聖書箇所 ヨハネの黙示録11:1,2

 

 

 

11:1 それから、私に杖のような測りざおが与えられた。すると、こう言う者があった。「立って、神の聖所と祭壇と、また、そこで礼拝している人を測れ。

 

11:2 聖所の外の庭は、異邦人に与えられているゆえ、そのままに差し置きなさい。測ってはいけない。彼らは聖なる都を四十二か月の間踏みにじる。

 

 

 

「神の前にカウントされる」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。

 

 

 

冒頭のみことばで、「測る」ということばが使われています。この「測る」ということばは、聖書のあちこちに出てきます。また、余談ではありますが、この「測る」ということばば、聖霊の働きにも通じることばです。ルカの福音書に、「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」ということばがあります。「与えなさい」とありますが、これはたとえば人にプレゼントを与えるとか、良いことをするとか、そういうことも言われているかもしれませんが、単にそれだけではなく、私たちが自分自身をイエス・キリストに捧げる、そして神さまの働きをする、ということも言っていると思います。そうするなら・・・「あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう」と書かれているように、神さまのほうで、私たちにあふれるばかりの祝福や恵み、つまり聖霊の力や働きを注いでくださる、ということを言われているのです。

 

 

 

ところで、ここでは「測れ」「測ってはいけない」ということばが使われています。いわば対照的なことが言われています。これは何を言われているのでしょうか?それから「測る」ということばに類したことばで、「数に入る」とか「登録される」のいうことばがあります。せっかくなので、それらのみことばも見てみましょう。

 

 

 

参照 民数記1:1821

 

1:18 第二月の一日に全会衆を召集した。そこで氏族ごとに、父祖の家ごとに、二十歳以上の者の名をひとりひとり数えて、その家系を登記した

 

1:19 主がモーセに命じられたように、モーセはシナイの荒野で彼らを数えた

 

1:20 イスラエルの長子ルベンの子孫は、氏族ごと、父祖の家ごとの、その家系の者であって、ひとりひとり名を数えられた二十歳以上で軍務につくことのできるすべての男子であった。

 

1:21 ルベン部族で登録された者は、四万六千五百人であった。

 

 

 

上記箇所で、「登記した」「数えた」「登録された」ということばが使われています。そしてどんな人が数えられたのか?ということについて言われています。まず、19節「荒野で彼らを数えた」とあります。ちなみに「荒野」は、レムナントキリスト教会では「地下教会」だと認識しています。都の教会、つまり既存の「正統派」とは言われる教会とは逆の立場の教会です。そして、イエスさまご自身もよく、会堂(今で言う正統派の教会)を出て「荒野」に退かれてお祈りをしていた、とも言われているので、どうも「荒野」(地下教会)と呼ばれる教会に神さまの御心はあるようです。そして、「荒野」いわゆる「地下教会」にいる人が数えられたことが分かります。次に20節「二十歳以上で軍務につくことのできるすべての男子」が「数えられた」とあります。「軍務」すなわち「戦い」に出られる人が数えられたことを言われています。「戦い」とは何の戦いか?と言うと、「剣」の戦い、いわゆる「みことば」「教理」に関する戦いのことです。また、「軍務」につく人というのは、「勇士」のことも言われていると思います。「勇士」とはどんな人か?と言うと、詩篇の記述にもあるように、みことばの声を聞いておこなう人のことです。そしてこれらの条件を満たす人が「数に数えられる」「登録される」人たちなのです。そう、まさに「測られる」人のことです。

 

 

 

クリスチャンと聞くと、人間的なイメージとしては「一枚岩」と思う方が多いと思います。私もかつてはそのように思っていたのですが、しかし冒頭の2節のみことばで「測ってはいけない」とあるように、要は「測られない」「数に入らない」クリスチャンも実在するということです。そして「測られない」クリスチャンは何をするのか?と言うと、「聖なる都」すなわち神の御心を行う天的な教会を42ヶ月間(艱難時代の3年半)踏みにじるのです。「聖所の外の庭」とは、天的な教会とは反対の意味合い、つまり地的な教会、この世についた教会のことを言われていると思います。「異邦人」ということばにも語りかけがあります。それはこの世の神さまを知らない未信者のことも言われていますが、それだけでなく、この世に着いた異邦人のような歩みをしているクリスチャンのことも言われていると思います。ですからここで言われているのは、異邦人のような、いわば俗的なクリスチャンが「聖なる都」であるキリストの教会を踏みにじるということです。具体的に何をするのか?と言うと、正しい教理を覆したり、おかしな霊を教会に蔓延させたりするのではないかと思われます。しかし、残念ながらそういうことをするクリスチャンは「測っていけない」と書かれているように、「測られない」のです。そして、この「測られるか?」「測られないか?」は、後の世における大いなる区分をもたらすのです。つまり「測られない」というときに、「天の御国」を相続することができなくなるのです。また、それと似たような表現で「登録されない」ということばをさきほど見ましたが、「登録」ということばは、「命の書」に名が記されるということに通じるのではないか?と思います。ゆえに「登録されない」ということは、「命の書」に名が記されていないということを言われているのでは?と思います。これって、よくよく考えると恐ろしいことですよね?

