聖書箇所 Ⅱペテロの手紙3:11
3:11 このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。
「神のような歩みにとどまり続けて御国に入る」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。
冒頭のみことばの、「これらのもの」とは、その前の節を読むと分かるのですが、天と地(天の万象&地と地のわざ)のことです。私たちが今住んでいる地球も、崩れ落ちるのです。と、言うことは、単に「地球」という天体が崩されるというだけでなく、地に住んでいる人々も崩されるという風に考えられないでしょうか?聖書に書かれていることなので、いずれ成就することではありますが、冷静になって考えてみると恐ろしいことですよね?神さまは何でもお出来になるお方ですし、聖書に書かれていることは過去も現在も未来も必ず成就しますので、人間的には受け入れがたいと思ったとしても、どれもこれも真面目に受け止めていくことに御心があり、祝福がありますので、ここは文字通り、そのまま素直に理解したいと思います。
さて、実際にこんなことが起きたら大変だと誰もが思うでしょうし、考えるでしょう。天も地も、そしてそこに住む人たちも滅んでしまうのですから。でも、唯一、その恐ろしい神の裁きから逃れる方法について、冒頭のみことばでは語られています。その方法はたった一つです。「敬虔な人」となって、神と共に歩むことです。ここのところはKJV訳では、“godliness(godly)”とあります。「信心」とか「神のような」という意味合いです。ちなみに「どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう」のところは、英語だと、「聖なる会話と神のような態度をすべきである」という風に訳せます。他の聖書箇所では、「義人がかろうじて救われるのだとしたら、神を敬わない者や罪人たちは、いったいどうなるのでしょう。」ということを言われています。特に世の終わりに、このことばは該当するのでは?と思います。今、すでにそうかも知れませんし、これから更にそうなっていくと思いますが、多くのクリスチャンが御心を行わなくなっていくような流れにあるのではないでしょうか?人間的にはそうはなって欲しくないのですが、聖書には、「不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります」と書かれているので、きっとそうなのだと思います。「いや、私は関係ない」とおっしゃるならともかく、しかし、もし万が一、そういった流れに入ってしまうなら、恐らく永遠の命は危ないのでは?と思います。「愛が冷たくなる」ということと、「敬虔な(神のような)歩み」は相反するので、もし、そのような歩み(敬虔な歩み)に入らないようでしたら、重ねて申し上げるようですが、御国を受け継ぐのは厳しいと思います。
少し前に礼拝のメッセージを通して、「敬虔に(神のように)歩んでいくなら、必ず御国を受け継ぎます」ということを学びましたが、私もそのことに同感です。その時に、「しかし、敬虔な歩みは結構難しい。そういう風に歩もうとするとサタンの攻撃や妨害に会ったりする」ということも言われていましたが、それももっともだと思いました。参考までに、Ⅱテモテへの手紙には、「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます」と書かれています。もし、キリストのような歩みを目指すなら、こういう目に会うのだということは正しく理解してください。反対に、そんな風に願わないなら、迫害に会うことはありません。それは、この世やこの世の人と同じ流れなので、サタンはそういう人には特に働かないのです。でも、ことさらに、「神のように歩んでいきたい」という人に対しては、過剰に働きかけてくることは前もって申し上げておきます。それこそ、そのまま最後まで全うしたら、天の御国に入ってしまうので、躍起になってとどめようとするのです。もし、本当にそのように歩みたいと願うなら、ありとあらゆる手を尽くして、妨害してくることは念頭において歩みをしていかなければいけないという概念は常に持っていたほうが良いと思います。そうでないと、「こんなに正しく歩んでいるのにどうして?」という疑問が度々浮上してしまうからです。さらに言うなら、小さい門、細くて狭い道なので、選ぶ人はほとんどいない、と言うか、聖書的に言わせていただくなら、「稀」だということもたしかです。ちなみに聖書には、このように書かれていなかったでしょうか?「いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです」と。神のような歩みがそのまま御国に直結するのなら、こういう公式が成り立ってしまうのです。裏返すと、そのような歩みを選ばないなら、大きな門、広い道を歩んでいる可能性がある、ということです。なので、多くの人は、たとえクリスチャンであっても選ばない道なのかもしれませんが、そこをあえて選んで歩んでいかなければならないという認識を持ちながら歩んでいきたいと思います。
