聖書箇所 ヨハネの黙示録10:7

 

 

 

10:7 第七の御使いが吹き鳴らそうとしているラッパの音が響くその日には、神の奥義は、神がご自身のしもべである預言者たちに告げられたとおりに成就する。」

 

 

 

「神の奥義が成就する日」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。

 

 

 

何度か説明しているように、黙示録には「御使い」ということばが頻繁に出てきます。これらの御使いに共通しているのは、どの御使いもラッパを吹き鳴らしていることです。さらに見ていく中で気付くことですが、本日の箇所の御使いに関しては他の御使いと異なることが分かります。今までの、第六の御使いまでは単に「ラッパを吹き鳴らした」とあるのですが、第七の御使いに関しては若干違います。たしかにラッパを吹き鳴らすということについては同じではありますが、ただ吹き鳴らすだけでなく、その「ラッパの音が響く」ということについて言われています。まさに「第七の御使いが吹き鳴らそうとしているラッパの音が響くその日には」と書かれている通りです。「ラッパの音が響くその日」とは、どんな日かお分かりでしょうか?参考まで、類似した箇所を見てみましょう。

 

 

 

参照 Ⅰテサロニケ人への手紙4:16

 

4:16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、

 

 

 

下線のところを見ていただきたいのですが、「ラッパの響き」ということばが使われています。これはさきほどの黙示録の「ラッパの音が響く」のことばと同じです。そしてテサロニケ人への手紙を見ると、そのことばに続いて「ご自身天から下って来られます」とあって、これはまさに「キリストの再臨」の日のことを言われています。再び黙示録に戻りますが・・・ですから冒頭のみことばは、「キリストの再臨の時に、神の奥義は、神がご自身のしもべである預言者たちに告げられたとおりに成就する」という意味合いになります。

 

 

 

ところで「奥義」ということばに関してですが・・・聖書のあちらこちらで、「奥義」ということばが使われているのをご存知でしょうか?ちなみにKJV訳では、“mistery”(神秘的なこと、不可解なこと、なぞ)とあります。なので、聖書のことばというのはある意味、“mistery”すなわち、「なぞ」に満ちているものだとも理解できます。それこそ「イエスはたとえによらないで話されることはなかった」とあるように、多くのなぞに包まれていると言えます。そして、この「なぞ」に関してですが、「神の奥義は、神がご自身のしもべである預言者たちに告げられた」と書かれているように、神さまのしもべとして歩んでいる人には、解き明かしてくださるのです。さきほどの「イエスはたとえに~話されることはなかった」のことばに続いて、「ただ、ご自分の弟子たちにだけは、すべてのことを解き明かされた」と書かれている通りです。ですから今の時代も、本当にイエスさまの弟子として歩んでいるのなら、「なぞ」は解き明かされていくのです。残念ながら、群衆の歩みに留まるときに、そのことは期待できないのです。なので、もし、志を与えられたのでしたら、ぜひイエスさまの弟子として歩んでいくことをおすすめします。

 

 

 

さて、話は戻りますが、イエスさまの再臨のときに、何が起こるのか?が、本日のメインでありますが、主の弟子として歩んでいた人たちに示された奥義が、その日に成就するのです。そして聖書に「天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」とあるように、聖書に書かれているすべてのことばは、間違いなく成就するのです。たしかに神さまの時が来ていないので、いまだ成就していないみことばはありますが、しかし、イエスさまの再臨のときに、しもべを通して示された奥義、あるいはしもべを通して語られた奥義はすべて成就するのです。この「成就」ということばもKJV訳を見てみたのですが、“finished”ということばが使われていて、意味合いとしては「終わった」「完成した」「仕上がった」という意味です。つまり聖書に書かれている多くの奥義、すなわち「謎」のすべてが、イエスさまの再臨の日に成就する、ということです。ですから私たちは、その日のために今から備えをしていかなければいけません。そのためには、「奥義」すなわち「謎」について知っていかなければいけません。「奥義」を知らないために、区分されて裁かれてしまうことのないように、気を付けていかなければいけません。それこそ群衆やパリサイ人や律法学者は奥義を悟らなかったために、イエス・キリストを十字架に付けて殺し、その後皆裁かれて滅んでしまったのですから・・・要は天の御国を彼らは受け継がなかったのです。

