聖書箇所 ヨハネの黙示録21:7,8

 

 

 

21:7 勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。

 

21:8 しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」

 

 

 

「御国を相続するにあたっての注意点」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。

 

 

 

前回は、「いのちの書」に名前が記されている人だけが「天の御国」に入れる、しかしそうでない人は、「天の御国」に入ることはなく、「火の池」に投げ込まれるということで話をさせていただいたかと思います。今回はそれぞれの箇所から、どういう人が「御国」に入るのか?あるいはどういう人が「火の池」に入るのか?について、みことばから学んでいきたいと思います。順にみていきましょう。

 

 

 

21:7 勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。

 

 

 

ここでは、「御国」に入る人の条件について言われています。「勝利を得る者は、これらのものを相続する」とありますように、「勝利を得る者」が、「天の御国」を相続できるのです。「生涯一度も欠かすことなく、礼拝に出席した人」とも「毎日10時間祈った人」とも「聖書通読を年に10回行っている人」とも書かれていません。繰り返しますが、「勝利を得る者」です。念のためにKJV訳も見てみたところ、同じことばが使われていました。overcomeという単語で、「・・・に打ち勝つ」とか「・・・を克服する、抑える」という意味合いです。ところで「勝利」とは、いったい何に勝利するのでしょうか?それについて下記みことばをみてみましょう。

 

 

 

参照 Ⅰコリント人への手紙15:54

 

15:54 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。

 

 

 

マーカーの部分をご覧ください。「死は勝利にのまれた」とあります。ここでも「勝利」ということばが出てきます。そして「死」は「勝利」にのまれるのです。これはどういうことか?と言うと、同じコリント人への手紙56節に「死のとげは罪」とあります。このことから「死」とは、「罪」のことを言われていることが分かります。「罪は勝利にのまれた」ということを言われていて、「勝利」とは「罪」と密接な関係があって、そう、「罪」に打ち勝つことを言われているのです。もし、私たちがクリスチャン生涯の中でありとあらゆる「罪」に勝利していくのなら、「天の御国」を相続できるのです。でも、反対に「罪」に負けてばかりいるときに、御国の相続は危うくなるのでは?と思います。なので、ぜひ、クリスチャン生活において「罪」がありましたら、その都度聖霊の力によって勝利していきたいと、それこそ克服していきたいと思います。次を見ます。

 

 

 

21:8 しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」

 

 

 

さて、ここでは御国を相続できない人について書かれています。大事なことなので、一つずつ見ていきましょう。

 

 

 

①おくびょう者

 

 

 

KJV訳では、「恐れる者」と訳されています。このことから「恐れ」を持つ人は御国を相続できないことが分かります。「恐れ」と言えば、こんなみことばを思い出します。これはイエスさまが言われたことばです。「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」ということばです。そのことに関して、イエス・キリストの敵となった多くのパリサイ派の指導者たちの中でイエスを信じる者も沢山いたことが書かれています。しかし、その人たちはパリサイ人たちをはばかって、また、会堂から追放されないために告白はしませんでした。でも、これは神さまの前にNGなんです。それこそ神さまよりも、「たましいを殺せない人たち」のほうを恐れていると神の前には見なされてしまいませんでしょうか?なので、「恐れる者」とは、私の理解では、神さまよりも人を恐れると、そんなニュアンスがあるように思います。ですから私たちは、人を恐れるのではなく神を恐れるような歩みを常々心がけていきたいと思います。人を恐れるあまり、いざという時に主の名を否んだり、告白ができないなんていうことになって、「わたしを人の前で知らないと言う者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます」というみことばが悪い意味合いで成就してしまうことのないように、くれぐれも気を付けていきたいと思います。

 

 

 

②不信仰の者

 

 

 

「不信仰」だと、御国を相続できないということを言われています。いくらクリスチャンと称していても、あるいは毎週ごとに礼拝に行っていたとしても、はたまた奉仕や歩みに熱心だったとしても・・・イエスさまのことを信じない人は、御国に入れなくなってしまうようです。これは当たっているかは分かりませんが、クリスチャンと言いながらも、イエスさまの力に拠り頼まずに、自分の力で信仰生活を送っている人のことではないかと思います。また、イエスさまが様々な方法で語りかけをくださっているにもかかわらず、自分の思いや考えを優先して御声に聞き従わない人のことも言われていると思います。そうすると、「不信仰」だと、神さまには見なされてしまって、相続が危うくなるのでは?と思います。

 

 

 

③憎むべき者

 

 

 

