聖書箇所 ヨハネの黙示録18:7,8
18:7 彼女が自分を誇り、好色にふけったと同じだけの苦しみと悲しみとを、彼女に与えなさい。彼女は心の中で『私は女王の座に着いている者であり、やもめではないから、悲しみを知らない。』と言うからです。
18:8 それゆえ一日のうちに、さまざまの災害、すなわち死病、悲しみ、飢えが彼女を襲い、彼女は火で焼き尽くされます。彼女をさばく神である主は力の強い方だからです。
「やもめの歩みに御心あり」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。
「やもめの歩み」に関しては、少し前にⅠテモテの手紙でもお話させていただきましたが、今回の箇所でも「やもめ」ということばが出てきましたので、重ねて話をしたいと思います。もしすると、以前のメッセージと少し重複するかもしれませんが、よろしければお読みいただけたらと思います。
ちなみに聖書では、「やもめ」と「バビロン」が対比して書かれています。冒頭のみことばでは「バビロン」ということばは出てきませんが、この章をはじめから読むと、7,8節の「彼女」とは、「バビロン」を指すことが分かります。また、今しがた「バビロン」の反対語は「やもめ」だと申しましたが、「バビロン」とは、アメリカ由来の嘘、偽りの教理の他に、この世についたクリスチャンのことも指します。「私は女王の座に着いている者であり、やもめではないから・・・」とありますように、反対に「やもめ」とはこの世には夫はない、しかし、キリストを夫する真にキリストについたクリスチャン、つまり天的なクリスチャンのことを言われているのです。ですから、「私はやもめではない」なんていうことを口に出さないまでも、心の中で思っている人は、「私はこの世についたクリスチャンですよ」ということを自他共に認めているようなものなのです。建前はともかく、実質は「バビロン」的なクリスチャンが多いということを、上記みことばは暗示しているように思います。そう、そして特に終末は教会の堕落や背教の時でもありますので、人の目はともかく、ひょっとすると神さまの前にはそんな風に見なされているクリスチャンが案外多いのでは?と思います。そのようなことを念頭に置きつつ、みことばから話をしたいと思います。
18:7 彼女が自分を誇り、好色にふけったと同じだけの苦しみと悲しみとを、彼女に与えなさい。彼女は心の中で『私は女王の座に着いている者であり、やもめではないから、悲しみを知らない。』と言うからです。
ここで、「やもめではないから、悲しみを知らない」と心の中で思っているクリスチャンに対して、「彼女が自分を誇り~彼女に与えなさい」という風に、神さまが怒りをあらわにしています。「彼女が自分を誇り、好色にふけった」のところは、KJV訳では、「自分を賛美し、とても楽しい」と訳されています。人間の常識から言えば、悲しみを知らないに越したことはなさそうですし、悲しんでいるよりかは楽しんでいたほうが良いように思えますよね?しかも、やもめのように、孤独よりもそうでないほうがいいと、そんな風に考えますよね?当然この世の中は、そういった流れにあります。でも、聖書では、こと、今回の箇所ではそのことを全く奨励していないことが分かりますよね?それどころか、それに対して神さまは怒りすら発していますよね?とは、言っても、「本当にそうなのか?」と思われる方もいらっしゃいますので、他の箇所も参照してみたいと思います。
参照 ルカの福音書6:21
6:21 いま飢えている者は幸いです。あなたがたは、やがて飽くことができますから。いま泣いている者は幸いです。あなたがたは、いまに笑うようになりますから。
上記みことばは、イエスさまが言われましたが泣いている人のことを奨励していることばです。ちなみに「泣いている」のところは、KJV訳では「泣く」の他に、「嘆く」「悲しむ」とあります。このことばで思い出すみことばがあります。参考までに、紹介します。
参照 エゼキエル書9:4
9:4 主は彼にこう仰せられた。「町の中、エルサレムの中を行き巡り、この町で行なわれているすべての忌みきらうべきことのために嘆き、悲しんでいる人々の額にしるしをつけよ。」
