聖書箇所 ヨハネの黙示録15:3,4

 

 

 

15:3 彼らは、神のしもべモーセの歌と小羊の歌とを歌って言った。「あなたのみわざは偉大であり、驚くべきものです。主よ。万物の支配者である神よ。あなたの道は正しく、真実です。もろもろの民の王よ。

 

15:4 主よ。だれかあなたを恐れず、御名をほめたたえない者があるでしょうか。ただあなただけが、聖なる方です。すべての国々の民は来て、あなたの御前にひれ伏します。あなたの正しいさばきが、明らかにされたからです。」

 

 

 

「公正にさばく神」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。

 

 

 

私たちクリスチャンは、いずれ神さまの前に立ちます。その時に善であれ、悪であれ、いずれもこの地上で行ったしわざに応じて報いを受けます。Ⅱコリント人への手紙に、「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです」と書かかれている通りです。

 

 

 

「あなたの正しいさばき」と、ありますが、KJV訳では、“judgments are made manifest”とあります。訳すと、「明白な判断」という意味です。死後、私たちは一つ一つの行いに関して、神さまから「明白な判断」を下されるのです。ちなみに同じ黙示録に「人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた」とあります。救われるのは、たしかに「行ない」にはよらないのですが、しかし、さばきに関しては「行ない」ということが強調されています。そしてそれに対して、「明白な判断」がなされるのです。人の判断には誤りがあるかもしれませんが、「聖なる方」「真実」と呼ばれている神さまには、寸分の狂いなどありません。すべての事柄について、正しく“judge(判断)してくださるのです。なので、この世の中において、神さまの前にいかに正しく歩むか?は、とても大切なことだと思います。もちろん「良き模範を示す」という意味合いでは、人の前にも正しいほうが良いのではあります。だからと言って、人の評価を気にするのではなく、神さまがどう思われているのか?ということに常々着眼していくことが非常に大事なのでは?と思います。

 

 

 

また、先ほどの黙示録の「行ない」のところは、KJV訳では、“works(働き)という単語が使われています。行ないも大事、けれども、「働き」つまり「神さまの奉仕」によっても、さばかれる(判断される)、ということも捉えておきたいと思います。これは具体的には、みことばを解き明かす働き、すなわちメッセージの奉仕のことだと思います。どこにそんな根拠があるのか?メッセージ以外にも、色々と奉仕があるではないか?と思うかもしれません。たしかに種々の奉仕があります。しかし聖書では、メッセンジャーや教師へのさばきに関してことさらに強調されているのをご存知でしょうか?福音書でイエスさまはパリサイ人や律法学者に対して叱責をしました。「公義(英語:裁き)と神への愛はなおざりにしています。これこそしなければならないことです」と。また、ヤコブの手紙で、「教師は格別きびしいさばきを受ける」ということが書かれています。これは何を言っているのか?と言うと、メッセージャーの語ることばによって、信者の死後の行き先が確定する、ゆえに正しく語らないときに、厳格なさばきを招く、ということです。先ほどの「公義と神への愛はなおざりにしています」のみことばではありませんが、もし、神さまの愛や祝福や恵みばかり語っているのなら、「神さまの愛だけでなく、呪いや災いや裁きに関しても、きちんと述べよ」ということなのです。そうでないときに、「メッセージを語る立場にいながらも、信者を永遠の命に導けないぞ!」ということなのです。ゆえに、行いだけでなく、みことばを正しく伝える働きをする、というのも、いかに大事なことであるかがお分かりになるでしょう。

 

 

 

たとえば、聖書には「地獄(火の池)」に関する記述があるのですが、それを無視して「地獄はない」というメッセージをするなら、どうなるでしょうか?もし、本当に「地獄」が無いのなら、何も悔い改める必要なんてありませんよね?しかし聖書では「悔い改め」のことも強調されていますよね。そうするとどうなるでしょうか?そういう教理を盲信して歩むときにクリスチャンが入るべき「天の御国」に入れなくなる可能性が大いにありますよね?反対に「聖書には地獄のことが書かれているので、そこに入ることがないように歩みを糾していきましょう」という風にメッセージをするなら、滅びに向かっている人々を「地獄」から救える可能性がありますよね?このことからも、みことばを正しく解き明かすことも、非常に大事だということが分かりますよね?そう、もし、みことばと逆のことばかりメッセージをするなら、悪い意味合いで裁かれてしまうので、くれぐれも気を付けていきたいと思います。

 

 

 

重ねて申し上げます。これもイエスさまが言われたことですが・・・メッセージを正しく語らないときに、「しかし、忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、人々から天の御国をさえぎっているのです。自分もはいらず、はいろうとしている人々をもはいらせないのです」のみことばが、偽善的な教えを語る教師や牧師に、悪い意味合いで成就してしまうでしょう。要は、偽善的なメッセージを語る人も、教えを受ける人も、「天の御国」に入れない、ということを言われているのです。ですからメッセージに関しても、神さまの前に正しく行っていきたいと思います。場合によっては、正しく語ったために、人から変な目で見られたり、拒否されてしまうかもしれません。はたまた信者の人が教会から去って行くこともあるでしょう。でも、すべてにおいて正しく判断される神さまを恐れて、行っていきたいと思います。

 

 

 

本日の要点をまとめます。クリスチャンであっても、死後、二つの運命があります。神さまの前に「天の御国」に入るにふさわしいとされるクリスチャンと、そうではないクリスチャンがいる、ということです。その判断基準は、「行ない」&「働き(みことばの奉仕)」によります。これらのことについて、神さまから「良し!」と認められれば、天の御国に入ります。しかし、そうではないときに、天の御国に入るのは厳しいと言えるでしょう。でも、正しく行っているのなら、怯えることはありません。そのまま継続していきましょう。でも、万一、今の歩みや働きでは良くないのでは?と思われるのでしたら、直ちに方向を変えていきたいと思います。それこそ死後では、取り返しがつきませんが、今なら十分間に合います。また、みことばにもありますように、いずれ私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きをしなければいけませんので・・・ぜひ、公正に判断される神さまを恐れて、歩み&働きを正しく行っていきたいと思います。そして後の世において、神さまからの栄誉を受けたいと思います。

 

 

 

 

以前は、クリスチャンとして歩んでいれば、天の御国に入れる!と思っていたので、「行い」や「働き」に応じてさばかれる、なんてことは夢にも思っていませんでした。でも、聖書を読むとそうではなく、正しく歩めば祝福を受けるし、そうでないなら、呪いや災いを招いてしまうことを知りました。なので、その時からスイッチを入れ替えて、歩むようになりました。そうしていく中で、「うんうん、みことばは真実だなぁ」ということを痛切に感じるようになりました。たしかに神さまの前に正しく歩んでいるときは、祝福をいただけます。でも、神さまの前に歩みが正しくないときに、ろくでもないことが起きる、なんていうことに少しずつ気付かせていただくようになりました。本日のみことばや学びを通して、神さまの前にいつも正しく歩んでいけたら、働きを担っていけたら、と思いました。今回も大事なポイントについて語ってくださった神さまに栄光と誉れがありますように。