聖書箇所 ヨハネ3:5,6
3:5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。
3:6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
神様を知らない人や大半のクリスチャンから見て、クリスチャンとは1種類だけだという風に思われているように思います。
天地を創造された神様を認め御子イエス・キリストを救い主として信じているのがクリスチャンだと。
しかし、神様の目から見ると人によって歩みは全く異なります。
そして結末も異なります。
クリスチャンと名が付けば、皆が御国に入るわけではありません。
5節に書かれているように、「水と御霊によって生まれた人」が天の御国を受け継ぎます。
言うまでもありませんが、このことは個人の見解で申し上げているのではなく、本日の聖書箇所にはっきりと記されています。
天地が滅んでも神の言葉は過ぎ去ることが無いと言われていますように、聖書に書かれているすべての言葉は必ず成就します。
また、聖書はクリスチャンを対象に書かれている書物です。
本日もそのような概念に基づいて神様が語られていることについてご一緒にみていきたいと思います。
先ほど触れましたように神様の目から見て、クリスチャンは2つに区分されています。
以前、少し話をさせていただいたかも知れませんが弟子or群集のいずれかです。
本日の御言葉から申し上げると御霊に属するクリスチャンor肉に属するクリスチャンに分けられます。
このことは人が判断することではありません。
なぜかというと人は表面のことしか分からないからです。
しかし心の奥底までも御存知の神様の前には一目瞭然です。
そして、私たちは神様の前に御霊に属するクリスチャンになっていかなければなりません。
そうでないと神様の前にクリスチャンと見なされないからです。
そのことについては下記御言葉を参照なさっていただければ幸いです。
参照 創世記17:14
包皮の肉を切り捨てられていない無割礼の男、そのような者は、その民から断ち切られなければならない。わたしの契約を破ったのである。」
割礼とは肉を切り離すことです。
肉とは良い部分も悪い部分も含めて私たちの生まれつきのものを指します。
上記御言葉の「その民」とは神様の民、新約でいうクリスチャンのことを指します。
ゆえに私たちが神様の民となるためには、生まれつきのものは捨てられてすべて神様の力によって変えられるように祈り求めていかなければいけません。
生まれつきの状態のままでは、天の御国に入れないとはそのようなことを言われているのです。
うまく言えませんが神様の霊によって私たちの霊が新しくされなければならないのです。
また、クリスチャンになったからと言ってすべての罪が無くなったわけではありません。
礼拝に出席してメッセージや聖書の言葉を通して、むしろ自分自身がいかに罪深い存在であるかということを自覚していくようになります。
ある意味クリスチャンになったというのは、これからイエス様と一緒に歩みをしていくというスタートラインに立ったことに過ぎないのです。
特に洗礼を受けたばかりの頃は生まれつきの性質がまだまだ残っています。
しかも生まれつきの私たちの性質というのは、どちらかというと自己中心的な考え方しか出来ません。
そのため時として短気になってしまったり人を羨んでしまったりします。
もちろん悪い部分ばかりではありません。
生まれつき人より知能指数があり頭の回転が早く仕事を早くこなしたり人に対して優しく接したりすることも出来るかもしれません。
確かにこのことは人の目から見たら良いものかも知れませんが神様の基準は違います。
残念ながら良いものもそうでないものも神様の前に生まれつきのもの(肉)はすべて罪であるということを正しくご理解いただきたいと思います。
そのようなことに気づいて、はじめて御霊による歩みをスタートさせることが可能になります。
そうでないと私たちにしつこく根付いている肉の性質というものがいつまでたっても根底からひっくり返されないからです。
それではどのようにして生まれつきのものから解放されて御霊によって歩んでいかれるのかについてみていきたいと思います。
第一に聖霊に触れることです。
聖霊の力だけが私たちの生まれつきのものを切り離すことや新しく心をつくり変えていただくことが可能だからです。
そうしていただくためには熱心に祈っていくことです。
お祈りを通して神様は働いてくださいます。
