聖書箇所 ピリピ人への手紙1:7

 

1:7 私があなたがたすべてについてこのように考えるのは正しいのです。あなたがたはみな、私が投獄されているときも、福音を弁明し立証しているときも、私とともに恵みにあずかった人々であり、私は、そのようなあなたがたを、心に覚えているからです。

 

「キリストと困難を共にする」というテーマで、御言葉に沿ってみていきたいと思います。

 

 上記の御言葉を通して、パウロは、ピリピの教会のクリスチャンに対して信頼を寄せていたことが分かります。そして、そのことで、彼自身がそういう人々を通して、励ましや慰めを受けていたのではないかと思います。それは、「私が投獄されているときも、福音を弁明し立証しているときも、私とともに恵みにあずかった人々であり」という風に書かれているように、パウロが大変な目に会っていたとき、また、そういった中で福音を宣べ伝えていたときも、態度を変えずに人々が御言葉にとどまっていたからです。ちなみに、「恵みにあずかった」の箇所は、KJVだと、「きずな」とか「防衛」という言葉に訳されています。私の想像なのですが、御言葉に堅くついていたと、そんなことを言われているのではないかと思います。そしてこの御言葉は、キリストが十字架にかかる前に、最後の晩餐で弟子たちに言われた言葉を思い起こします。

 

参照 ルカ22:28-32

22:28 けれども、あなたがたこそ、わたしのさまざまの試練の時にも、わたしについて来てくれた人たちです

22:29 わたしの父がわたしに王権を与えてくださったように、わたしもあなたがたに王権を与えます。

22:30 それであなたがたは、わたしの国でわたしの食卓に着いて食事をし、王座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。

22:31 シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。

22:32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

 

28節の下線を引いた言葉に着目していただきたいのですが、キリストに従っていくことと、苦難や困難は切っても切り離せない関係であることが理解できるのではないでしょうか。ちなみにピリピ人への手紙の同章でも、同じようなことが言われています。

 

参照 ピリピ人への手紙1:29

1:29 あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜わったのです。

 

 何の苦労もしないで天の御国を受け継げたら、それに越したことはないのですが、残念ながら聖書では、そのようには言っていないようです。

 

 ちなみにクリスチャンは男女問わず、キリストの花嫁にたとえられていますが、やはり、将来、キリストの花嫁として迎えていただくためには、29節に書かれているように、キリストを信じる信仰だけではなく、キリストのために苦しむことも条件の1つのようですねっ?!

 

ここで言わんとしているのは、こういうことでしょうか?苦難に会っても、それでも、キリストに着いていくのか?良いときだけでなく、形勢の悪い時でもちゃんとキリストである御言葉に従っていくのかどうか?ということを問われているのではないでしょうか。この世での夫婦関係でもそうですが、たとえば伴侶が職を失ったり、あるいは病気をしたりしたときに、もし相手が去ってしまったら悲しいですし、そこで夫婦生活は終わってしまいますよね。でも一方、そうではあっても、お互いに助け合って支え合っていくときに、夫婦の絆や愛情が、より一層、強まったり深くなったりしますよね。そのようなことと比較して良いかどうかは分かりませんが、イエスさま御自身も、私たちに対して同じようなことを望まれていると思います。苦難や試みを経ても、それでも着いていく人を神さまは信頼してくださいますし、キリストの花嫁の候補として見なしてしてくださるのではないかと思います。ですから、はじめから、キリストと共に苦難や困難を全くするつもりが無いのでしたら・・・ハッキリ言いますが、御国を受け継ぐのは難しいと思います。なぜならそれは、「仕事はしたくない、でも、お金は欲しい!」と、言っているようなものだからです。

 

 ところで、欧米では、もうすでに、ありとあらゆるおかしな法律を下に、正しい教理が相次いで捻じ曲げられているそうです。最近聞いた話だと、イギリスでは4人の婦人が「十字架のネックレスをつけているから」という理由で仕事を解雇されたそうです。他にもアメリカで、アパートの管理人をしていたご夫妻が、アパートの事務室に飾っていたステンドグラスの工芸品が「宗教的過ぎる」との理由で解雇されたそうです。また、これもアメリカで起きたことですが、自宅で家庭集会をしていた牧師や路傍伝道をしていた牧師やトラクトを配布していた人たちが逮捕されたり、禁固刑と多額な罰金まで課せられたりしたということを聞きました。もう、ハチャメチャですよね?誰の目からどんな風に見ても・・・まして、神さまの目から見て、悪いことなんて何ひとつしていないのにひどい目に会っていますよね。こういったことは、ほんの一例にしか過ぎませんが・・・そして、今は欧米で、起きていることですが、しかし、やがては獣の国アメリカを主導に、このようなことは全世界に及んでいくと思います。まさに、試練、困難、艱難と言えるようなことですよね?!

