聖書箇所 ヤコブの手紙3:1318

 

3:13 あなたがたのうちで、知恵のある、賢い人はだれでしょうか。その人は、その知恵にふさわしい柔和な行ないを、良い生き方によって示しなさい。

3:14 しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。

3:15 そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。

3:16 ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行ないがあるからです。

3:17 しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。

3:18 義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。

 

「御霊の力によって思いや感情を支配していただく」というテーマで、御言葉に沿ってみていきたいと思います。

 

聖書の所々において13節の「柔和」ということばが使われています。「柔和」は、御霊の賜物の一部ですし、度々奨励されていることであります。それと同時に「妬み」「敵対心」ということばも出てきます。それについては3行にわたって書かれています。と、言うことは、たとえクリスチャンであっても、こういった思いや感情に私たちはことさらに支配されやすい、ゆえに気をつけていきなさいということを言われているのではないかと思います。もし、そういったものを持ち合わせているとしたら・・・仮に行動には出ないにしても、内側にあるのなら、「誇ってはいけない」とも言われています。ちなみに「誇ってはいけない」のところは、KJV訳では、“glory not”、栄光が無い、つまり神様の栄光があらわれないという風に訳せます。そう、妬みや敵対心があるときに、私たちは神様の栄光をあらわすことができなくなるのです。また、心が神様から遠く離れてしまうのです。そしてそれらのものに引っ張られていくときどうなってしまうのか?と言うと、16節に書かれているように秩序が乱れたり、邪悪な行いへとつながってしまうのです。それこそⅡペテロの手紙に、「たましいに戦いをいどむ肉の欲を避けなさい」とあるように、肉の欲へとあっさりと引っ張られてしまうのです。ですから私たちはそういった思いに引っ張られてしまうことがないように、くれぐれも気をつけていかなければいけません。その都度正しく対処していかなければいけません。また、私たちがそういったことに非常に弱いことをサタンは知っているので、そのあたりのところを攻撃してきます。それも一度や二度ではなく、あるいは勝利した!と、思っても、手を替え、品を替えしつこくしつこく攻撃してくるということは、よくよくとらえておいたほうが良いと思います。また、こういったことに対して神様に祈り求めてその都度きちんと対応して勝利するかどうかを神様はご覧になっています。以前も申し上げましたように、永遠の命に入るための数多くの試みの中で、私たちの思索感情に対することが大いに幅を占めるからです。人を通して嫌な目に会ったりした時に、どう対応するのか?特にこれから艱難時代に入っていく中で、こういったことに対する試しは益々許されていくので、その都度その都度しっかりと対応していくように今から心がけて、なおかつレッスンを受けていきたいと思います。

 

証になるかどうか分かりませんが、人に対して敵対心や妬みを起こさせるような試みや揺り動かしは過去を振り返っても多々ありましたし、今現在も大いに許されています。身近な人をはじめ、あらゆる事柄を通してあります。もちろん私のほうで何か罪があって、そのことを是正するために敵からの攻撃が許されることはありますが、しかしそうではないのに、突然理不尽なことをされたり言われたりすることがあります。そんな時、「なぜ?こんなことが??」と、思わなくもなく、それによってその人を裁いたり、はたまたそれがいつしか憎しみに発展するなんてことは多々あります。もちろんそのまま放置して良いわけではありませんが、そんな時、「ああ、信仰の世界ってきれいごとではないんだなぁ」と思わされます。ついこの間もそんなことがありました。その人に対して何も悪いことなんてしていないのに、いいえ、むしろ祝福を受けることができますようになんて祈っている人から、「ええっ?」というような扱いを受けました。ただ、自分で考えても仕方がないので、神様に祈りました。すると、「忍耐だよ、忍耐を働かせなさい」という声が心に響いてきました。また、「感情があるから苦い思いを持つのは仕方がないでしょう。でも、そのたびに私に助けを求めなさい。あなたの思いや感情を変えるのができるのは唯一私なのだから。ひたすら私に助けを求めるんだよ。それをいつも覚えていなさい」という語りかけを受けました。そして早速実践してみました。「今は○○さんに対して嫌な思いや苦い思いがあります。しかし、どうか聖霊さまの力によって打ち消していただくことができますように」と。少しずつ内側が和らいでいくのを霊において感じるようになりました。また、ひょんな形を通して主からの助けを受けることができました。完全ではないにしても、少しずつそういった思いが内側から消えていっているなぁということを感じています。少なくとも、「仕返しをしてやろう」とか、そんな風な罪に発展することは未然に防ぐレベルに導いていただけます。更に祈っていくなら、主の時に、主によって完全に勝利を取っていただけます。(そういうことに関する戦いに関しては一貫してそういった流れがありましたし、今後もそうなのでは?と、思います。)

