聖書箇所 ヨハネの黙示録8:13

 

 

 

8:13 また私は見た。一羽のわしが中天を飛びながら、大声で言うのを聞いた。「わざわいが来る。わざわいが、わざわいが来る。地に住む人々に。あと三人の御使いがラッパを吹き鳴らそうとしている。」

 

 

 

「神によって選ばれたしもべを通して、前もって警告を語る神」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。

 

 

 

前章もそうでしたが、黙示録8章にも多くのなぞやたとえが使われています。また、この章全体で言われているのは、これからキリスト教会やクリスチャンの信仰が覆されるということについてです。「地震」ということばが出てきますが、「地震」は地を揺るがしますよね。そしてそれはたとえでもあって、教会やクリスチャンの信仰の土台が揺るがされるということも言われています。揺るがされて、それでも信仰を保てればそれで良いのですが、どうもこの章を読むと、「焼けた」とか「壊された」とか「死んだ」とかという風に、なんとも縁起でもないことばが出てきています。ちなみに「焼ける」で連想するのは、「火」ですが、「火」は霊的な事柄を指し、この場合は「悪い霊によってやられてしまう」ということを言われています。また、「壊された」ということばと一緒に「舟」ということばが使われています。「舟」は海(水、すなわち聖霊のたとえ)の中を通ることから「教会」のことを指します。そして「教会」が壊されるなんて聞くと、建物そのものが崩壊すると、そんなイメージを持つかもしれません。もちろん万が一火事でも起こればそういう可能性もありますが、これもたとえです。そして「教会」で行われているのが何か?を思い起こせば、「壊される」というのが何のことかも分かります。毎週日曜日、教会では牧師がメッセージをしますよね。それは教会のメインの働きなのですが、その肝心要のメッセージ、すなわち教理がおかしくなっていき、そこに集まっている信者の方々の信仰、すなわち贖いや救いが覆されていくことを言われています。また、「死んだ」ということばですが、「死」は「罪」と関係があります。ゆえに、これから教会やクリスチャンが「罪」にまみれていくと、そんな意味合いに取れます。よろしければこのようなことも心の片隅に置きながら、本日の箇所を共に学んでいきたいと思います。

 

 

 

ここで「一羽のわし」ということばが出てきます。KJV訳だと、“angel”(天使)と書かれています。要するに「御使い」のことを言われています。そしてその御使いは「わざわい」について声を発しています。さて、このことを聞いて少し不思議に思いませんか?目に見えない御使いが大声で人々に話をする時がいずれくる・・・と、そんな風に思いますか?このこともたとえではないか?と私個人は思います。たしかに原語(KJV訳)では「わし」ということばは使われていませんが、聖書の所々において「わし」ということばは出てきます。参考までに、いくつかみことばを見てみましょう。

 

 

 

参照 ヨハネの黙示録12:14,イザヤ書40:31

 

12:14 しかし、女は大わしの翼を二つ与えられた。自分の場所である荒野に飛んで行って、そこで一時と二時と半時の間、蛇の前をのがれて養われるためであった。

 

40:31 しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。

 

 

 

いずれも「鷲(わし)」ということばが出てきます。「鷲(わし)」は鳥類です。また、「鳥」は「霊的」なたとえとしてもよく使われます。黙示録では、女が大わしの翼を与えられて養われたとあり、イザヤ書では鷲のように上り、走ってもたゆまずと書かれていることから、これらの「鷲(わし)」は「悪霊」ではなく、「聖霊」のたとえだということが分かります。そして本日の箇所に戻りますが、ここでの「一羽のわし」(KJV:御使い)も、良い御使い、つまり「聖霊」の働きをする御使いのことを言われています。

 

 

 

さらに「御使い」ということばで、あることを連想しませんでしょうか?その箇所も見てみたいと思います。

 

 

 

参照 マタイの福音書24:31

 

24:31 人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます

 

 

 

上記のことばは、イエスさまが弟子たちに質問されて世の終わりのことについて語ったときに言われたことです。アンダーラインのところをお読みいただきたいのですが、神さまが世の終わりに御使いたちを遣わして天の果てから果てまで、四方から選びの民を集めることを言われています。ゆえに本日の「一羽のわし(御使い)が大声で言う」とは、御使いを通して神さまがお選びになった神の民が語る、ということを言われているのです。なので、御使いが直接声を発するのではなく、御使いを通して神さまによって選ばれた民(クリスチャン)がそのことをするのが理解できるでしょう。「ラッパ」ということばにも語りかけがあります。旧約聖書にも「ラッパ」は出てきます。ついでにその箇所も見てみましょう。

 

 

 

参照 民数記10:19

 

10:1 ついで主はモーセに告げて仰せられた。

 

10:2 「銀のラッパを二本作らせよ。それを打ち物作りとし、あなたはそれで会衆を召集し、また宿営を出発させなければならない。

 

10:3 この二つが長く吹き鳴らされると、全会衆が会見の天幕の入口の、あなたのところに集まる。

 