 

 では、あったとしても・・・そういった試練や困難や艱難の中においても、キリストに着いていくことにポイントがありますし、主ご自身はそのような人を求めておられるのです。そしてこのことは、今の時代を生きるクリスチャンの背信への罰とも言えますし、それゆえ残念ながら、神さまのゆるしのもとに起きていることでもあって・・・また、ある意味、正しくキリストに着く人とそうでない人とのより分けのために神さまが用いようとされておられるのでは?とも、言えるのではないでしょうか?

 

 ただ、そうではあっても正しくキリストに着いていくのなら、ルカの福音書2229,30節の御言葉「わたしの父がわたしに王権を与えてくださったように、わたしもあなたがたに王権を与えます。それであなたがたは、わたしの国でわたしの食卓に着いて食事をし、王座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。」が、その人の上に成就していきます。しかし、そうなるためには、その前に・・・そう、31節で「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。」と、キリストがペテロに言われたように、地上においては最後の最後まで、様々な試練や困難がゆるされていくのも一面事実です。そして、そのことを理解して歩んでいくことが大切です。「永遠のいのちは得たいけれども、試練や困難は通りたくない、艱難の前に携挙があるから大丈夫!」なんて思うなら、いざ、そういう時が来たときに、あっという間に信仰をひっくり返されてしまいますので、くれぐれも気をつけていきたいと思います。ちみなに今、レムナントキリスト教会の午後の礼拝ではヨブ記を通して艱難時代のことについて学んでいますが、そのとき、たびたび繰り返して言われるのは、艱難時代が永遠に続くのではなく、「3年半」という風に期間が限定されているということです。また、この地上は、どんなに長寿と言われている人でも、せいぜい100年ぐらいですが、後の世は永遠ですので一時的なことばかりにとらわれてしまって、千載の悔いを残すことのないようにしていきたいと思います。詩篇の中でダビデが語っているように、神さまの前に私たちの一生は無に等しいものとも言われていますので、今の世というのは、どこまでも一時的だということを、きちんと、とらえておきたいと思います。価値観を見誤って大事なものを失うことがないようにしたいと思います。ですので、たとえ苦難や困難がゆるされたとしても、キリストの統治の時代に目を向けて、今の世においては益々しっかりとキリストにくっついていきたいと思います。そして正しくキリストに着いていくときに、「あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。」と、黙示録の中でイエスさまがはっきりとおっしゃった御言葉もその人の上に成就していきますので信じて、従っていきたいと思います。そういった点についても、ぜひ見ておいていただきたいと思います。

 

キリストの弟子として歩んでいく中で、不利な状況というのをしばしば感じることがあったり、そのようなことは実際にゆるされたりします。でも、だからと言って、イエスさまに従うのをやめようと思ったことは、今のところ、一度もありません。このことはひとえに、イエスさまの憐れみや恵みだと思います。

 

 そして不利なことが起きたときであっても、御言葉を優先していくときに、神さまの不思議な助けや守りが、その都度与えられます。反対に不利になるからと、自分の身の安全を確保しようとするときに、災いに入ってしまったり、まったく関係の無い戦いに入ってしまったりすることも、幾度か体験しています。そんなとき・・・御言葉だけが正しいのだなぁと、つくづく実感します。

 

 たしかに、人間的な視点で考えるなら、イエスさまに従うのをやめることは、いとも簡単なことだと思います。今でも、自分の意志次第でやめることは、すぐにできたと思います。そうなんです、やめることに関しては、何も必要ないのです。でも逆に、従っていくのは、それなりの決断やエネルギーを要します。なぜか言うと、以前の私もそうだったのですが、大きな門、広い道を歩んでいる人たち、はっきり言うなら、クリスチャンと称していてもキリストを敵としている人々を横目に見ながらキリストに従っていかなければいけないので、その相応の自覚と覚悟も必要です。偉そうな言い方で恐縮なのですが、こういったことに関して、自分自身が弟子として歩むか?そうでないのか?と、主から問われたときにそのような体験をしているので、このようなことを申し上げられるのです。でも結果として、主に従っていく歩みや働きを選んで良かったと思っていますし、そのことにいつも感謝しています。そう、不思議なんですが、単に苦難、困難で終わるのではなく、そのことに優る主からの喜びや平安のほうが、はるかに上回るのです!本当に、すばらしい!ハレルヤ!!です。そして、このことは、実際にキリストの弟子として歩んではじめて痛感させられるものであります。もうすでに、アメリカやヨーロッパの一部の地域においては、とんでもない法律を下に迫害や困難や苦難に会っている正しいクリスチャンが多数おられるようですが、やがてこのことは、私たちが住んでいる日本にも及んでいくことなので、そのときが来たときに、ひとつひとつのことに正しく対応できるように、そういったことに関しても主と共に備えをしていきたいと思います。今日も大切なことを語ってくださった神さまに栄光と誉れがありますように!!