 

そう、申し上げたいことは、人への敵対心や妬みや苦い思いは往々に私たちの思いの中に入ってくるのが聖書で言われている一面の真理なのです。それは人にはもともと罪があって、まして感情を持っているのですから避け得ようがないのです。でも、唯一「聖霊の力」のみが、そのことから私たちを解放してくださるのです。自分の感情にそのまま任せていくのか?それとも神様にひたすら助けを求めて変えていただくのか?そのいずれかを選択していかなければいけません。そして選択次第によって、まったく異なる結果になっていくので正しい選択をその都度していきたいと思います。

 

たとえば創世記でカインが弟アベルに対して憎しみを持ったことについて書かれています。なぜかと言うと、アベルの捧げ物は神様に受け入れられ、自分の捧げ物は受け入れられなかったからです。もちろんこの場合、もともとカインに原因があったわけですが、弟アベルへの憎しみがそのまま「殺す」という行動に発展してしまいました。アベルを殺害する前に、カインは神様から、「あなたは罪を治めるべきである」と言われたのですが、その声にカインは聞き従いませんでした。そして結果としてアベルを殺すことになってしまったのです。また、ダビデがマオンに住むナバルのことで理不尽な扱いを受けたときに、彼に対して報復しようとしました。カインとはケースは異なりますが、ここまでの流れはカインと若干似ています。ダビデは自分の部下に剣を用意させ、こわっぱ一人残さずに殺そうという計画を立てました。しかし、その時にナバルの奥さんによって奇跡的にとどめることができました。聖書には書かれていないことですが、私の想像ではダビデは怒りの中においても神様に一言でもお祈りを捧げていたのでは?たとえば「できれば罪を犯すことがないように」と、そんな風に思います。なぜそう思うかと言うと、ナバルの奥さんに対して、「あなたの判断が、ほめたたえられるように。また、きょう、私が血を流す罪を犯し、私自身の手で復讐しようとしたのをやめさせたあなたに、誉れがあるように。私をとどめて、あなたに害を加えさせられなかったイスラエルの神、主は生きておられる。もし、あなたが急いで私に会いに来なかったなら、確かに、明け方までにナバルには小わっぱひとりも残らなかったであろう。」と言っているからです。もし、ダビデでお祈りをしていなかったら、別の結果になったのでは?と思います。でも、祈っていたからこそ、ダビデが罪を犯すことがないように、ナバルの妻であるアビガイルを通して神様が導きや助けや守りを与えてくださったのでは?と、そんな風に思います。箴言には、「怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる」と書かれています。たしかに一時的には怒ることがあるかもしれませんが、どんな理由であれ、いつまでも怒りや妬みや敵対心を持ち続けることは禁じられていることが分かります。そう、人から何か理不尽な目に会わされた時に、たとえ自分には全く非が見当らなかったとしても、です。もし、怒りや敵対心や妬みがあるのなら、聖霊の力によって、なんとか治めていかなければいけません。それが主に喜ばれ、尊ばれることだからです。そしてその都度きちんと実践していくなら、後の世において大いなる誉れを受けることにもつながると思います。

 

繰り返しますが、神様に従っていく中で感情や思いとの戦いは切っても切り離せないということを理解の上で歩みをしていきたいと思います。また、決して自己過信をせずに、特に悪い思いには支配されやすいということを念頭において、主からの助けや守りや導きをその都度祈り求めていきたいと思います。ひとつひとつきちんと対応していく中で、徐々にではあっても霊的な足腰も強められていきますので、ぜひ、実践していきたいと思います。また、主が私に語ってくださったように、「忍耐」も必要ですので、そのことも益々熱心に祈り求めていきたいと思います。もし、敵意や妬みをはじめ、悪い思いを持ち続けたまま悔い改めずに生涯を終えてしまうなら、天の御国が危なくなりますので、気をつけていきたいと思います。聖書には、「そんなことをしている者が神の国を相続することはありません」とはっきりと書かれていますので・・・こういった面に関してもぜひ、見ておいていただけたらと思います。