聖書箇所 ガラテヤ人への手紙6:7-10
6:7 思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。
6:8 自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。
6:9 善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。
6:10 ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行ないましょう。
「後の世における報いに目を留める」というテーマで、御言葉に沿ってみていきたいと思います。
ここでは、第一義的な意味合いとして、肉に蒔くか?霊(御霊)に蒔くか?について言われています。
「肉」とは、「罪」とか「死」とか「生まれつきの性質」いう言葉と関係がありますので、自分の思うままに生きるか?それとも、霊、すなわち、神様の霊の力によって歩んでいくか?について言っています。分かりやすく言うなら、神様の前に悪いことばかりをするか、もしくは、可能な限り良いことに徹していくか?ということです。
良いことについて、具体例を挙げるなら、人に親切にする、困っている人を助けるなど、要は、御霊の実、愛・寛容・柔和・自制・忍耐・誠実・親切・喜び・平安によって行動することです。どんなことでもそうですが、こういうことも、人にしているようでいて、じつは、神様にしていることと、まったく同じことなのです。一方、悪いことばかりするというのは、良いことの逆のことばかりをすることです。
そして、いずれにしても、どんな風に歩んでいったか?によって、それぞれのクリスチャンは刈り取りをするようになります。
ちなみに「蒔く」ということに関連して少し考えてみたいと思います。
7節に「人は種を蒔けば」とあります。
たとえば、植物を咲かせたり、農作物を実らせたりするために、種を蒔きます。そして、季節になると、コスモスの花や菜の花を咲かせたり、あるいは、きゅうりやキャベツを収穫することができます。いずれにしても、土地や土の中に種を蒔きます。
クリスチャンの生涯もそれに準じます。私たちは、地上に住み、暮らしています。そう、まさに、何らかのものを地に蒔いて生活しているのです。特別、「蒔こう!」と、意識しなくても、善or悪のいずれかを、いつも蒔いているのです。普通、そういったことを考えながら生活を送っている人は、ほとんどいないと思いますが、ここで言われている「蒔く」という言葉には、そんなニュアンスもあるのではないかと思います。
では、せっかくですので、第二義的な事柄に関しても、みてみたいと思います。
再び、「種まき」のことに関連して、話をしたいと思います。
どのクリスチャンも、ある意味、種まき、すなわち、御言葉を蒔く働きに召されています。具体的には、このことは、伝道のことを指します。せっかくクリスチャンとして新生したのなら、大なり小なり、キリストのことを伝えたい!こんなにも素晴らしい救いを自分だけのものにするなんてもったいない!と、そんな思いを抱いているクリスチャンは多いと思います。もちろん、私もその一人ですし、聖書にも、「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」とか「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」と書かれています。
ですから、種を蒔くというのは、御言葉を伝えることと、非常に密接な関係があります。そして、神様の言葉である御言葉をどのように取り扱うか?によっても、刈り取りは二分します。
なぜ、こんなことを申し上げるのかと言いますと、特に世の終わりは、あらゆるおかしな教理がキリスト教会やクリスチャンの間で蔓延するので、伝道をする際には、くれぐれも気をつけなければいかなければいけないからです。伝道そのものは、素晴らしいことですし、はたまた、聖書に書かれていることなので、主が喜ばれることなのですが、一歩誤ると、とんでもない方向へと行ってしまうので、注意が必要だということを申し上げたいのです。
そんなことを聞いたら・・・危ない思いまでして、伝道なんて、しないほうが良いなんて、思うかもしれません。伝道をしたほうが良いか?しないほうが良いか?もちろん、答えは「したほうが良い」に決まっています。ただ、今、申し上げましたように、「おかしな教理」について、気をつければ良いのです。
例を挙げるなら、艱難は通らずにその前にクリスチャンは天に挙げられるとか、クリスチャンと名が付けば、さばかれずに皆天国へ行けるとか、神はあまりにも愛のお方のゆえに人を地獄に行かせる方ではない、さばきに会うのは未信者だけ等の教えです。
これらは、ほんの一例ではありますが、いずれも聖書に書かれていない嘘・偽りの教えです。もし、このようなことを、しゃかりかに宣べ伝えたとしても、人をいのち(永遠のいのち)へと導くことは出来ません。反対に滅びへと向かわせることになります。その結果、神様の怒りを招いてしまったり、はたまた、死後、さばかれてしまう可能性が十分ありえますので、くれぐれも気をつけていかなければいけません。