KJV訳では「忌まわしい者」と書かれています。また、「忌まわしい」ということばは、イエスさまが当時のパリサイ人や律法学者に対して使われたことばです。英語ではそのところは、woeということばになっています。「悲痛」「苦痛」「災難」という意味です。当時のパリサイ人や律法学者は聖書の専門家と呼ばれる人たちだったのですが、しかしイエスさまの目から見て、「苦痛」とか「災難」をもたらす人たちでもあったのです。しかも彼らはイエスさまから「ゲヘナ行き」を宣告されたのです。なぜ、彼らがそんな風に言われたのでしょう?そのあたりの福音書の記事を読むと分かるのですが、彼らは人々につまずきをもたらしたり、人々を永遠の命に導くメッセージを語る立場に置かれていたにもかかわらず滅びへのメッセージを語ったり、はたまた言うことは言うけれども、みことばを実行しない人たちだったのです。なので、もし、彼らと同じようなことをしているのなら、御国を相続するのは無理なのでは?と思います。ですから神さまの前に「忌まわしい者」になることがないように、くれぐれも気を付けていきたいと思います。

 

 

 

④人を殺す者

 

 

 

これは文字通りの殺人者のことも言われていると思います。たしかに人殺しをして反省の色が全く無いような人は天の御国は相続できないでしょう。しかし聖書はたとえの書です。そのような視点から考えると、霊的な事柄についても言われていると思います。これは私が示されたことなので当たっているかどうかは分かりませんが、正しく神さまの御心を行う人を迫害したり、罵ったり、訴えたり、はたまた死罪に引き渡したりする人のことも言われていると思います。迫害や罵りは今、もうすでに起こりつつあると思いますが、しかしこれから艱難時代に入っていくと、「兄弟が兄弟を訴え」とか「兄弟が兄弟を死に渡し」なんていうみことばがありますように、訴訟沙汰や死罪ということも起きてくると思われます。惑わされたクリスチャンが正しくみことばに着くクリスチャンを、このような目に会わせるのなら、それは神さまの前に「殺人者」と見なされてしまうのではないでしょうか?また、訴えたり、死罪に引き渡したりしなくても、嘲ったり、罵倒したり、迫害したりしても、同じように見なされてしまうと思います。ですからそのようなことにお心当たりがありましたら、直ちに悔い改めていきたいと思います。

 

 

 

⑤不品行の者

 

 

 

「不品行の者」は、KJV訳では、whoremongersということばが使われています。これは「売春婦と遊ぶ人」とか「売春の仲介者」と訳されています。もちろん実際にこのようなことをしていて、いつまでも悔い改めない人は御国を継ぐことはないでしょう。しかしこれもたとえとしても取るのが正しいと思います。このことばで思い出すのは、「淫婦バビロン」とか箴言7章の「遊女」のことです。ちなみに「淫婦バビロン」はアメリカ由来の偽りの教理や霊だという風にレムナントキリスト教会は理解しています。また、箴言の「遊女」も同じことを言われています。ちなみに「女」は教会のたとえでもあります。そして箴言7章は、クリスチャンがこの世に着いた教会と姦淫した(関係を持ち続けた)場合の結末について書かれています。また、「遊女」は「淫婦バビロン」と同じことを言われていると思います。つまりアメリカ由来のおかしな教理や霊を何の吟味も無しに受け入れている教会のことを言われていると思います。もし、そういう教会と関わりを持っているなら、神さまの前に「売春婦と遊ぶ人」とか「売春婦の仲介者」という風に見なされてしまうのではないかと思います。そしてそのように判断されるなら御国を相続できなくなる、ということを言われているのではないでしょうか?なのでもし、「遊女」とか「淫婦バビロン」と言われている教会と関わりを持たれているのでしたら、そこからは離れたほうが良いのでは?と思います。

 

※神さまの前に「売春婦」と呼ばれる教会の一例:地獄は無い、セカンドチャンスがある、艱難前携挙説を唱える、マリヤ像を拝む、イエスさまではなくマリヤに祈る、同性愛を受け入れる、イエス・キリストの名で祈らない等です。もし、お心当たりがありましたら、吟味したり一考されてみてはいかがでしょうか?

 

 

 

⑥魔術を行う者

 

 

 

KJV訳では、「魔法使い」とか「魔術師」と訳されています。「魔術師」ということばが使徒の働きで使われています。せっかくですので、参考までに見てみましょう。

 

 

 

参照 使徒の働き13:610

 

13:6 島全体を巡回して、パポスまで行ったところ、にせ預言者で、名をバルイエスというユダヤ人の魔術師に出会った。

 

13:7 この男は地方総督セルギオ・パウロのもとにいた。この総督は賢明な人であって、バルナバとサウロを招いて、神のことばを聞きたいと思っていた。

 

13:8 ところが、魔術師エルマ(エルマという名を訳すと魔術師)は、ふたりに反対して、総督を信仰の道から遠ざけようとした

 

