聖書箇所 ヨハネ13:1

 

13:1 さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。

 

世にいる自分のものとは弟子のことです。

その愛を残るところなく示されたとありますが、このことは何を言われているのでしょうか。

聖書に、たとえの意味合いを弟子に解き明かされたとあるのですが、弟子には必要なすべてのことを教えられたことを言われているのです。

 

新約聖書を読むと分かるのですが、至る箇所において、弟子と群集が対比されて書かれています。

クリスチャンというと人括り、1種類と思っておられる方が多いと思いますが、神様の目から見て、はっきりと区分されています。

その区分とは、イエス様に常時くっついた歩みをしているか否かです。

そして、歩みの結果によって、死後の行き先も二分します。

命の書に名前が記されていれば天の御国を受け継ぎますし、そうでなければ火の池です。

弟子には名前がありますが、群集には名前がありません。

最後まで弟子としてきちんと歩むなら御国を受け継ぎます。

(ただし、イエス様を裏切ったイスカリオテのユダは別です。)

そのことから、群集の歩みだと、残念ながら、御国を受け継げないことが理解できるのではないでしょうか。

以前申し上げたかも知れませんが、弟子として歩んでいくことが御国を相続する条件とも言えるのです。

 

さて、弟子として歩んでいくときに、あらゆる困難や試練を通ります。

見えない敵との戦いの連続だからです。

ゆえに、十字架を背負う歩みとも言えますが、そのようなことを承知の上で地上に生きながらえている間、12弟子がイエス様と寝食を共にしていたように、いつもイエス様のそばにいてお仕えしていくのです。

一見損のようにも思えますし、細くて狭い道ですが、最も安全な道といえます。

また、御心をきちんと行っていくときに、神様からのありとあらゆる助けも与えられていきます。

なおかつその延長線上には、永遠の命が約束されているのです。

ただし、真の弟子として歩むことがポイントです。

つまり、どこまでも、主への忠実さや服従が求められます。

人の目にはどのように見られようとも、神様の前に、弟子として認められることがとても大切です。

モーセが全家を通じて忠実であったようにすべてにおいて忠実に歩んでいくことが真の弟子といえるのではないかと思います。

イエス様を模範に、祈り、御言葉に絶えず触れていくこと、このことに徹していくことこそが、まさにそのような歩みに通じていくのではないでしょうか。

偉そうな言い方で恐縮ではありますが、この二点に徹していくときに、神様の御心を自ずと成していかれるようになります。

主の働きを担うこと、御心の歩みをしていくことにつながります。

また、はじめに申し上げたように、すべての必要なことや御言葉のたとえの意味合いについても示していただけます。

このことを信じて実践していく人は実態を見ますし、大いなる恵みや祝福を得ていきます。

 

私自身のことではありますが、このことに関連して少し証をさせていただきます。

最近、あることをきっかけに、そういった歩みに少しずつ入らせていただけるようになりました。

以前は身にふりかかってくる数々のことにとらわれてしまうことが多く、祈りや御言葉の読み込みに今ひとつ集中できていませんでした。

この世のことと神様のことは相反することについても再度考える機会が与えられ、この世における悩みや問題に束縛されてしまうことは明らかに御心に反していることを改めて理解しました。

もちろん地上で生かされている限り、そのようなことはつきものですので、全く考えないわけにはいかないのですが、そういうことについても、最も身近にいてくださるイエス様に委ねていくことが、ベストな解決方法であることを示され、そのためには、自分の思いや考えも含めてすべてのことを主に捧げられるように祈り求めていくことが大切なのではないかと思うようになりました。

先月行われたセミナーの時にも証をさせていただいたのですが、私は長年患っている病と問題を抱えていて、そのことで、かなりの間、振り回されていました。

でも、そのようなこともすべて主に捧げていこう、それよりも何よりも、自分自身を捧げていこうと決断し、ひたすら主に祈っていきました。

不思議なことに、それほど時をうつさずに、ありとあらゆる思い煩いから徐々に解放されるようになりました。

病に関しては完全に癒されたわけではありませんが、症状が少しずつ和らいできました。

また、たとえ症状が出ても、さほど気にならなくなりました。

身に起こる問題についてもあまり深刻に考えなくなりました。

問題については依然として変わらないのですが、心の内側は不思議なほどに平安で満たされています。

そして、何よりも、前とは比べられないほどに、お祈りや御言葉の読み込みに集中できるようになりました。

しかも、喜びと感謝と賛美のうちに日々そのことを成すことができるようになりました。

すべて聖霊が成してくださった御業ですし、これからもあらゆることについて捧げることができるように祈り求めていきたいと思いました。

神様の目から見ると捧げるべきものは山積みだと思いますが、その都度示されたことについて、聖霊の力によって捧げられていかれるようにこれからも祈り求めていきたいと思います。

そうしていく中で、真の弟子としてたてあげられていかれたらなぁと思います。

 

ぜひ、神様の前に、弟子と認められるように、歩んでいきたいと思います。

弟子とは名ばかりで、さほど群集と変わらない歩みをしているのであれば、残念ながら弟子とは見なされません。

イエス様の時代も、明らかに弟子と群集がはっきりと区分されていたように、今の時代も同様のことが言えると思います。

弟子として歩んでいくときに、その都度必要なことを神様は教えてくださいます。

真の教師はイエス様だなぁということも実感するようになっていきます。

今の終末の時代のおかしな教理や嘘、偽り、惑わす力からも守られていきます。

常に、光である真理だけを見上げて歩んでいかれるようになります。

もし、神様に弟子と認められるのなら、この時代の働きを担う器として、用いられていきます。

また、周囲のクリスチャンが義の道へと歩んでいかれるような手助けを成していかれるようになります。

群れの模範となっていかれるような歩みを目指し、イエス様が言われている働きを成していきたいと思います。

そして、後の日に神様からの誉れを受けていきたいと思います。