聖書箇所 ヨハネの黙示録1:9

 

 

 

1:9 私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。

 

 

 

「御国を受け継ぐために」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。

 

 

 

メッセージの前に・・・

 

私事ではありますが・・・私がこうしてメッセージの訓練をしてから早4年以上の歳月が流れました。マタイの福音書1章からはじまって、いつの間にかヨハネの黙示録まできてしまいました。思い起こすと、ただただ神さまの恵みだなぁと、神さまに支えられているなぁと、感謝の一言に尽きます。今では毎週当たり前のようにタイプしていますが、ひとえに神さまのおかげだと思っています。子どもの頃、夏休みの宿題で読書感想文がありましたが、本を読むことすらままならず、なので当然文章を書くなんてことは大の苦手だったので、休み明けにまともに提出することができず、へたをすると提出しないなんて年もあって学校の先生から怒られた時もありました。もちろん今でも本を読むのが得意か?感想文を書くのが楽勝か?と質問されたら、すかさず「ノー!」と答えてしまうかもしれませんが・・・そんな私のことを神さまは憐れんでくださって助けてくださって、日々聖書を読めるようにしてくださって・・・そしてそのことにとどまらず、わずかながらも教えていただいたことについて文章を書かせてくださっていることを本当に感謝しています。神さまが許してくださるのなら、これからも続けていきたいなぁと、そんなことを内に秘めながら神さまに頼って書いていきたいと思いますので、ぜひよろしくお願いします。それでは、「御国を受け継ぐために」のテーマに沿って話したいと思います。

 

 

 

冒頭のみことばに書かれているように、キリストの12弟子の一人であるヨハネは、「パトモス」という島にいました。「パトモス」ということばは、聖書人名地名小辞典によると、「死ぬ運命にある」という意味があるそうです。節の前半には「イエスにある苦難と御国と忍耐にあずかっている」とあります。私の勘違いでなければですが・・・一般的に今のキリスト教会やクリスチャンの間では、「恵み」「神の愛」「祝福」ということばが強調されているように思いますが、気のせいでしょうか?そんな中で、「死ぬ」とか「苦難」とか「忍耐」とかは、なんだか聞いていて心地の良いことばには聞こえないかもしれません。しかし、「御国」とも書かれているように、もし、私たちが本当に御国に入りたいのなら、ヨハネがこのように言われたことは、私たちの歩みともどうやら無縁ではなさそうです。

 

 

 

ところで今、キリスト教会において、神さまの愛ということはかなり言われているかもしれません。もちろんそれは事実ですので否定はしませんが・・・しかし、それと同時に「神さまへの愛」ということも非常に大事なのでは?と思います。

 

 

 

たとえば、ある男性と女性が結婚を前提にお付き合いをしているとします。その時に男性は女性への愛を示します。当然、女性はそのことを喜びます。しかし女性のほうからは男性への愛を示さなかったとしたら、その男性はどう思うでしょうか?「自分はこんなに愛しているのに・・・」と残念に思ったり、不満を抱いたりしませんでしょうか?そしてあわや交際がストップして、結婚に至らないなんてことはないでしょうか?いくら男性が女性を愛していたとしても、女性が自分への愛情を示してくれないなら結婚しても虚しい、だったら結婚はしない!なんてことになってしまうのでは?と思います。

 

 

 

神さまも同じだと思います。たしかに神さまのほうから私たちを愛してくださったのは一面の事実です。そのことを知って感銘を受けて、多くの人がクリスチャンになると思います。もちろん私もその一人です。けれども愛されているからといって、そのままの状態にとどまっていて良いのか?単に神さまからの愛だけを喜んでいればよいのか?と言うとそうではないと思います。神さまが愛してくださっているのだから、私たちのほうでも神さまへの愛を示していくことを神さまは望んでいるのではないでしょうか?そして私たちのほうでも神さまへの愛を示さないのなら、キリストの花嫁として受け入れてもらうのは難しいのではないでしょうか?さっきの結婚の話ではありませんが・・・私たちがクリスチャンになって、そこから神さまとの交際がスタートしますよね。ただ、この世においてはあくまでも交際期間であって、結婚したわけではありませんよね。以前の私もそうだったのですが、交際=結婚と、そんな風に思っていましたがそうではなく、交際を経て、もっと言うなら、キリストとどんな風に関わったか?お付き合いをしたか?さらに言うなら、キリストのために苦難をも共にしたか?によって、後の世において花嫁にするかしないかを神さまがお決めになるのです。そのあたりを以前の私のように、多くのクリスチャンが少し勘違いしているのでは?と思いますので、本日の聖句から正しく理解したいと思います。もちろん恵みや祝福もくださる神さまではありますが、しかし、「苦難」をくださるというのも、聖書で書かれているもう一面の真理であるということは正しくとらえておきたいと思います。「苦難」というとざっくばらんに聞こえるかもしれませんが、KJV訳で読むと「試練」とか「艱難」という意味合いも含まれています。

 

 

 

