聖書箇所 マタイの福音書19:1315

 

19:13 そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、子どもたちが連れて来られた。ところが、弟子たちは彼らをしかった。

19:14 しかし、イエスは言われた。「子どもたちを許してやりなさい。邪魔をしないでわたしのところに来させなさい。天の御国はこのような者たちの国なのです。」

19:15 そして、手を彼らの上に置いてから、そこを去って行かれた。

 

「神の前に幼子になる」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいとおもいます。

 

ここでは、子どもたちがイエスさまに手を置いて祈っていただくために、連れて来られたことについていわれています。しかしこのときに、弟子たちは彼らを叱りました。けれども、それに対して、「子どもたちを許してやりなさい~天の御国はこのような者たちの国なのです」とイエスさまはいわれました。

 

この話から、どうも、「子ども」「天の御国」とは、密接な関係があることがわかりますよね?

 

このときに、イエスさまの元に実際に子どもたちが連れて来られたことは、事実だとおもいます。しかし、それと同時に、「子ども」ということばをとおして、クリスチャンの信仰のあり方について、主が私たちに何かをかたっているのでは?ともおもいます。今回は、そのあたりのことに目を留めながら、話をさせていただけたら・・・とおもいます。

 

さて、聖書の中で、「子ども」とか「幼子」ということばが比較的つかわれています。英語訳でこれらのことばは、“children”とか“babes”という単語で表現されています。そして、「天の御国はこのような者たちの国なのです」とありますように、聖書においては、神さまの前に、子どもとか、幼子になることが奨励されています。“babes”という単語をそのまま受け取るなら、赤ん坊とか赤ちゃんになることが大事なようです。わたしもそうですが、すでに成人された多くの方にとっては、あまりピンと来ないことかもしれませんが、けれども、聖書にはハッキリと、「天の御国はこのような者たちの国なのです」と書かれていますので、そのことは尊重していきたいとおもいます。また、実際にそういう風にしていくときに、恵みや祝福に入っていくのでしょう。

 

ちなみに、子どもとか、幼子とか、赤ちゃんについて考えてみたいとおもいます。彼らの共通点は、自分の力では何もできない存在である、ということです。能力がないので・・・つまり、親の力にたよるしかない、裏返すと、親の助けがあってはじめて生きていけるわけです。これはごく一般的な話なのですが・・・しかし、クリスチャンの歩みにおいても、この公式が大いに薦められているのです。つまり、一から十まで、すべて神さまに拠りたのんでいく歩みに御心があるのです。そしてそのことを、「子ども」といっているのです。わかりやすくいうと、「子どもの歩み」とか「子どもの信仰」なのです。だからと言って、みながみな、このことを適用して歩みをしているか?というと、そうではない可能性があります。以下、聖句がそのことを証しているのでは?とおもいます。

 

参照 マタイの福音書19:1624

19:16 すると、ひとりの人がイエスのもとに来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」

19:17 イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。もし、いのちにはいりたいと思うなら、戒めを守りなさい。」

19:18 彼は「どの戒めですか。」と言った。そこで、イエスは言われた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。

19:19 父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」

19:20 この青年はイエスに言った。「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」

19:21 イエスは、彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」

19:22 ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。

19:23 それから、イエスは弟子たちに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。金持ちが天の御国にはいるのはむずかしいことです。

19:24 まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」

 

これは、先ほどの子どもたちの記述のあとに書かれているものですが・・・24節で、「金持ちが~」とイエスさまがおっしゃっているように、ここで、「金持ち」のことを取り上げています。英語では、“rich man”とあります。そういう人に対して、23「まことに、あなたがたに告げます。金持ちが天の御国にはいるのはむずかしいことです」とあり、さらに24節では「金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい」とまで、いわれています。

 

金持ちに対する今のことばは、「天の御国はこのような者たちの国なのです」とは、ずいぶん対称的ですよね?「金持ちが天の御国にはいるのはむずかしい」とか、「金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい」というふうに、まったく逆のことがいわれていますよね?

 

そして、「金持ち」も、さきほどの「子ども」と同様に、ある種のクリスチャンをあらわしているとおもいます。神さまの前での「金持ち」というのは、すべてではないにしろ、神さまの力にはほとんど拠りたのまずに、自分の思いや考えや悟りに頼って歩むパターンのクリスチャンではないかとおもいます。けれども、そういうタイプのクリスチャンに対して、「天の御国にはいるのはむずかしい」といわれております。

 

自分の能力や資質にたよっていくことは、人間的には何の問題も無いようにおもえるのですが、しかし、イエスさまがキッパリとこのようにいわれた以上、神さまの前には良いことではない、はたまた、天の御国が危ない、ということが理解できるのでは?とおもいます。

 

ですから、私たちは、「金持ち」ではなく、「子ども」とか「幼子」とか「赤ちゃん」の歩みを目指していきたいとおもいます。具体的には、どんなことであっても、イエスさまに頼っていく歩みです。イエスさまの元に連れて来られた幼子のように、イエスさまをたずねていきたいとおもいます。どんな方法でそうするのか?というと、それは、私個人の理解では、「祈る」ことではないかとおもいます。そうしていくときに、天からの助けや力が与えられるので、それをお受けして歩んでいくことではないかとおもいます。

 

また、幼子とか子どもや赤ちゃんの大きな特徴として、すべて親に頼りっきりである、ということが言えますよね?全面的に親に任せていますよね?それとおなじように、私たちも、ひとたび神さまに祈ったら、あとは神さまを信頼して、委ねていくことも大事なポイントではないか?とおもいます。さらに、神さまから指示があったときには、そのまま素直にしたがっていくことでは?とおもいます。21「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」のことばは、そんなことをもいわれているのでは?とおもいました。もし、ほんとうにそれらのことを実践していくなら・・・つまり、神さまの前に、子どもとか幼子とか赤ちゃんになっていくのなら、「天の御国はこのような者たちの国なのです」のことばが、そのまま成就していくのでは?とおもいます。天の御国を受け継ぐのでは?とおもいます。

 

しかし、反対に・・・神さまに頼ることなく、委ねることなく、したがわない、というときに、もしかすると金持ちに言われた「金持ちが天の御国にはいるのはむずかしい」のことばが、悪い意味合いで実現してしまう可能性がありますので・・・そうすると、天の御国は保障されない可能性がありますので、そのあたりは気をつけていきたいとおもいます。

 

今回のポイントをまとめます。

 

クリスチャンの歩みや信仰生活というのは一様ではありません。神さまの前には二分します。ひとつは、神さまに全面的に頼っていくというものです。一方、すべてではないとしても、しかし大半のことを神さまに頼らずに、自分の判断や考えや思いで進めていく歩みです。両者共に、いずれも信仰の歩みは成立してしまうのですが、しかし、どちらを選ぶかによって、後の世の結論が天と地ほどの差をもたらす可能性がある、ということは正しくとらえておきたいとおもいます。そしてどちらが良いか?は言うまでもなく、前者、幼子とか子どもに御心があります。もし、そうかもしれない、なんておもいましたら、ぜひ、神さまの前に幼子となって歩みをして、天の御国を受け継いでいきたいとおもいます。