聖書箇所 マルコ6:2-6

 

6:2 安息日になったとき、会堂で教え始められた。それを聞いた多くの人々は驚いて言った。「この人は、こういうことをどこから得たのでしょう。この人に与えられた知恵や、この人の手で行なわれるこのような力あるわざは、いったい何でしょう。

6:3 この人は大工ではありませんか。マリヤの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではありませんか。その妹たちも、私たちとここに住んでいるではありませんか。」こうして彼らはイエスにつまずいた。

6:4 イエスは彼らに言われた。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。」

6:5 それで、そこでは何一つ力あるわざを行なうことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。

6: 6 イエスは人々の不信仰に驚かれた。それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。

 

本日は、不信仰という言葉を通して、神様に喜ばれる信仰についての語りかけをみてみたいと思います。

 

クリスチャンなら、誰でも、信仰を持っている、そのようにおっしゃるかと思います。

でも、ここに書かれているように、イエス様は、人々の不信仰に驚かれているのです。

この、人々というのは、誰のことでしょうか。

神様を全く知らない未信者のことでしょうか?

2節を読むと、イエス様が、会堂、つまり、教会でメッセージされていることについて書かれています。

また、「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」とか、「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません」とか言われているように、イエス様は神の民、すなわち、クリスチャンに向けて、この時も、メッセージされたのです。

今の時代も、この時と同じように、礼拝の中でのメッセージは、クリスチャン向けに語られています。

つまり、ここで、イエス様はクリスチャンの不信仰に驚かれているのです。

 

更に3節には、「こうして彼らはイエスにつまずいた」とあります。

この時、イエス様から直接メッセージを聞いていたクリスチャンが、何と、イエス様に不信感を抱いてしまったのです。

このことは、今の私たちにも、当てはまることではないかと思います。

確かに、この時代、目に見えるイエス様はおられません。

しかし、「ことばは神であった」と聖書に書かれているように、今の私たちは、御言葉を通して、イエス様を見ることが出来ます。

御言葉につまずくとは、素直に御言葉を受け入れられない、信じられないことがある、そのようなことを言われているのではないかと思います。

つまり、聖書を読みながらも、イエス様のことを正しく理解出来なかったり、受け入れることが出来なかったり、信じることが出来なかったりということです。

ちなみに、私たちが、人間的な常識や考えだけで神様のことを理解しようとするなら、ここに書かれているように、イエス様のことを単なる大工だとか、マリヤとヨセフの子だとか、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟だとか、そのようにしか、イエス様のことを見られない、そのようなことを言われていると思います。

 

4節の、「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです」と、このところにも神様の語りかけがあります。

ここで言われている預言者というのは、イエス様のことを言われていますが、正しいことだけを語り、病人を癒し、良いことだけをされているイエス様が、教会のクリスチャンに認めてもらえず、かえって、拒否されていることについて書かれています。

つまり、この時、大半の神の民が、イエス様を預言者だと理解することが出来ませんでした。

このことも、新約時代の私たちにも関連していることだと思います。

教会は、本来、神様の啓示が解き明かされるべき場所です。

しかし、今、多くの教会が、御言葉を拒否している、すべてではないにしろ、一部御言葉が曲げられていたり、真理が語られていなかったりしています。

たとえば、地獄は未信者が行くところ、クリスチャンと名が付けば皆天国だとか、クリスチャンは艱難の前に携挙されるだとか、神様は愛だからどこまでも赦すお方だとか、聖書に書かれていないような教えがキリスト教界に入り込んできてしまっています。

でも、そのことが教理の中のほんの一部のことであったとしても、永遠の命にかかわることだとしたら、よくよく吟味すべきだと思います。

マタイの福音書やマルコの福音書の中で、イエス様は再三、にせ預言者たちに気をつけなさいと言われているからです。

そして、残念なことに、今の時代も、神様から遣わされた真の預言者、すなわち真理について正しく解き明かしをするメッセンジャーがこの時のイエス様と同様、異端扱いされたり、迫害されたり、カルト扱いされたりしています。

 