「町」とは、「教会」のことを指すたとえだと思います。「すべての忌みきらうべきことのために嘆き、悲しんでいる人々の額にしるしをつけよ」とありますように、教会やクリスチャンの背信のことで「嘆き、悲しんでいる人々」の額に「しるし」(聖霊の印)がつけられることを言われています。「笑っている人」とか「楽しんでいる人」につけられた、とはありません。もう一度言いますが、「嘆き、悲しんでいる人々」に聖霊の印がつけられるのです。それこそ「やもめではないから、悲しみを知らない」なんて思っている人には聖霊の印は押されない、ということを言われているのです。逆に、悲しみを知っているやもめに、聖霊の印が押されるのです。なので悲しんでいたり、やもめの歩みをしていることが、いかに大事かが分かります。反対に、嘆いたり、悲しんでいないときに、そしてやもめの歩みをしていないというときに、聖霊の印が押されることは恐らく無いと思われるので、注意が必要です。クリスチャンは「聖霊の印」が押されてなんぼのものですから。しかも「聖霊の印」が押されていないということは、最悪「悪霊の印」が押されているなんていう可能性もありますので・・・そうすると天の御国は非常に危ないものとなりかねませんので、もしもお心当たりがありましたら、直ちに方向を変えていきたいと思います。次を見てみましょう。
18:8 それゆえ一日のうちに、さまざまの災害、すなわち死病、悲しみ、飢えが彼女を襲い、彼女は火で焼き尽くされます。彼女をさばく神である主は力の強い方だからです。
「私は女王の座に着いている者であり、やもめではないから、悲しみを知らない」と思っている人へのさばきについて、上記みことばは述べています。「さまざまの災害」「死病」「悲しみ」「飢え」に見舞われることを言われています。「さまざまの災害」は、KJV訳では「疫病」「伝染病」(霊的な病とか罪)とあります。「死病」のところは、「死」と訳されています。「飢え」とは、霊的に飢えることを言われていると思います。つまり霊的に正しく見たり聞いたりすることができずに、結果、霊的に枯渇する、ということを言われていると思います。また、「火」は、霊的なたとえとして使われます。この場合は、聖霊とは逆の「悪い霊」のことを言われていると思います。ですから「さまざまな災害、すなわち死病、悲しみ、飢えが彼女を襲い、彼女は火で焼き尽くされます」とは、彼女、すなわちこの世に着いたクリスチャンは、「罪によって霊的に枯渇して、悪い霊にやられて死後、滅ぶ」ということを言われているのでは?思います。そのことに関して、このようなみことばがあります。
参照 ルカの福音書6:25
6:25 いま食べ飽きているあなたがたは、哀れな者です。やがて、飢えるようになるからです。いま笑っているあなたがたは、哀れな者です。やがて悲しみ泣くようになるからです。
このことばは、先ほどのルカの福音書6章21節とは、まさに対称的なことが言われています。そして、ここでも、悲しみ泣くようになるとか、飢えるようになる、ということが言われています。それこそ、悲しんでいない人、それから食べ飽きている人への警告について、イエスさまはここで前もって語っていることが分かります。私の想像なので、当たっているかは分かりませんが、「やがて」ということばは、もしかすると、後の世のことについて言われているのでは?と思います。地上では悲しみを知らないクリスチャン生活を送っていて、ハッピー、ハッピーだった、でも、後において神さまから怒りを買い、さばかれてしまうパターンなのでは?という風に思います。ですからここでも、やもめとなって歩んだり、教会やクリスチャンの「背信」に対して嘆き悲しむことはどんなに大事なことなのか?を後押ししているように思います。もし、心から今の時代の教会やクリスチャンへの背信を悲しんだり、嘆いているのなら、「聖霊の印」が押されています。でも、反対にこの世についた教え(一例を挙げるなら、同性愛を容認する、地獄は無いという教理、クリスチャンは艱難を通らずに携挙される、福音は総合的に理解するものなのでみことばを行う必要は無いとの教え等)を迎合していたり、やもめの歩みに徹していなかったり、背信の教会やクリスチャンへの嘆きや悲しみが無いときに、押されていたと思っていたはずの「聖霊の印」が、あわや消えていた、なんていうことにもなりかねませんので、くれぐれも気を付けていきたいと思います。ぜひ、この世においてはやもめとなり、今の教会やクリスチャンの背信に対して嘆きや悲しみを持って、歩みをしていきたいと思います。そうしていくならこの世においても幸いを得、なおかつ後の世においては神さまから誉れを受けますので、ぜひ、そのことに徹していきたいと思います。一度押された「聖霊の印」が決して消されることなく、「聖霊の印」をつけられた状態を最後まできちんと保って、天の御国を受け継いでいきたいと思います。