神様の力を信じて祈り求めていく人にそのことは必ず実現していきます。
第二に聖書の御言葉を読み込んでいくことです。
聖書の御言葉には私たちの信仰の歩みにおけるポイントについて数多く記されています。
それと同時に聖書は、イエス・キリストを証する書と言われていますし、天の御国に入るための手引書とも言えます。
ゆえに、私たちが聖書を読まずに神様の言葉を無視してしまうと正しい方向(真理の道)を歩むことは出来ません。
目的地(天の御国)を失い、別のところへと向かってしまうことになります。
このことはとても恐ろしい結末を招いてしまいますので、絶対に回避すべきです。
日々、聖書を読み御言葉からも神様の語りかけを聞いていきたいと思います。
第三に神様の御心を行っていくことです。
御言葉を実践していく人に神様の栄光や御業が反映されます。
ヤコブ書に行いの無い信仰は空しいという言葉がありますが、聞くだけで行わない人は神様の前に偽り者と見なされてしまいます。
また、人は一度死ぬことと死後裁きを受けること、そして、おのおの自分の行いに応じて裁かれることについて聖書に書かれています。
私たちが地上で何を行ったかが裁きのポイントであり、そのことを基準に死後の行き先が確定されてしまうことをぜひ理解くださいますように。
また御霊によって歩んでいくことは御霊の実を結ぶことに通じていきます。
このことは神様の働きを担っていく上でとても大切なことでもあります。
一方、「良い実を結ばない木はみな切り倒されて火に投げ込まれます」とか「肉に蒔く者は肉を刈り取る」とあるようにこれらの行き着く先は「死」です。
ぜひ御霊によって歩みが成せるように日々祈り求めていきたいと思います。
先ほども申し上げたようにこのことをきちんと実践していく人は実態を見ますし恵みや祝福の歩みに入っていきます。
特別な苦労をしなくても聖霊の力によって神様の似姿に次第に変えられていきます。
しかし実行しない人は残念ながらいつまでたっても肉の歩みから解放されることはありません。
このことには全く御心が無いことを御理解ください。
イエス様を救い主として信じて受け入れるか否にはじまって、御霊によって歩むか、はたまた生まれつきのもの(肉)によって歩むか、どちらか一方を私たちは選択しなければいけません。
なぜかというと御霊と肉は相反するものだからです。
この地上で生かされている間がチャンスです。
魂が肉体を離脱してからでは一切やり直しは出来ません。
このことを心に留めて歩んでいく必要があります。
どちらを選ぶかについてはお一人一人の意志に託されていますし、どのように歩んでいくかは常にお一人一人の判断に委ねられています。
善悪ともにすべてのことを公正に裁かれる神様の前に賢い選択をして天の御国を受け継ぐにふさわしい歩みをしていきたいと思います。
証
もともとの私の性質といえば人から悪く思われるのが嫌でした。
信仰を持つようになってからも、神様にも人にも受け入れられたいという思いがいつまでも離れませんでした。
でも、数年前に「世を愛するなら御父を愛する愛は無い」とか「みなの人がほめるとき、あなたがたは哀れです。彼らの父祖たちも、にせ預言者たちに同じことをしたのです」という聖句に触れた時に、心の中が一変しました。
いくら人から良く思われても神様の前にそうでないのなら何の意味も無いと。
そして自分は世の中のことを求めていることに気づきました。
しかも、神様のことと世の中のことは両立しないのだということについて改めて理解しました。
ただし、しばらく間は頭の中でそのことを理解しただけでしたので、真に変えられるように祈ってみました。
完璧かどうかは分かりませんが以前に比べて人からの評価が気にならなくなりました。
神様の不思議な力や知恵や方法によるものだと思います。
明らかに主が勝利を取って下さったことに確信を持つことができて感謝でした。
また、このことを通して神様の働きが少し広がっていったようにも思います。
まだまだ生まれつきのものは残っていますし、そのことにとらわれていることも多々ありますが、日々の祈りを通して徐々に変えられていかれたらなぁと思います。
本日このようにメッセージを書きながら御霊によって歩んでいくことの大切さについて自分自身が改めて教えられたように思います。
主に栄光を帰し、感謝いたします。
レムナントキリスト教会
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