参照 申命記19:15

19:15 どんな咎でも、どんな罪でも、すべて人が犯した罪は、ひとりの証人によっては立証されない。ふたりの証人の証言、または三人の証人の証言によって、そのことは立証されなければならない。

 

参照 マタイ18:16

18:15 また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。

18:16 もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。

 

下線を引いた箇所をご覧いただきたいのですが、「すべての事実」とは、「咎」や「罪」と関連していることが理解できるのではないでしょうか。

と、言うのは、そのあとに、「ふたりの証人の証言、または三人の証人の証言」とか「ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるため」という風に書かれているからです。

まさに、Ⅱコリント人への手紙に書かれていることと、符号しますよね。

余談ではありますが、このことも今まで、何度かくり返し語っていることですが、聖書は私的解釈を施してはいけないということについて言われています。

Ⅱペテロの手紙の1章では、このように言われています。

 

参照 Ⅱペテロ1:20,21

1:20 それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。

1:21 なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。

 

このことに関して、大半のキリスト教会やクリスチャンは「霊的解釈は良くない、聖書は文字通り読むべき」と屁理屈をこねて、たとえの意味合いや隠された奥義について知ろうとしないそうですが、それは、誤りです。

なぜかというと、それこそ21節で言われているように、預言は人間の意志によってもたらされたものではなく、すべて神の霊感によって語られたものだからです。

また、「私的解釈を施してはならない」とは、ギリシャ語言語では、その箇所のみだけで理解するのではなく、他のあちこちも参照しながら解釈する必要があるということを言われているのです。

特に今ひとつ意味が不明だったり、分かりづらい部分に関しては、こういったことに時間を使い、丹念に調べていく必要があります。

そうでないと、本来、神様が意図されている意味が掴めなかったり、まったく違う方向に解釈してしまう可能性があるからです。

 

話は脱線してしまいましたが、本日の箇所も、このところだけを見ると、何を言われているのか、ぼんやりとしか分からなかったので、いくつか参照してみることにしました。

 

そう、ある人が罪を犯したり咎がある場合に関して、それは、一人の証言では受理してはいけないということを言われているのです。

私たちは、案外、人から何か聞くと、そのまま受け入れてしまうことが多いですよね。

もちろん、良いことならともかく、しかし、そうでない場合は、気をつけていかなければいけません。

と、言いますのは、私自身、そういったことで、何度か失敗したことがあるからです。

 

こんな例が参考なるか分かりませんが、過去、こんなことがありました。

まだ、中学生の時でした。

その当時、とても親しくしていた2人の友人がいて、いつも3人で登校をはじめ、行動を共にしていました。

この場では、一人をAさん、もう一人をBさんと呼ぶことにします。

ある時、Aさんが私にこんな風に言ってきました。

Bさんね、あなたのことを恨んでいるみたい。あなたの名前が入った恨み帳というのが、このあいだBさんの家に行ったら見つかったの。だから、気をつけたほうがいい」と。

とてもびっくりして、「嘘?Bさんが私のことをそんな風に思っていたの?」と聞き返しました。

すると、「本当だよ。私だった驚いたんだから。でも、このことは、Bさんには内緒にしておいてね」と。

その当時は、まだ、クリスチャンではなかったので、もちろん聖書の言葉なんて何も知りませんし、神様に祈ることにも無縁でしたので、何気なく、Bさんのことを避けるような、そんな行動に移りました。

しばらくして、そんな私の行動に気づいたBさんは、「何かあったの?」と聞いてきました。

でも、Aさんからは口止めをされていたので、「別に」と、その場は流してしまいました。

幾日か、Bさんと私の間で気まずい雰囲気が続いていたのですが、このままでは良くないなぁと思って、思い切ってBさんに真相を確認してみました。

すると・・・「ひどい!そんなこと私していないよ。」とBさんは怒り出しました。

それはそうですよね、Bさんにとっては、根拠も無い単なるでっち上げられた話なのですから。

そして、二人ですぐにAさんに、このことを尋ねました。

「なぜ、そんなことを言ったの?」と。

すると、「ごめんなさい。二人が(Bさんと私のこと)仲がいいから、自分がいつか仲間はずれにされるのが怖くて、そんな風に言っちゃったの」と。

それから、色々と話し合って、その後、すぐに、仲直りが出来たので、そのことは良かったのですが・・・こういったことで何を申し上げたいのかと言うと、世の中のこんな些細なことですら、話がまったく違っていたなんてことがあるのですから、まして、クリスチャンの間での、罪とか咎に関する訴えについては、ことさら、慎重に取り扱わなければいけないということです。

よくよく双方の言い分や、あるいは、他の人の証言を聞いてみないと、話が全然食い違っていて、別の方向性へと引っ張られてしまう可能性が十分あり得るのです。

箴言にも、こんな御言葉があります。

 

参照 箴言18:17

18:17 最初に訴える者は、その相手が来て彼を調べるまでは、正しく見える。

 

この御言葉が言うように、たしかに、はじめに訴える人には、誤りが無いように思いますよね。

もちろん、そういう場合もあるでしょうけど、そうでない場合もあり得ますので、やはり、二人以上の証人が必要であることが分かるでしょう。

 

以前行っていた教会で、こんなことがありました。

私の証というわけではないのですが、まだ、二十歳ぐらいの女の子がいらっしゃる親御さんがこんな風に言っていました。

「女の子って、化粧で、随分変わるのよね。うちの娘は、もともと、そんなに目が大きくないし、まつげも短いんだけど、毎朝、時間をかけて、丹念に化粧をしているの。そうすると、全然別人みたいになるのよね」と。

その方のお嬢さんは、しばらく教会に来ていなかったのですが、ある時、数年ぶりに来られたことがありました。

すると、ある人が私に、「○○さんとも話したんだけどさぁ、あの子、整形したみたいよ。前とは全然違う」と言いました。

でも、私は、その前に、そういう話を聞いていたので、「ううん、違う。化粧で、雰囲気が変わったみたいよ。家族の人が、そういう風に言っていたから。」と言いました。

すると、「そうなんだ。」と、その人は納得したようでした。

もし、そんな風にはじめに話を聞いていなかったら、きっと、誤解していたと思います。

でも、そうでないとしても、決め付けてはいけないんだなぁということも、その時に、教えられたように思います。

当時は、ふたり以上の証言なんてことについて何も知りませんでしたし、考えたことすらも無かったのですが、今になって、とても大切なことだなぁと思いました。

 

ですから、私たちは、訴えに関しては、細心の注意を払っていきたいと思います。

御言葉にも、正しいエパ枡や天秤を用いなさいとか、正しい人を罪に定めたり、反対に正しくない人を正しいと言ったりしてはならないと書かれていますので、聖書の基準に従って、ぜひ、公正な判断を常に心がけていきたいと思います。

そうでないと、知らないうちに人を陥れてしまったり、傷つけてしまったり、それによって分裂分派が起きて取り返しのつかないことになってしまったり、はたまた、そういったことによって、神様からのさばきを招いてしまいますので、こういった点においても、正しくとらえておきたいと思います。

本日も大切なことを語ってくださった神様に栄光を帰し、感謝を捧げます。