 

 

 

また、「測る」とか「登録される」とか「数えられる」ということですが、これはどこまでも「神の前」に、そうであることが大事なのです。自称クリスチャンだとか、人前に認められている、あるいは尊敬されているなんてことは、まったく関係ありません。大事なことなので再度言いますが、人前はともかく、神さまの前に「数えられる」こと、「登録される」こと、「測られる」ことが、とてもとても大事なのです。神さまの前に、「測られない」ときに、あるいは「登録されない」「数えられない」というときに、「命の書」に名が記されることはなく、あるいは名が記されていてもあわや消されてしまって、天の御国を受け継げなくなってしまいますので、「登録される」「測られる」「数えられる」者になっていくことが重要です。昨今キリスト教会やクリスチャンの間では「天の御国に入るなんて楽勝さ!」なんていう風潮があるようですが、本日の箇所を読むと、クリスチャンであっても、御国に入れる人とそうでない人がいることが分かりますよね?なので、人前はさておき、神さまの前に「天の御国」にふさわしい歩みをしていきたいと思います。最後に、そのポイントについて話したいと思います。

 

 

 

さきほどメッセージの中で「みことばを聞いておこなう人」が「勇士」だと述べましたが、その歩みに徹すれば良いのです。まずは、みことばを聞くことです。そのためには聖書のことばを毎日読むことです。年に、2~3回のペースでの通読をおすすめします。また、毎日、ある程度のお祈りの時間を持ちましょう。いくら良い教えを聞いても、あるいは知識を得ても、お祈りによって聖霊さまから力を受けなければみことばをおこなうことはできませんので、お祈りも非常に大事なポイントになるでしょう。そうですねぇ、最低でも一日2時間は祈りましょう。これはあくまでも「最低」の時間です。はじめは「無理」「厳しい」と思うかもしれませんが、「お祈りする時間が与えられますように」とか「お祈りする力が与えられますよう」という風に事前に神さまにお願いしていくことによって、このことも聖霊さまの力によって、それほど難なくクリアーできますよ。なので、御心を感じましたら、ぜひ、実践してみてください。そう、みことばを聞いて、なおかつおこなっていく、このことを繰り返していくのなら、神さまの前に測られます。数にカウントされていきます。命の書に名が記されていきます。ですから志を与えられたのでしたら、つぶやくことなく、疑うことなく、すぐにでもおこなってみてください。そして、もう一面のことも話しておきます。

 

 

 

反対に御心をおこなわない人はどうなっていくのか?と言うと、残念ながら「命の書」に名が記されることはないと思います。それこそ聖書に、「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。」と書かれている通りです。そのあとに続いて、「その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」ということが書かれています。「主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし~奇蹟をたくさん行なったではありませんか」と言っています。要するに、イエス・キリストの名によって預言もしたし、悪霊も追い出したし、奇蹟をたくさん行なった、つまり聖霊にある働きをした、ということを彼らは言っているわけです。しかし、それに対して「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け」と言っているので、気を付けていきたいと思います。ぜひ、みことばを聞いておこない、神さまの前に常にカンウトされていく中で、天の御国へ確実にゴールしたいと思います。

 

 

 

 

信仰生活を送っていく中で、私自身がよく気にしたり、度々神さまに確認するのは「神さまの御性質」です。なぜか?と言うと、それを理解しないと、「神さまの御心」をおこなうことができないからです。神さまがどんなことを望んでいるのか?何を喜ばれるのか?について、聖書を読みながら、祈りながら、このことに着眼しながら、歩ませていただいてします。また、本日のメッセージにも書きましたが、私も弟子の歩みをしているので多少なりとも天からの賜物をあずかっている者ですし、それらを用いて働きや歩みをさせていただいていますが、ではあっても、「御心をおこなう」ことに絶えず焦点を当てて歩みをするように心がけています。いくら賜物を用いて働きをしていても、神さまがお喜びにならないようなことをしてしまうときに、神さまの悲しみとか嘆きとかというものを今まで何度も御霊によって痛切に感じてきましたので、こういったことに気を付けながら、これからも歩みをさせていただきたいと思います。本日の聖書箇所を通して、益々そのような思いが強まり、志が与えられて、とても感謝でした。いつも大切なことを語ってくださる神さまに栄光と誉れがありますように。