聖書箇所 ヨハネ20:21,22
20:21 イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
20:22 そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
はじめに。
クリスチャンでしたら誰もが理解されているように、イエス様は天の父から遣わされた神のひとり子であり、救い主です。
私たちを死の力(滅び)から救うために、肉体の姿となって、わざわざこの地上に来られたのです。
「滅び」というと、皆さんはどんなことをお考えになりますか?
少なくとも、私は、ここ3,4年前までは、神様を知らない未信者への裁きだという風に思っていました。
確かに未信者の方はすでに神様を否定し、御子イエス様を退けています。
なので、当然、御国を受け継ぐ対象にはなりません。
このことは明らかです。
先ほど「神様を知らない未信者」と申し上げましたが、彼らが全く知らないわけではないのです。
なぜなら、下記御言葉には、このように書かれているからです。
参照 ローマ1:19-21
1:19 なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。
1:20 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。
1:21 というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。
きっかけは人それぞれだと思いますが、何らかの方法で、神様はお一人一人にご自身のことをあらわされておられるのです。
しかし、それにもかかわらず、認めようともしないし、信じないし、受け入れないのです。
私たちが神様を拒絶するなら、当然、神様も私たちのことを拒絶されるのが、聖書の法則であることは皆さんもよくご存知かと思います。
ですので、もし、最後まで神様のことを頑なに拒否するならば、死後は確実に裁かれてしまいます。
ところで、滅びから救われなければならないのは、未信者だけでないことを、ご存知でしょうか?
Ⅰペテロの手紙にはこのような御言葉があります。
「なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。」
「神の福音に従わない人たち」とは、未信者のことを指します。
このことについては前に説明させていただいたとおりです。
さて、私たちが目を留めなくてはならないのは、「さばきが神の家から始まる時が・・・さばきが、まず私たちから始まる・・・」の御言葉です。
「神の家」とは教会のことを言っています。
そうだとすると、「さばきが、まず私たちから」とある「私たち」とは神様を信じるクリスチャンのことを言われていることが理解できるかと思います。
実は、死後、未信者だけではなく、信者も裁かれることを言っているのです。
クリスチャンであっても、永遠の命を失う可能性はありうるという風に、この御言葉を通して理解できるのではないでしょうか。
少なくとも私は、そのように思っています。
前置きが少々長くなりましたが、そのような概念で、本日の御言葉を通して神様が語っていることについてご一緒にみていきたいと思います。
21節からみます。
「平安があなたがたにあるように」と、復活されたイエス様は弟子たちに現れたときに、まず、このように言われました。
そのあとで、「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします」と言われました。
ちなみにイエス様は十字架にかかる前に「私はあなたがたに平安を残します。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。」と、平安を弟子たちに与えられることを約束されました。
さて、「平安」と「遣わされる」こととは、一体どんな関連があるのでしょうか。
そもそもイエス様がこの地上に遣わされたのは、先に申し上げたように、私たちクリスチャンのため、もっと言うなら、その時代の神の民がどうしようもなく堕落していたからなのです。
言い方を変えるなら、クリスチャンが神様の御心に従って歩んでいたのなら、そんな必要は無かったわけです。
それも、単に一部のクリスチャンだけではなく、旧約の終わり、多くの神の民がバビロン捕囚されて滅んでしまったように、毎週安息日ごとに会堂に行き、神様を賛美しながらも、大半の神の民が御言葉を後ろに投げ捨てていたのです。
「ええーっ、信じられない」と、思うかもしれません。
