聖書箇所 マルコ16:16

 

16:16 信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。

 

上記御言葉は、復活されたイエス様が11人の弟子たちのところに現れて言われたことです。

このことは、今日の私たちクリスチャンへの語りかけでもあります。

この御言葉を通して、主は、救いの条件のことを言われています。

 

この箇所は、そのまま文字通り読むことが出来ます。

信じてバプテスマを受ける人は救われ、信じない人は罪に定められるとあります。

罪とは、「死」と関係があります。

「死」の反対は、「命」です。

「命」が永遠の命であるなら、天の御国に通じるかと思います。

そのように考えていくと、「死」の行き着くところは、その逆の場所であることが理解できます。

信じるのか、そうでないのかによって、死後の行き先が大きく変わってくることを言われているのです。

 

ここで、バプテスマについて少し見ていきたいと思います。

私たちが未信者だった頃、万物を造られた神様を知り、御子イエス・キリストが私たちの救い主であることを信じて、心に受け入れ、その時からクリスチャンとしての歩みがスタートします。

その際、水のバプテスマである洗礼を受けるわけです。

過去、神様を知らない時代と決別し、これからは、キリストと共に生きていくということを公にすること、つまり、クリスチャンの歩みを始めることを表明する証として受けるものなのです。

水のバプテスマ、このことは、クリスチャンとしての歩みのスタートラインに立つために、必須なものとも言えます。

 

次に、クリスチャンの最終目的について考えてみたいと思います。

救いのチャンスというのは、神様の愛と恵みによって、すべての人に無条件に与えられているものです。

イエス様は、すべての人の罪のために十字架にかかって死んでくださいました。

私たちを罪()から解放するため、すなわち、死後、地獄の刑罰から逃れさせるためでした。

このことから、クリスチャンのゴールは、天の御国であることが理解できるかと思います。

 

多くのクリスチャンは、信じて、洗礼を受けて、救われ、そして、天国行きが確定だと、そのようにおっしゃるかと思います。

確かに、キリストを信じて、心に受け入れて、バプテスマを受ける、そのことによって救われます。

しかし、残念ながら、水のバプテスマの他に、イエス様の言われたバプテスマを受けていかなければ、天の御国に入ることは出来ません。

 

イエス様がおっしゃっているバプテスマとは、どういうものなのでしょうか。

マタイの福音書で、バプテスマのヨハネがこのように言われています。

「私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。」

ここに、聖霊と火とのバプテスマと書かれています。

つまり、イエス様は、聖霊と火によって、私たちにバプテスマを授けると言われているのです。

なぜ、そのことが必要なのかというと、続いて、ヨハネは、このように言われています。

「手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」

このことは、いわゆる裁きの時ことについて言われています。

私たちクリスチャンは善であれ、悪であれ、死後、裁かれます。

手に箕を持っておられるのは、キリストのことを指します。

脱穀場とは、信徒を奮い分ける場所、いわば、裁きの御座のことを指すと思われます。

麦とは、御国を受け継ぐクリスチャンのことを指し、殻とはその反対で、御国を受け継がないクリスチャンのことを言われています。

消えない火とは、火の池、つまり、地獄のことを指すと思われます。

このことは、恐ろしいことです。

 

つまり、クリスチャンと言っても、御国を受け継ぐクリスチャンとそうでないクリスチャンがいることが理解できるかと思います。

よって、私たちは、地獄の刑罰から救われる必要があります。

16節に書かれている救われるとは、神様の怒りの裁きから免れるという意味があるかと思います。

そのために、イエス様が言われた聖霊のバプテスマ、火のバプテスマを受けていきたいと思います。

聖霊のバプテスマとは、御霊によって歩むこと、具体的には、祈り、絶えず、聖霊に触れていくことです。

御霊の油注ぎという言葉があるように、聖霊の力によって、生きていくことです。

そうしていくことで、内側が、だんだんとキリストに似た者に変えられていくようになります。

ちなみに、キリストとは、「油注がれた者」という意味合いです。

火のバプテスマとは、十字架を背負う歩みのことを言います。

福音のために、自分自身を神様に捧げ、どこまでも、キリストに従って歩んでいくことです。

また、そのために、主から霊的な訓練を受けていくことです。

このことは、弟子の歩みに、そのまま通じていくものでもあります。

分かりやすく言うと、キリストが歩まれたように、歩んでいくことです。

一見聞くと、多くのものを失うような気がするかと思います。

でも、このことは、祝福や恵みを大いにもたらすものであり、結果として、多くの義の実を結ぶことにつながり、なおかつ、神様に賞賛される歩みとも言えます。

 

話は前後しましたが、最後に、信じることについてみていきたいと思います。

ここに、書かれている信じるとは、何を信じるのでしょうか?

その前の15節には、福音を宣べ伝えなさいとイエス様が言われています。

そのことから、御言葉、すなわち、聖書に書かれている神様の言葉を信じることを言われているのだと思います。

神様の言葉を信じることが、イエス様を信じることや受け入れることに通じていきます。

また、御言葉を信じるためには、聖書を読み込んでいくことがポイントです。

日々、聖書の御言葉に触れていくことによって、神様がどのようなお方であるのか、そして、私たちへの語りかけについて理解したり、時代を正しく見分けていくことや御心を行っていくことにも通じていきます。

ちなみに、悪霊も神様のことを信じておののいているわけですが、そのような信じ方では、ダメだということです。

なぜかというと、悪霊は、真理の中に偽りを混ぜて御言葉を曲げ、惑わす力を送り込み、嘘・偽り・空想話を信じさせたり、神様の御心から外させようと仕向けてくるからです。

Ex:罪を犯し続けていても、悔い改めなくても、一度信じれば天国へ行けるとか、地獄は無いとか、

クリスチャンは艱難時代は通らない等の教えです。

このように聖書に書かれていないことを鵜呑みにしてしまうことは、永遠の命を失う危険性があります。

そのような意味合いで、聖書の御言葉を正しく理解していくことは、とても大切なことです。

主の前にどこまでも謙遜になって、真理を追究して聞いていく人に、神様は憐れみをもって、正しいことを教えて下さり、主のまっすぐな道を歩ませて下さいます。

聖書の言葉は、すべて成就します。

また、神様の言葉は、生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭くたましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通すと言われていますので、すべての御言葉に恐れをもって、信じていきたいと思います。

御霊によって歩み、主の訓練を行い、御言葉に堅くとどまり、約束の地である天の御国を目指していきたいと思います。

 

※参照 ヨハネ3:18,36 使徒16:31

3:18 御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。

3:36 御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。

16:31 ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。

 

つい、数年前まで、クリスチャンは無条件に天の御国を受け継ぐものだとばかり思っていました。

それは、クリスチャンは艱難の前に挙げられると思っていたからです。

また、ある牧師が「クリスチャンは裁かれることはない、裁かれるのは、神様を信じない未信者です」と語っていたメッセージを信じていました。
裁きは未信者だけだと、そのような視点で聖書を読んでいました。

でも、ある時をさかいに、そうではないことを理解し、その時から聖書の読み方が一変しました。

それと同時に、艱難を通ること、未信者もクリスチャンも裁かれることを理解しました。

しかも、御言葉に「神の家から裁きが始まる」と書いてあるので、真剣に死後のことについて考えるようになりました。

まだまだ盲目な者ですが、祈りや御言葉やメッセージを通して、神様が語っていることについて学び、光を追い、御言葉に堅くとどまっていきたいと思っています。