しかし、もし、聖書の御言葉に基づいて、福音を語っていくのなら、いのち(永遠のいのち)の道へと人々を案内することができます。このことに、御心があります。具体的には、艱難前携挙説をはじめとするありとあらゆるおかしな教理に異を唱えたり、艱難のための備えや御心を行なうことに熱心になっていくことを推奨したり、終末や神のさばきに関しても語っていくことです。こういったことに着眼して語っていくときに、人を救いへと招く働きとなり、このことは、神の前に尊いものと見なしていただけます。
それこそ、ダニエル書の「思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。」とありますように、後の世において、神様からの栄光や誉を受けることになるのです。でも、今の時代は、非常に残念なことではありますが、おかしな教理が大手を振っている時代で、そのことに賛同しているクリスチャンが多いので、いのちへの道は、益々、狭いものとなっております。しかし、そうではあっても、正しく、聖書が語っている通りに、私たちは機会があるたびに、人々に語っていきたいと思います。
そして、9節「善を行なうのに飽いてはいけません」と、ありますように、そのことを、この地上に生きながらえている間、くり返していきたいと思います。たとえ、周囲の人たちや教会が変わってしまったり、正しいことを受け入れられなかったとしても、「失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります」と言われているように、主のときに、必ず、報いをいただくことができます。このように、聖書に、ハッキリと書かれているので、信じて実践していきたいと思います。
また、10節には、「ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行ないましょう。」とありますが、後半に書かれている「特に信仰の家族の人たちに善を行ないましょう。」の部分をみてみたいと思います。
信仰の家族とは、教会の人たちのことを言われています。「教会の人たちに善を行なう」ということがすすめられていることが分かります。このことは、もちろん、共に力を合わせて働きを担ったり、支え合ったり、困ったときに互いに手を差し伸べたりしていくことも言われていますが、神様からの恵みを分かち合うことも言われているのではないかと思います。
具体的には、証やメッセージを語っていくことに通じるのではないでしょうか。神様がなしてくださった御わざや教えてくださったことについて、共に、恵みにあずかっていきなさいということについて言われているのだと思います。そういったことを実践していくときに、周囲の人々の霊的なたてあげがなされたり、お互いに、慰めや喜びや励ましを受けたりすることができるのではないでしょうか。神様から恵みや教えを受けることは非常に尊いことではありますが、すべては神様から発しているものなので、御自身だけで、終わらせるのではなく、そのことを周囲の人たちに積極的に伝えていくように心がけていきたいと思います。そして、こういったことにおいても、主が喜んでくださり、報いてくださるので、ぜひ、おすすめいたします。
繰り返すようですが、私たちが地上において行ったすべてのことについて、報いが伴います。良いことも悪いことも、それぞれのわざに応じて、刈り取りをすることになります。どんなことにおいても、報いを得てしまいますので、善悪共にさばかれる主を絶えず恐れて、地上にいる間をおごそかに過ごし、後の世において、ぜひ、永遠の報いを得ていきたいと思います。最後に黙示録の御言葉を読んで終わりにしたいと思います。
黙示録20:12,13
20:12 また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。
20:13 海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。
証
大分前のことですが、ある牧師さんのHPのメッセージを読んで、感銘を受けたことがありました。
色々と書いてあったのですが、「クリスチャンになったら、良いことだけを行なうようにしてください」という言葉に目が留まりました。
この言葉は、まさに、本日の9節の御言葉「善を行なうのに飽いてはいけません」に符号するのでは?と思いました。
この箇所は英語では、「良いことをするのに疲れたり、嫌になってはいけません」と訳されているのですが、たしかに、もともとの罪のゆえに、良いことをし続けるというのは、時として疲れてしまったり嫌になったりもしてしまいますし、大変な忍耐や根気を要することだなぁと思います。
でも、こういったことも、主の招きだと考えるのなら・・・やはり、従っていくことができるように、祈り求めていくことは大切だと思いますし、御霊さまの力によって実践させていただけたらなぁと思いました。
本日も、とても大切なことを語ってくださった神様に栄光と誉れがありますように。
レムナントキリスト教会
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