13:9 しかし、サウロ、別名でパウロは、聖霊に満たされ、彼をにらみつけて、

 

13:10 言った。「ああ、あらゆる偽りとよこしまに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵。おまえは、主のまっすぐな道を曲げることをやめないのか

 

 

 

ここで「魔術師」が出てきます。そして「魔術師」とは何をする人なのか?と言うと、「総督を信仰の道から遠ざけようとした」とか「おまえは、主のまっすぐな道を曲げることをやめないのか」とありますように、人々を信仰の道から遠ざけようとしたり、主のまっすぐな道を曲げたりする人のことです。たとえばカトリックで言われていることですが、「キリスト教以外の宗教にも救いがある」とか「地獄は無い」という教えを広めたりする人のことです。また、プロテスタントで言われている「艱難前携挙説」とか「セカンドチャンス」を唱える人もそうです。これらの教えは耳には良いかも知れませんが、聖書の教えではありません。人々の健全な信仰を覆したり、曲がった教えと言えます。ですから、こういうことをしている人は天の御国に入ることはないでしょう。なので、聖書のみことばから正しくメッセージを語っていきたいと思います。

 

 

 

⑦偶像を拝む者

 

 

 

ほぼ、同じ意味合いですが、KJV訳では「偶像崇拝者」とあります。これは目に見える仏像や釈迦を拝むこともそうかもしれませんが、聖書で言う「偶像崇拝」は、それだけではありません。「器崇拝」のことも言われています。これは何か?と言うと、聖書のみことばと器(牧師や神父)の言われることがぶつかった際に、神のことばよりも器が語るほうを優先することをも言われています。そうするなら、御国を相続するのは危うくなるのです。また、「器崇拝」以外にも、神さまの声に従わないことも「偶像礼拝の罪」と言われています。Ⅰサムエル記には、「まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ」と書かれています。神さまの思いをさしおいて、自分の思いや考えを優先して従わないことも、「偶像崇拝者」という風に神さまの前には見なされてしまうようなので、くれぐれも気を付けていきたいと思います。もし、神さまから何らか語りかけを受けたときには、頑なになることなく、すぐに従っていくように心がけていきたいと思います。

 

 

 

⑧すべて偽りを言う者

 

 

 

KJV訳でも、同じように訳されています。すべて偽りを言う人も、御国を相続することはできません。嘘を吐いてばかりいる人のことも言われているのかもしれませんが、これはもしかすると、聖書のみことば、つまり教理についてのことも言われていると思います。私たちクリスチャンは、人々の「救い」や「天の御国」への案内人として召されているのですが、「救い」や「天の御国」と逆のことばかり言っていくときに、神さまから怒りを買ってしまいます。特にメッセージを語る働きに召されている奉仕者(牧師、教師、神父、伝道師等)は要注意だと思います。たとえば先にも話しましたが、「地獄は無い」とか「セカンドチャンスがある」とか「艱難には会わずに携挙される」とか、そんなことばかりを語るなら裁かれてしまいますので、気を付けていきたいと思います。福音を語るなら、たとえ人に喜ばれなくても、あるいは耳障りが悪くても、はたまた反感を買うようであっても、まっすぐにみことばを語っていきたいと思います。どこまでもみことばに基づいて、そして神さまを見上げて語っていくように心がけていきたいと思います。そうするなら、「偽りを言う者」とは見なされませんので、大丈夫です。

 

 

 

以上、御国を相続するための注意事項についてザッと述べましたが、概ねご理解いただけましたでしょうか?今回は黙示録から話をさせていただきましたが、聖書を注意深く読んでいくときに、こういったことに関して色々と発見することがあるかと思いますので、ぜひ各々のクリスチャンが日々の聖書通読の中で正しく学んでいくことをお勧めいたします。少なくとも、上記①~⑧までのことが一つでも該当するようでしたら要注意ですので、気を付けていきたいと思います。ぜひ、ありとあらゆる罪(的外れ)に勝利して、天の御国の相続者となっていきたいと思います。

 

 

 

コメント

 

ここ最近、弟子訓練のメッセージで「勝利者」になっていくことが、天の御国に入れるという風に学びをさせていただきました。反対に勝利を得ない時に、天の御国は危ないということを教えていただき、これは何が何でも「勝利」を得ていかなければ!と思いました。昨今、クリスチャンと名が付けば皆天国という風潮がキリスト教会全体やクリスチャンに及んでいるために、勝利を得ない人が御国に入れないなんていうことは信じがたいことかもしれませんが、この通り、みことばにハッキリと書かれているのでまじめに受けとめていきたいと思います。今回も大事なポイントについて語ってくださった神さまに栄光と誉れがありますように。