自分自身のことは客観的にはあまり良く分かりませんが、少し話をさせてください。「神のような歩み」に関しては、信仰を持つ以前に、あるクリスチャンを通して、その人と接していく中で大事なポイントなのでは?ということを霊的に感じました。随分前のことですが、聖書のことばもろくに分かっていない私に、神さまはその人の歩みを通して私に教えてくださいました。外国の方だったので、ことばもろくすっぽ通じなかったのですが、その人のありとあらゆるふるまいを通して、「なるほどーっ、クリスチャンになったらこういう風に歩んでいくものなんだ」という風に見本を示していただくことができました。今、私がその人と同じように歩めているかどうかは分かりませんが、クリスチャンになってからの私の歩みに大きな影響を及ぼしました。そう、その人の歩みは、「神のよう」ということが目に見えても分かるくらいでした。見るからに謙遜で温厚そうな方でしたが、しかし、その裏側には、聖霊にある「忍耐」というものが時折にじみ出ていました。まさに、この人に神さまの栄光があらわされているなぁと思いました。当時、信仰を持っていないながらも、そんな風に感じました。そしてその時に思いました。今でも、そういうことは度々思うのですが、「たしかに理論や知識は大切だけれど、ことばだけではないんだなぁ、単なる理論や理屈だけではないのだなぁ」ということを、です。それからさらに時を経てから、「神の国はことばにはなく、力にあるのです」というみことばを知りましたが、本当にその通りだと思いました。神さまがその人に働いているのだなぁということを痛切に感じました。もちろん人に見せたくてそうしているのではなく、その人自身がいつもそういった歩みを求めている結果として、そんな風に歩んでいるのでは?と思いました。今でも、その人のことは度々思い出すので、ずっとそういう歩みに徹することができますようにと、わずかながらもとりなしをさせていただいていますが、私自身もそういった歩みを目指しつつ、とどまっていきたいと思います。たしかに生まれつきの自分には耐える力も忍耐もありませんが、しかし、聖霊にある忍耐を求めながらも、これからも神さまの助けによって歩んでいけたらなぁと思います。
繰り返しますが、「神のような歩み」に、ポイントがあります。また、それが一時的ではなく、生きながらえている間、ずっと続けていくことが大事です。もちろん艱難時代を経たとしても、です。みことばに、「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちに冠を与えよう」とありますので、ぜひ、最後の最後まで、「神のような歩み」にとどまり続けていきたいと思います。そしてポイントは、人前もある程度は大事かもしれませんが、何はともあれ、神さまの前にそのように歩んでいくことです。そのためには日々、祈りとみことばを読むことをきちんと行っていきたいと思います。みことばは私たちを神のように歩ませてくださるための答えが、懇切丁寧に書かれていますので、理解したのなら、時を移さずに祈りの中でどんどん実践していきたいと思います。そうしていく中で、嫌でも、「神のような歩み」をしていけます。いわば、品性がだんだんと神さまに似た者となっていくのです。もちろんこの世の君であるサタンがこの世を支配しているので、多くの人の歩みとは逆方向ではありますが・・・そしてそれゆえに、ありとあらゆる迫害や困難や苦難も許されますが、しかし、パウロが言っているように、「今の時の軽い患難」という風に割り切って、「神のような歩み」にひたすらとどまり続けて、天の御国を受け継いでいきたいと思います。そしてそういう歩みを決意したのなら、途中であきらめてしまったり、投げ出してしまったりして千載の悔いを残すことがないように、くれぐれも気を付けていきたいと思います。
レムナントキリスト教会
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