コメント
今回の箇所もそうですが、聖書は逆説的なことが多いなぁということをつくづく思わされます。メッセージの中でも話しましたように、人間的には悲しみなんてないほうがいいですし、やもめのように一人にならないほうが良い、なんていう風に思います。でも、今回のみことばでは真逆のことが言われていますし、また、それに付随することばが詩篇にも書かれていますので、参考までに紹介しておきます。
参照 詩篇68:5,6
68:5 みなしごの父、やもめのさばき人は聖なる住まいにおられる神。
68:6 神は孤独な者を家に住まわせ、捕われ人を導き出して栄えさせられる。しかし、頑迷な者だけは、焦げつく地に住む。
6節には「孤独な者」とあります。KJV訳でも、全く同じように訳されているのですが、「孤独」なんて言うと、他の人からは全く相手にされていない、無き者、無視されているような存在と、そんなことを連想します。でも、これって当たらずとも遠からずでありまして・・・まさにイエス・キリストの歩みがそうだったのでは?と思います。全能なる神さまの御子で、正しいことしかしなかったイエスさまなのですが、しかし悲しいことに、ほんの少数(12弟子を筆頭とする主の弟子と呼ばれる人たち)の人たち以外には、誰からも相手にされずに、挙句の果てには、カルトとか犯罪者扱いを受けて、死罪にまで定められてしまいましたよね?しかもいまだ、名誉の回復も無く・・・私の思い違いや勘違いでなければ、まさに主の生涯の大半は人間的には、「孤独」だったのではないか?と思います。
けれども上記の詩篇のみことばではありませんが、神さまはそのような歩みをされた人を「家」に住まわせてくださるのです。「家」は教会のたとえでもありますが、ここでは「天の御国」の意味合いも含まれているように思います。イエスさまはまさに、そのパターンだったと思います。地上では孤独に見えたかもしれませんが、みごとに天の御国に入り、神の右の座に着座されました。そう、そして「家」ということばに関連して、ヨハネの福音書には「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。」なんていうことが書かれています。そして「孤独な者を家に住まわせ」ということは、裏返すと、この世において、孤独でない歩みをするなら、御国に入るのは難しいのでは?ということが予想されます。特に詳しくは書かれていませんが、「孤独」ということばの裏には、「迫害」というものがあると思います。何の原因も無く、「孤独」になることってないと思います。誰も好き好んで、「孤独」になる人なんて、ほとんどいないと思います。何か理由があって、皆から嫌がられて、のけ者にされて、「孤独」になるのだと思います。そしてイエスさまは、神さまの御心を行ったゆえに、そうなった代表とも言えると思います。
ですから、もしも、イエスさまを仰ぎ見て、御心を行う歩みを志していくとき、イエスさまと同じ足跡を辿るのだと、考えて良いのでは?と思います。具体的には、やもめとして歩みをしていくときに、御心を行っていないクリスチャンからは迫害される、ということです。そういった視点で考えると、聖書でやもめとして歩んでいくことを奨励している、ということにおいて、あっさりと合点がいくのでは?という風に思いました。そして人間的には喜ばしくはないのですが、もし、御心を行っているために、周囲のクリスチャンから迫害を受けて、「孤独」になってしまったときには、全く気にしなくて良いと思います。悪いこと(神さまの御心に反したこと)をして村八分にされることは不名誉ではありますが、でも主に従ったゆえに、周りの人たちから嫌がられたり、後ろ指を指されたり、変に思われたりするなら、神さまの前には「栄誉」を受けると思います。もし、自分がそういう立場に置かれたときには・・・聖書で言われているこういった面に関しても尊重しながら歩みをさせていただけたらと思いました。いつも大切なことを語ってくださる神さまに、栄光と誉れがありますように。
レムナントキリスト教会
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