そして「試練」「艱難」ということばと「パトモス」(死ぬ運命にある)ということばが、どうも関連するようです。実際の肉体の命を失うかどうかは別として、聖書の別の箇所に、「私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されています」ということが書かれています。「イエスのために」とは、私の解釈では、「みことばのゆえに」とも取れるのでは?と思います。要はみことばのための苦難を身に帯びているということを言われているのでは?と思います。そのことばに続いて、「それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです」とあって、もし、私たちがみことばのために苦難や試練や艱難に会っているのなら、この地上にあってイエスさまの命が全うされていると、分かりやすく言うなら、神さまの栄光が反映されていると、そんな風に理解できます。単刀直入に言うなら・・・イエスさまの命、すなわち神さまの栄光というのは、苦難を通してあらわされるということを言われていると思います。人間的には苦難なんか受けないほうがいい!と誰もが考えるでしょう。でも、聖書はじつに逆説的でありまして、ヨハネのようにこの世においてキリストにあって苦難を受けている人が御国をゲットするということを語っているのです。「あらそう。でも、私はクリスチャン生活を送っていて何の苦難もないわ」とおっしゃる方もいるでしょう。もちろんそれも否定はしません。でも、本当に御国をゲットするつもりで歩んでいくなら、少なくとも私の体験ではこちらが特別要望しなくても、勝手にと言ってはなんですが・・・「苦難」や「困難」はくっついてきます。神さまのご好意?とでも言ったら良いでしょうか?祝福や恵みだけでなく、御国ゲットのための「苦難」も、もれなくプレゼントとして贈られてきます。神さまからの愛の贈呈とでも言ったらよいでしょうか?()そして「苦難」が来るとどうなるのか?と言うと、それは避け得ようのないことなので、当然のことながら、聖霊にある忍耐をもってグッと堪えたり、神さまに助けを求めたりします。その時に良いことばかりが示されるかと言うと、「しばらく耐えなさい」という厳しいことばがくることもあります。そうすると当然のことながら、肉体の命はともかく、生きながらにして少なくとも自分の思いや感情には死ぬことになります。ちなみに万が一、殉教で肉体の命を失うということに関しては、こういったことの延長線にあるのでは?という風に私個人は理解しています。話は戻りますが、自分の思いや感情に死ぬことに関しては最終的には神さまが脱出の道を備えてはくださるものの、その渦中にいる時はかなり辛い思いをします。ただし、みことばに従わないクリスチャン生活を送るのなら、こういうこととはおおよそ無縁になるでしょう。しかし、みことばに「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受ける」とあるように、もし、私たちが何の試練にも会わず、あるいは試練に会ったとしても耐えることをしないのなら、いのちの冠がゲットできなくなる可能性がありますので、そのあたりは正しく理解して対応していきたいと思います。そういった意味合いでは試練に会うというのは、聖書的であると理解できますよね。であるがゆえに、恵みの一面とも取れます。それにきちんと対応するのなら、恵みや祝福につながるのですから。たしかに何の苦労もなく、あるいは何の試練もなく、永遠の命を得られたら、それに越したことはありませんが、でも、聖書ははじめから御国を受け継ぐ者については「試練」「困難」「艱難」が神さまの深い配慮で贈られてくるようですので、そのあたりは正しく正しくとらえておきたいと思います。パトモス島にいたヨハネが「苦難」と「忍耐」によって御国を受け継いだように、私たちもぜひそのことに倣って、御国の相続者としての歩みを目指していきたいと思います。

 

 

 

 

かつての私もそうだったのですが、多くのクリスチャンにとって「苦難」が御国の条件のひとつだという概念はあまりないかも知れません。でも、メッセージの中でも話したように、本気で御国を受け継ぎたい!と神さまの前にそんな風に表明しただけでも、敵からの攻撃がなお一層許されたり、神さまから試練や困難が次々に贈られてくるというのは、自分自身の体験を通して真実だなぁと言えてしまいます。もちろん人間的に喜ばしいか?と聞かれれば、そんなことは全くありませんし、むしろ私のような消極的なタイプは逃避したいなんて思いが常に先行します。でも、それこそ先ほどのみことばではありませんが・・・「耐え抜いて良しと認められた人は・・・」とあるので、試練や困難がきたときには、すかさずこのみことばを思い起こして対応するように心がけています。一難去って、それで終わりなら良いのですが、聖書の世界ではそうではなく・・・イエスさまやかつての使徒や預言者を見てもあらゆる試みの連続だったので御国を目指すなら、きっと同じ足跡をたどるのだと思います。ではあっても、神さまに祈り求めていくときにそれぞれの状況に応じた助けや守りも与えられるのも事実ですので、試練や困難や艱難の中でも、益々神さまにより頼んでひとつひとつのことを乗越えていけたらなぁと思います。本日も大切なことを語ってくださった神さまに栄光と誉れがありますように。

 

 

 

※ひと言補足させてください。

 

「試練」「苦しみ」「艱難」「忍耐」についてですが・・・「試練と同時に脱出の道も備える」というみことばがありますように、あくまでもその人の信仰のはかりに応じたものですので、そのことに対してあまりナーバスになったり心配したり思い煩ったりする必要はないと思います。そしてこの世の考えとは正反対ではありますが、メリットがあるのも事実です。ローマ人への手紙のみことば「艱難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し」とあるのですが、それらを通して霊的に強められたり、神さまにひたすら拠り頼むという力が増し加わる機会ともなりますので、よろしければこういうこともぜひ前向きにとらえていただけたらと思います。