【聖書箇所】マルコの福音書13:3-23
13:3 イエスがオリーブ山で宮に向かってすわっておられると、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかにイエスに質問した。
13:4 「お話しください。いつ、そういうことが起こるのでしょう。また、それがみな実現するようなときには、どんな前兆があるのでしょう。」
13:5 そこで、イエスは彼らに話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。
13:6 わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそそれだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。
13:7 また、戦争のことや戦争のうわさを聞いても、あわててはいけません。それは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。
13:8 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、ききんも起こるはずだからです。これらのことは、産みの苦しみの初めです。
13:9 だが、あなたがたは、気をつけていなさい。人々は、あなたがたを議会に引き渡し、また、あなたがたは会堂でむち打たれ、また、わたしのゆえに、総督や王たちの前に立たされます。それは彼らに対してあかしをするためです。
13:10 こうして、福音がまずあらゆる民族に宣べ伝えられなければなりません。
13:11 彼らに捕えられ、引き渡されたとき、何と言おうかなどと案じるには及びません。ただ、そのとき自分に示されることを、話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。
13:12 また兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子は両親に逆らって立ち、彼らを死に至らせます。
13:13 また、わたしの名のために、あなたがたはみなの者に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。
13:14 『荒らす憎むべきもの』が、自分の立ってはならない所に立っているのを見たならば(読者はよく読み取るように。)ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。
13:15 屋上にいる者は降りてはいけません。家から何かを取り出そうとして中にはいってはいけません。
13:16 畑にいる者は着物を取りに戻ってはいけません。
13:17 だが、その日、悲惨なのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。
13:18 ただ、このことが冬に起こらないように祈りなさい。
13:19 その日は、神が天地を創造された初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような苦難の日だからです。
13:20 そして、もし主がその日数を少なくしてくださらないなら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、主は、ご自分で選んだ選びの民のために、その日数を少なくしてくださったのです。
13:21 そのとき、あなたがたに、『そら、キリストがここにいる。』とか、『ほら、あそこにいる。』とか言う者があっても、信じてはいけません。
13:22 にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民を惑わそうとして、しるしや不思議なことをして見せます。
13:23 だから、気をつけていなさい。わたしは、何もかも前もって話しました。
「聖書は預言の書」というテーマで、みことばに沿って見ていきたいと思います。
少し長くて恐縮なのですが・・・3,4節において、弟子たちはイエスさまにこれから起きてくる事柄について、質問しています。そのことに関して、22節まで、イエスさまが述べられて、最後に「わたしは、何もかも前もって話しました。」という風に言われました。
さて、イエスさまがおっしゃったことが、このマルコの福音書においても記されたわけなのですが・・・こんな風に、「聖書」という書物は、未来のことについても、一面言われております。キリスト教用語では、そのことを「預言」と言っています。そして、それはいったいどういうものなのか?ということにおきまして、簡単に話をさせていただきたいと思うのですが、今回は数年前に、エレミヤ牧師がHP上で執筆されました文章の中で一部抜粋したものを、紹介させていただきたいと思いますので、よろしければ、お読みください。以下、エレミヤ牧師による文章です。
ここでは、聖書の預言について書きたいと思います。聖書は神が書かれた唯一の書です。そして神は、聖書がそのような本であることを色々な形で啓示しています。また、聖書の記述が科学と矛盾しない、ということも一つ言えます。それは、聖書が預言の書だからです。そして、日本ではあまり知られていないことですが、聖書は預言に満ちており、その数は数千と言われています。また、予言するだけなら、すなわち、未来をただ語るだけなら、誰にでも出来るのですが、問題は、それが未来の日に成就するかどうか、ということです。そして、日本語の聖書では、未来を語るのに「預言」という言葉を使います。
ですから、一般に使われる「予言」という言葉とは、区分して用いています。事実、これらは違います。人が未来を語るレベルと神が未来を語るレベルとは、全く違うのです。たとえば、3.11の災害ですが、人間レベルの「予言」では、前もって語られてはいませんでした。毎年雑誌では、新しい年を前に来年はこんな年になる、ということで、いわゆる町の占い師や予言者が、色々と語るわけです。2011年の新年に向けても同じように、多くの“予言者”が、この年に関して色々と予言したのですが、今、改めて見直してみると、彼らの中に、この3.11の災害について、前もって語った人など皆無でした。
しかし、それに反して、神が書かれた書、聖書には、多くの預言があるのですが、その中で、まだ(その時ではないので)成就していない預言はありますが、しかし、外れた預言というものは存在しないのです。これは大変な事柄です。繰り返しますが、外れた預言は存在しないのです。驚くべきことなのです。
たとえばキリスト(メシヤ)来臨に関して、300以上の預言があるのですが、イエス・キリストはそのすべてを成就して、メシヤとして来られたのです。300以上の預言とは、たとえばメシヤはベツレヘムで生まれるとか、処女から生まれるとか、その友により売られるとかの多くの預言です。これらの預言が、イエス・キリスト降誕の数百年前の預言者たちにより、かねてから預言されていたのです。そして、イエス・キリストは、そのすべての預言を成就して来臨しました。すなわち預言されたように、ユダのべツレヘムで処女マリヤから生まれました。また、預言されたように、その生涯の終わりには、友であるはずのイスカリオテのユダに裏切られて十字架上で死んだのです。
以上、エレミヤ牧師によるメッセージなのですが、聖書は「預言の書」でもある、ということに関しまして、多少なりともご理解いただけましたでしょうか?そういう意味で、冒頭の聖書のことばも、神さまの時に、どれもこれもすべて成就するのでは?と思われるのです。「聖書」が預言の書、なんていう風には一見、そうは思えないかも知れませんが、エレミヤ牧師が言われていますように、イエスさまご自身もあらゆる預言を成就して来られましたので、また、外れた預言は皆無ですので、聖書に記されている他のことも、すべてそのことに準じるのではないかなぁ・・・と、エレミヤ牧師をはじめ、レムナントキリスト教会では、そのように理解しております。
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