クリスチャンがどこまでも、真理を受け入れない、そのことに驚かれ、残念に思われた、だから、5節に書かれているように、何一つ力あるわざを行うことが出来ず、少数の病人に手を置いていやされただけでした。

あまりにも頑なな心のゆえに、御自身の御業をあらわすことが出来なかったのです。

このことにも語りかけを感じます。

たとえば、体調を崩している患者さんに「これこれのお薬が効きます、それから、こういう点に注意して過ごしてください、そうすれば良くなります」と、医師がアドバイスしても、そのことを信じて、言うことを聞かなければ、一向に回復の見込みはありません。

それどころか、悪化してしまいますよね。

うまく言えませんが、いくら、よいアドバイスを受けても、実行しなければ効果は期待できません。

信仰も、そのことと、同じことが言えるかと思います。

私たちが、心を頑なにしてしまい、イエス様の言われていることを信じていなければ、どんなに大きな御業を見ても、理解することは出来ないのです。

また、イエス様は、「信じる者には、どんなことでも出来るのです」とか「わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます」と言われています。

つまり、イエス様を信じること、このことに、徹底して歩んでいる人に御自身の栄光をあらわされるのです。

 

6節に書かれている「不信仰」という言葉に、目をとめていただきたいと思います。

不信仰とは、信仰とは逆の意味合い、つまり、信じないことです。

聖書は、イエス・キリストを証する書と言われていますが、イエス様の言われていること、すなわち御言葉を信じないことです。

3節にも通じることですが、御言葉を受け入れない、拒否することです。

ゆえに、神様に従わないこと、そのことを言われているのだと思います。

「義人は信仰によって生きる、もし、恐れ退くなら、わたしは彼の心を喜ばない」と言われています。

つまり、信仰が無いと神様に喜ばれないことが理解できるかと思います。

また、私たちが御言葉を拒否してしまうと、神様に拒否されてしまうことも御理解いただきたいと思います。

また、あまりにも、拒否ばかりしていると、いつの間にか、恵みや祝福が消失してしまいます。

そして、恐ろしいことに、不信仰だと、滅んでしまうことも聖書には、はっきりと書かれています。

参照 ヘブル書3:19、黙示録21:8

ぜひ、信仰によって、歩んでいきたいと思います。

また、御言葉を信じて、踏み出していくときに、神様の助けや守りが与えられ、その都度、御業を見ていくことにも通じていきます。

時代が過ぎ、時は変わっても、御言葉だけは、決して変わることがありません。

御言葉に従っていくこと、このことは神様の前に尊ばれ、そのような歩みをする人を通して、御自身の御業や栄光をあらわして下さいます。

御言葉に堅く立ち、主の御心を行っていく歩みをしていきたいと思います。

 

信仰生活を送っていて、委ねきれない自分を見ることがあります。

特に難しいと感じる部分に関して、ついつい人間的に物事をとらえてしまい、自分の思いや考えが先走ってしまうことがあります。

このことは奉仕についても当てはまります。

自分の生まれつきの性質や考えはこうだからとか、この働きは無理だとか決め込んで、始める前から引いてしまうこともあります。

しかし、ある時をさかいに、あれこれ、心配したり、考えたりする前に、祈り、主に任せてしまったほうが早いという思いが与えられました。

それは、去年の終わりに、エレミヤ牧師から「安息日」についての、おすすめを聞き、私たちが働きをやめて、神様の御業を見ていくこと、このことの大切さについて、教えていただきました。

つい、自分の力や感覚を頼みとしてしまい、神様に祈りながらも、実際には自分で行ってしまうことが、案外多いことに気づきました。

それは、神様の目から見て、不信仰な歩みなのではないかなぁと思いました。

祈って委ねたら、主に働きを成していただくこと、そのことを見ていくこと、自分自身にとって、今後の信仰生活における課題のひとつになりそうです。

かつては、何にしても、落ち度無くこなさなければと思っていました。

しかし、少しずつでも、そのように考えていくようになって、うまく出来たとか、出来なかったとかの結果にあまりとらわれなくなりました。

そして、最近は、主が自分自身を通して成して下さった御業について感謝しながら、奉仕に取り組むことが出来るようになったと思います。