聖書箇所 ヨハネ16:1
16:1 これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがつまずくことのないためです。
この箇所を見る前に・・・
聖書はすべて神様の霊感によって書かれたものです。
参照 Ⅱテモテ 3:16
聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。
そして、書かれているすべての言葉は必ず実現していきます。
参照 マタイ 5:18
まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。
また、私たちクリスチャンが永遠の命へと導く書物でもあります。
参照 ヨハネ 5:39
あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。
本日もこのような視点に基づいて、神様が語っていることについてご一緒に学んでいきたいと思います。
「これらのことを・・・」と、語られたのはイエス様です。
この箇所は、ヨハネの福音書15章の18節から25節に書かれていることと関連付けられています。
その部分を読むと分かるのですが、「これらのこと」とは、御言葉を守るクリスチャンはこれから迫害に入りますよということについて言われています。
御言葉を守ることについて皆様はどのように思われますか?
クリスチャンなら、守るのは当然だと誰しもがそのように答えるのではないでしょうか。
でも、実際のところ、そうではないからイエス様は前もってこのことを語られたのではないでしょうか。
御言葉を守ることは神様の目から見てとても尊いことです。
私自身、守りたいと思っていても、度々違反を繰り返してしまう者ではありますが、しかし、そうではあっても、御言葉を守ることはすばらしいことだと思います。
ですから、御言葉を守っている人を見ると、とても励まされます。
たとえ、どんなに小さなことであっても・・・
でも、現実は、御言葉を守る、あるいは守ろうとしている人は、残念ながら人からはよくは見られません。
世の人からもそうかもしれませんが、クリスチャンからもそんな風に見られてしまうのです。
なぜ、そうなってしまうのでしょうか?
実は、その人自身が御言葉を守っていないからです。
ヨハネの福音書の15章20節にはこのように書かれています。
しもべはその主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します。もし彼らがわたしのことばを守ったなら、あなたがたのことばをも守ります。
わたしのことばとは、御言葉のことですが、御言葉を守るクリスチャンは御心を行うクリスチャンに反対することはありません。
御言葉を守らない人が正しい人を迫害するのだということをぜひ、ご理解ください。
このポイントについて正しく理解していないと、混乱を招いてしまいます。
「あなたがたがつまずくことのないためです」と、前もってイエス様が語っているのは、こういうことなのです。
御心を行っているのに、とても良いことをしているのになぜなの?と、矛盾を感じてしまってはだめなのです。
いくら神様の前によくても、御言葉を守るゆえに、人からは悪く言われたり思われたりするということです。
良いことをしているのに、報われない・・・ある方のことを思い出しませんでしょうか。
そう、まさしくイエス・キリストがそうだったのです。
イエス様の旧約時代の最後、多くのクリスチャンが御言葉であるイエス様を正しく理解することができず、十字架につけて殺してしまいました。
教会に行き、聖書を読んでいたクリスチャンがそのような失敗をしてしまったのです。
この最悪な事態は初降臨の時に起こったことですが、彼らのことを人事と思ってはならないのです。
唯一のメシアを正しく受け入れられなかった慣れの果ての結末だということを私たちははっきりと理解すべきなのです。
なぜなら、新約の終わり、イエス様の再臨の前にも同じことが再現するというふうに考えるのが正常だからです。
そのことについては、下記御言葉が語っている通りです。
マルコ 13:19
その日は、神が天地を創造された初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような苦難の日だからです。
マタイ24:21,34
そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。
まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。
イエス様がおっしゃったように、これからの時代、きちんと御言葉につく人は迫害されると考えていくのが正しいのです。