10:4 もしその一つが吹き鳴らされると、イスラエルの分団のかしらである族長たちがあなたのところに集まる。

 

10:5 また、あなたがたがそれを短く吹き鳴らすと、東側に宿っている宿営が出発する。

 

10:6 あなたがたが二度目に短く吹き鳴らすと、南側に宿っている宿営が出発する。彼らが出発するには、短く吹き鳴らさなければならない。

 

10:7 集会を召集するときには、長く吹き鳴らさなければならない。短く吹き鳴らしてはならない。

 

10:8 祭司であるアロンの子らがラッパを吹かなければならない。これはあなたがたにとって、代々にわたる永遠の定めである。

 

10:9 また、あなたがたの国で、あなたがたを襲う侵略者との戦いに出る場合は、ラッパを短く吹き鳴らす。あなたがたが、あなたがたの神、主の前に覚えられ、あなたがたの敵から救われるためである。

 

 

 

「ラッパ」は何に使われるのか?と言うと、上記箇所を読んで分かるように、神の民を召集したり、戦いに出たりする時に吹き鳴らされます。それによって、敵の攻撃から守られたりもします。そしてこれは型でもあります。何を申し上げたいのかと言うと、世の終わりも「ラッパ」が吹き鳴らされるのです。聖書にも書いているように、世の終わりは惑わす霊が送られるので、教理的にも霊的にもおかしくなっていく時なのです。信じがたいことかも知れませんがズバリ言うと、キリスト教会の中に敵がどんどん入り込んでくるのです。いや、もうすでに入ってきていると思います。たとえば「地獄は無い」とか「クリスチャンは艱難を通らずにその前に携挙される」という教えは、クリスチャンを滅びへと追い込むべく敵がもたらした嘘・偽りの教理です。また、「デーモン、デーモン」と悪霊を呼び寄せている器を集会に招いて、あろうことか教会は「聖霊」ではなく、「悪霊」が下されているのです。そういうことに対して、神さまはただじっと黙っているのではなく、神さまが選んだ教会やしもべ(働き人)を通して異を唱えさせる、つまり警告のラッパを吹き鳴らさせるのです。「そのまま行くと、永遠の命が危ないよ!だからただちに方向を変えましょう!!」と。それこそ聖書のどこかに、「神は事をなさる前に、前もって預言者を遣わす」なんてみことばがあるように、何の警告も無しに突如として災いを下されるお方ではなく、きちんとそのことを伝える働き人を遣わして、警告をしてから事を起こされるのです。もちろん神さまが直接声を発せられるわけてはありませんが、しかし御自身が選ばれた働き人を通してなされるのです。なので、警告かな?と思われた時には、すかさずその声に聞き従うことをおすすめします。そうすれば、後に幸いを得ますので。そして冒頭のみことばでは、「わざわいが地に住む人々にくる」と言われています。このことは今までも度々語ってきましたが、「地に住む人々」すなわちこの世の価値観にすっかり入っているクリスチャンに対して、「わざわいがくる」ということを言われているのです。そういう人たちを悔い改めへと導くために、一羽のわし(御使い)、すなわち神さまによって選ばれたクリスチャンが御使いによって集められて、そういった働きに携わるのです。それこそはじめに話をしたように、舟(教会)が壊されたり、悪い霊によって完全にやられてしまってからでは遅いので、前もってこのことを警告するのです。そしてそういうことに関して目が開かれたクリスチャンが神さまによって集められて、警告の働きを共に担っていくのです。なので、もし、主の憐れみによって世の終わりの教会やクリスチャンの教理や霊の変質に気付いて、そのことに重荷を持たれているのでしたら、ぜひ、共に働きをしていきましょう。そして一人でも多くの人を悔い改めへと導いていきたいと思います。今、まさに神さまはこういった働き人を求めておられますので、御心を感じましたらぜひ、共に警告の奉仕に携わっていきたいと思います。

 

 

 

 

私も、こんな風にわずかながらも警告の働きを担わせていただいています。個人においてもそうですが、教会全体の警告の働きの一端に携われていることを日々主に感謝しつつ、させていただいています。かつては教会の教理が破壊されるとか、クリスチャンの信仰が覆されるなんて夢にも思っていなかったのですが、ある時を契機にこういったことに関して神さまから目を開けていただいて、今に至っています。それこそ、みことばに「受けるよりも与えるほうが幸い」だとありますが、全くその通りでありまして、神さまから教えていただいた一部のことを、ほんのわずかでもお分けすることができる幸いにも心から感謝しています。聖書には教会の崩壊、すなわち教理が覆されることや、クリスチャンが霊的におかしくなっていくことについて語られていますので、神さまから示しを受けた時には、みことばを通してこれからもぜひ語っていきたいと思います。自分自身もそうですが、一人でも多くのクリスチャンが惑わす霊や混乱から守られますようにとりなしながらも、これからも警告の働きの一端に携わっていきたいと、本日の箇所を通して益々そんな風に思いました。本日も大切なことを語ってくださった神さまに栄光と誉れがありますように。