しかし、聖書を読むと分かるのですが、バプテスマのヨハネはその時代のことを「曲がった時代」だと理解していたので、人々が永遠の命を得るために、「主の道をまっすぐにせよ」と、クリスチャンに対して悔い改めを呼びかけていたのです。
そして、バプテスマのヨハネのような働きをイエス様は十二弟子にも託されました。
会堂(教会)で語られている教理が曲がっていて、しかもそのことを大半のクリスチャンは受け入れている、そういった状況の中に遣わされ、誤りについて指摘をして悔い改めを呼びかけていくというのは、とても困難なこと、場合によっては人から変な目で見られたり、罵られたり、迫害をされたり、捕らえられたりする・・・弟子たちがそのようなことに遭遇することをイエス様は前もってよくご存知でした。
ただ、「たとえ人々からの反応がどんなに悪くても、御言葉から正しいことを語り続けなさい、心を騒がしてはいけない、わたしは世の終わりまであなたがと共にいるのだから」と、そんな語りかけもあるように思うのです。
ゆえにイエス様のことを迫害したユダヤ人の会堂に遣わされていく弟子たちに対して「平安」を与えると、言われたのではないのかと思います。
迫害や試練や困難、そして牢に入れられたり、ムチ打たれたりと・・・人間的には全く喜ばしくないことが、実際に弟子たちや使徒たちの身の上に起こりました。
けれども、彼らはどんな状況の中にあっても一歩も引くことなく、律法学者やパリサイ人が群集を煽動して、唯一正しいお方であるキリストを十字架につけたこと、3日目によみがえられて復活されたこと、イエスの御名にこそ救いがあること、曲がった時代から救われて悔い改めていくことについて宣べ伝えたのです。
もし、彼らの内側に「平安」が無かったとしたら、このことはありえないことだと思います。
なぜかというと、イエス様は平安について「わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのと違うからです」と、おっしゃっているからです。
世的なもの、たとえば、大会社の社長になって一生安泰だとか宝くじが当たったから悠々自適だとか伴侶から愛されていて幸せだとか、そのようなタイプのものとは違うのです。
これらのものは、この世においては価値のあるものかもしれませんが、死後そのまま受け継げるものではありません。
しかも、どれもこれもがこの世のものは、一時的なことばかりです。
けれども、神様が与える平安は永続するもの、いわば、この世には存在しないもの、もっと言うなら、心の中がいつも感謝や喜びに満ちている、そのようなものなのです。
また、22節に書かれているように、聖霊を受けることが、平安を得ることにそのまま通じていくわけです。
今の新約の時代においても、同じような働きがあります。
イエス様の弟子や使徒が遣わされるのは旧約時代だけではありません。
もし、イエス様の弟子として歩んでいるのでしたら、ペテロやヨハネやパウロがしたような神の働きを担っていくのです。
今は、夜です。
闇の勢力がますます優勢な時代です。
すでに時代が曲がり、ますます暗闇に包まれていく時なので、ごく普通に、あるいは平均的なクリスチャンの歩みをしているのでしたら、要注意です。
ローマ人の手紙に「夜はふけて昼が近づきました。ですから私たちはやみのわざを打ち捨てて、光の武具を身に付けようではありませんか」とあるように、本人が自覚するか否かは別として、クリスチャンであれば、大なり小なり誰でも闇のわざを持っている時代に生きていることをどうか正しくご理解ください。
キリスト教界においては、神様の愛こそが強調され、クリスチャンは艱難を通らないとか裁かれないとかが言われ、神様の御怒りの裁きについては、ほぼ、触れない時代にいるのです。
しかし、このことは、クリスチャンから永遠の命を奪うためのガセネタであり、根拠も無い安心感をもたらす敵の罠であるということをきちんと理解していかなければいけません。
再臨はすべてのクリスチャンにとってハッピーなのではなく、むしろ多くのクリスチャンにとって嘆きのときになるということについて、御言葉から正しく解き明かしをしたり、クリスチャンが艱難時代を通ることについて呼びかけていく、そのような働きに御心があるのです。
むろん、キリスト教界とは、間逆の教理なので、こういったことについては、多くのクリスチャンから反感を買うことになると思います。
でも、そのような働きに携わっていくことに御心がありますし、そのことを自らの意志で選んでいく人は、神様の方法で遣わされていきます。
だからと言って、単に口先だけで希望するだけでは成立はしません。
先ほども申し上げたように、イエス様の弟子として忠実に歩んでいる人が用いられていきます。
この原則はイエス様の時も今も、全く変わりがないことです。