 

 

 

では、そうならないためにはどうすれば良いのでしょう?さきほど話したように、イエスさまの弟子になるのが、その答えです。「弟子たちには、すべてのことを解き明かされた」とあるので、弟子の歩みに徹していけば良いのです。そのためには、ある程度の訓練も必要でしょう。いつも申し上げているように、お祈り&聖書通読は毎日欠かさずに行っていくことが大事です。また、「終わりの日には、息子や娘は預言をする」とも言われているので、預言を求めていくことも必須ではないでしょうか?それらに加えて、神さまの御心をおこなうことにひたすら集中していくことも非常に大事です。それがまさにイエスさまの弟子と言われる歩みですので・・・口先や形ではなく、本当にこのことに徹していくのなら、あらゆる「奥義」すなわち「謎」が解き明かされていくのです。そして「奥義」すなわち「謎」をきちんと理解して、そのことに則して歩んでいくときに、イエスさまの再臨の日に「キリストの花嫁」として迎えていただけるのです。

 

 

 

反対にさっきも話したように、群衆の歩みに留まり続けて「奥義」に精通しないときに、天の御国は非常に危ないものとなりますので、そのあたりのことは正しくご理解いただきたいと思います。「神の奥義が成就する日」すなわち「キリストの再臨」の時というのは、ある意味、聖書の「奥義」すなわち「謎」に対してどのように対応したか?による区分の日ともなりますので・・・そして残念ながら大半の人は、聖書のもっとも大事な部分(奥義、謎)を逃してしまって永遠の命をミスする可能性がありますので、そんなことになることのないように前もって備えていきたいと思います。「神の奥義が成就する日」を絶えず視野に入れて、イエスさまの弟子としての歩みをして、着々とその日のために備えていきましょう。そしてその日に、キリストの花嫁としてイエスさまに迎えられていきましょう。

 

 

 

 

今に至るまで、弟子の歩みに関しては機会があるたびに話をさせていただいたと思います。また、エレミヤ牧師が礼拝のメッセージやセミナーでも語られているように・・・「奥義」を悟るかどうかが、「永遠の区分をもたらす可能性がある」ということを言われていますが、私もこのことには同調です。なので、悪い意味合いでそんなことにならないように、日々、神さまから助けと力を祈り求めて、弟子としての歩みに励んでいます。そして早5年の歳月が流れましたが、その間、「永遠の命」に関するありとあらゆる「奥義」すなわち「なぞ」を示していただいています。

 

 

 

「奥義」すなわち「なぞ」に関して一例を挙げるなら・・・最近の礼拝メッセージで学んだことですが、クリスチャンと呼ばれる人がすべて天の御国を受け継ぐわけではないということです。その時にサンプルとして挙げられていたのが、「アブラハム」のことです。「アブラハム」には二人の息子がいました。一人は自由の女から生まれた子ども「イサク」です。もう一人は、女奴隷の子どもから生まれた「イシュマエル」です。ここにはたとえが使われていて、意味合いとしては、「自由」とは、「罪から自由になっている」ということで、一方「奴隷」とは、「罪の奴隷になっている」ということです。そして両者共、クリスチャンの型なのですが、片や「罪」から解放されて歩みをしているクリスチャンと、片や「罪」の奴隷状態となって歩んでいるクリスチャンとが対比して言われているのです。なので、クリスチャンと称していても、「罪」から自由になっていない場合、天の御国を受け継がない、ということを言われているのです。このことは聖書にズバリ書かれていることではありませんが・・・しかし、「奥義」すなわち「なぞ」と言われる類いのことなのです。

 

 

 

そして、もし、弟子の歩みをしなかったら、こういった「奥義」すなわち「なぞ」を理解するということは、まず、無かったと思います。そのことに日々感謝を捧げながらも、これからも「奥義」すなわち「謎」を解き明かしていただけるように神さまに祈り求めつつ、弟子の歩みに益々励んでいきたいと思いました。そしてイエスさまの再臨の日には、ぜひ、花嫁として迎えていただけるような歩みを聖霊にあって成していきたいと思います。本日も大切なポイントを語ってくださった神さまに栄光と誉れがありますように。