その時になって、御心をちゃんと行っているのに、なぜ、理不尽な目に遭わなければいけないのだろうか?人から認められないのだろうか?などと考えてはいけません。
そんな風に考えてしまうなら、つまずいてしまいます。
どこまでも御言葉が正しいのです。
ですので、少しでも御言葉に疑問を抱いてしまうなら、思い込みや惑わしに入ってしまいます。
私たちクリスチャン・・・クリスチャンと言っても、実はそのような揺るがしに非常に弱い存在であるということを認めなければいけません。
そうでなければ、イエス様はわざわざこのようなことを前もって語る必要はなかったからです。
自分は絶対に大丈夫と思ってはいけません、むしろ、自分こそが一番危ない存在だと考えてください。
イエス様と寝食を共にしていたペテロが3度もイエス様を否定してしまったわけですから。
すでに、多くのクリスチャンが背教に入りつつある時代です。
そして、背教がきわまると、艱難時代、大艱難時代に入ります。
大多数のクリスチャンが御言葉に堅くつくクリスチャンを迫害する側に回ります。
その時になって、どうするのか?今から考えておかなければいけません。
また、よほど御言葉に堅くついていないと、その立場に回ってしまう可能性がありますので、前もって、備えていく必要があります。
何度も推奨しているようで恐縮ではありますが、イエス様の弟子として歩んでいくことが、そのまま備えに通じます。
群集の歩みでもOK、余計なお世話と思われている方にはあえておすすめしませんが、永遠の命獲得について本気で考えておられるのでしたら弟子として歩まれることをぜひ、おすすめします。
群集の歩みでは残念ながら正しいクリスチャンを迫害する立場になる可能性が大いにあり得るからです。
イエス様が私たちに前もって語ってくださっていること、真剣に受け止めていきたいと思います。
はじめに申し上げましたが、すべての御言葉はよくも悪くも必ず成就するからです。
また、御言葉に恐れをもって教えていただいたことについては実践できるように祈り求めていきたいと思います。
終末、艱難時代において、御言葉につまずくことのないように、ぜひ、備えていきましょう。
証
最近、心の内側について吟味する時間を持つようになりました。
天の御国への道は本当に細いということをここ数年間の中で教えられ、ますますそのことを厳粛に考えていくようになりました。
毎週の礼拝のメッセージにおいて、御言葉から正しく教理を学び、受け入れていくことはとても大切なことです。
たとえば、弟子として歩んでいくこと、艱難前携挙説は誤りであること、クリスチャンなら裁かれないという教理は嘘等・・・
しかし、それはあくまでも一面のことであるという風に思いました。
単にそれを理解し、受け入れて、人に宣べ伝えていけば、それだけで御国が約束されているかというと、そうではないように思います。
もちろん、地上に生かされている限り、再臨のことや獣の国についての嘘・偽りと戦うために、正しい教理を伝えていくことは大切なことですし、今後もこのことに力を注いでいきたいと思います。
でも、最近、聖書を読んでいてふと気づいたことがありました。
神様は、いけにえよりもあわれみを好むというお方であるということです。
いけにえとは、捧げもの、つまり奉仕に通じることです。
どんなに素晴らしい奉仕を捧げても、あわれみには勝てないことを言われているのです。
つまり、神様の前にどこまでもへりくだっていくこと、心をきよく保つこと、人をあわれみ情け深くなっていくことが神様の前に最も大切なのではないかと思いました。
聖書には「心の貧しい者」という御言葉がたびたび出てきます。
どんなに良いメッセージをし、預言をし、賛美を捧げ・・・しかし、心の内側にわずかでも高ぶった思いがあるのなら、御顔から退けられてしまうのではないかということを教えられました。
私自身、御言葉を守っているかというと、全く自信はありません。
実は、どれもこれも全然行えていないのではないかと聖書を読めば読むほど、そんな風に思えてくるのです。
高ぶる思いもありますし、あわれみもなく、情け知らずだと思いますし・・・
でも、少しでも、そんな風になれていかれたらいいなぁと思いました。
箴言にも「腹の底まで打ち叩け」とありますが、主からの叱責をないがしろにせずに、訓練を受けていきたいと思います。
心の奥底まできよめられるように祈り求めていき、少しでも戒めを守り、イエス様の品性に近づけていかれたらなぁと思います。
レムナントキリスト教会
お問合わせ
Tel
E-mail koukanojisan★yahoo.co.jp
(★の箇所を@に変換してください)
天皇家は万世一系のダビデ王朝の末裔である!警告の角笛シリーズ エレミヤ著