十二弟子がそうであったように、イエス様のそばを片時も離れずにくっついている人、具体的には祈り、御言葉の働きにひたすら従事している人です。
なおかつ、誠実を尽くして、神様のおきてと定めと命令を守る人、あるいは守れるように祈り求めている人です。
もし、このことに徹していくのなら、人々を永遠の命へ導くための働きの一端を担うようになっていかれます。
この働きはイエス様が地上で行われた数々の御業に通じることでもあります。
せっかく、神様の憐れみによって救われてクリスチャンになったのですから、真の意味合いで神様の働きを担う歩みに入られることをぜひ、おすすめします。
また、神様の働きを行っていくことは、多くの人を助けるだけでなく、ご自身の命を救うことにもなります。
そして、真の意味合いで救われたお一人一人を通して更に多くの人々が命の道を歩んでいかれるようになります。
イエス様はご自身が行われた御業をご自身だけにとどめずに明らかに弟子たちにこの働きを託されておられます。
多少の困難やリスクがあっても、神様に遣わされた時には正しい再臨のことや真実を宣べ伝えていきたいと思います。
イエス様は天の父の御心に正しく従ったがゆえに十字架につけられました。
しかし、死に至るまで神様に従われ、後において栄光を受けられました。
私たちも同じような試練や困難に遭遇し、最悪、死に追いやられてしまうかも知れませんが、ぜひ、イエス様が行われたような働きに携わっていきたいと思います。
そして、後の世においては、神様からの誉れを受けたいと思います。
証
かつての私もキリストの再臨について大きな誤解をしていました。
メッセージでも書かせていただいたように、すべてのクリスチャンにとってこの上無いハッピーな時だと思っていました。
そんなわけで、クリスチャンが艱難を通ることは、ほぼありえない、だから何も備える必要は無い、イエス様が来られるのを待っていればよいと安心感に浸った日々を過ごしていました。
しかし、ある時をさかいに、また、ある人が発した言葉をきっかけに、こんな思いが心にきました。
「もしかしたら、自分は天国へは行けないかも・・・」と。
そんな風に考えるようになってから、その思いは日増しに強まっていきました。
その時点では、まだ、艱難前携挙説を多少なりとも信じていました。
でも、このこともひょっとすると、そうではないのかも・・・と、少しずつ疑問を抱くようになりました。
自分は毎週礼拝に行っているし、祈っているし、聖書も読んでいる、でも、何かが違うと思い、神様に聞いてみました。
「どうしたら、天の御国に入れるでしょうか?」と、そのようなお祈りにも導かれました。
しばらくして、エレミヤの部屋のHPに導かれました。
そこには、何百というメッセージが掲載されていて、はじめから順番に読むようになりました。
どのメッセージも御言葉からの解き明かしだったので、どれもこれもが心に落ちていきました。
御言葉とメッセージを通して、自分の心に抱いていた数々の疑問が打ち砕かれていきました。
メッセージを読んでいく中で、キリストの弟子として歩んでいくことに御心があることを学び、これから自分が正しく神様の働きを担っていかれるようにひたすら祈っていました。
それから半年後、レムナントキリスト教会に導かれました。
そして1ヵ月後に、弟子の歩みに入らせていただくことが出来ました。
すでに2年以上が経過していますが、その間、数々の方法を通して、福音を語る機会を神様は私に与えてくださいました。
罪多く、神様の前に不従順な者ですが、ただただ、主の憐れみによって、その時々にかなった働きに携わることができ、時には遣わしてくださり、このことに心から感謝する日々です。
これからさらに厳しい時代に入っていくことは聖書を読むと明らかです。
御言葉に堅くついていくなら、間違いなく迫害されますし、すでに何十人かの人々からは無視されたり相手にされなかったり、疎遠になったりもしています。
でも、不思議なことに、聖霊に導かれるままに福音を語っている時が、私にとってとても平安になります。
神様が与えてくださる平安はまさに御言葉が言われている通り、世のものとは、全く違うのだなぁと、たとえ人からは嫌われたり罵られたりしても、喜びや感謝にますます満ち溢れていくことも体験させていただいています。
これからも、主の弟子として忠実に歩めるよう祈り求め、そういった中にあって機会がある度に、今、キリスト教界で盛んに言われている嘘・偽りについて御言葉から説明し、永遠の命への道について語っていかれたらなぁと思います。
こういったことを繰り返していく中で、約束の地である天の御国を受け継いでいかれたらと思います。
レムナントキリスト教会
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