聖書箇所 ルカ1:13-15
1:13 御使いは彼に言った。「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。
1:14 その子はあなたにとって喜びとなり楽しみとなり、多くの人もその誕生を喜びます。
1:15 彼は主の御前にすぐれた者となるからです。彼は、ぶどう酒も強い酒も飲まず、まだ母の胎内
にあるときから聖霊に満たされ、
上記の御言葉を通して、主が私たちに語っていることについて見ていきたいと思います。
13節
御使いが、主のことばを告げ知らせるために、ザカリヤに現れました。
神様御自身が私たちの歩みを助け、導いてくださるのですが、時として、このように、天から御使いを遣わすことがあります。
参照 創世記28:12 「そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。」
神様から遣わされた御使いは、私たちの目に見えるわけではありません。
しかし、私たちのことを危険や罠から守り、助ける働きをします。
参照 詩篇 91:11 まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。
ただし、このことは、私たちが、神様の前に正しく歩むことが前提になります。
なぜなら、6節に、ふたりとも、神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落ち度なく踏み行っていたとあるからです。
このことは、私たちの信仰生活についての語りかけを感じます。
常日頃、どのような歩みをすべきかについて、教えられます。
私たちは、頭では、良いと分かっていても、なかなか、そのことに素直に応じられないことが多々あるのではないかと思います。
そのような時に、どんなに祈っても、神様に答えていただけない経験をしたことはないでしょうか。
あるいは、しぶしぶ応答して、やっとの思いで、祈りの答えをいただいたことはないでしょうか。
主の戒めを守り、主の言われることに、従順に応答していくことに御心があり、そのようにしていくときに、天から助けが与えられていくことを言われているのだと思います。
14,15節
「主の御前に」という言葉に語りかけを感じます。
主の前とは、どのようなことでしょうか。
神様は、私たちの目に見えるお方ではありません。
ゆえに、どうしても、神様の存在を忘れがちになります。
どちらかと言うと、目に見える人の存在のほうが、とても気になるのです。
また、私たちの生まれつきの性質は、人の賞賛に弱かったりもします。
人にどのように思われるか、特別意識はしなくても、人の評価が、多少なりとも気になるものです。
しかし、この箇所を通して、神様からどのように見られているのか、そのことについて教えられます。
主の御前にすぐれた者、分かりやすく言うと、神様の前に、賞賛される者となっていくことの大切さについて言われています。
極端な言い方をすると、人には認められなくても良いのです。
人にも良く思われ、神様からも誉れを受けらけることに越したことはないのですが、聖書を読むと、両方を得ることは、なかなか難しいようです。
なぜかというと、神様の御心に則した歩みは、この世の生き方や考え方とは反することばかりなので、なかなか人には受け入れられづらいものだからです。
参照 マルコ 13:13 また、あなたがたはわたしの名のゆえに、すべての人に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
参照 マタイ 6:24 だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。
「彼は、ぶどう酒も強い酒も飲まず、まだ母の胎内にあるときから聖霊に満たされ・・・」のところにも語りかけを感じます。
「ぶどう酒、強い酒」というのは、霊的なことを指すと思われます。
ぶどう酒も強い酒も飲まないというのは、悪い霊の影響を受けたりしないことを言われているのではないかと思います。
このことは、クリスチャンが信仰生活を送っていく上で、とても大切なことです。
霊といっても、必ずしも、神様から来る霊とは限らないのです。
特に終末は、嘘、偽り、惑わす力が送り込まれてくるので、注意が必要です。
こういったことから守っていただくために、常に、聖霊を求めていくことにポイントがあります。
残念ながら、今、多くのクリスチャンやキリスト教界が悪い霊の影響によって、本物と偽りの区別がつかない、つまり、霊の見分けが出来ない時代に入っています。
なぜ、そのようになってしまうのでしょうか?
それは、耳に入ってくることや目にすることについて、祈りや御言葉によって、吟味を怠っているからです。
また、神様の御心を行わないことにも要因があるかと思います。
Ⅰペテロに、このような御言葉があります。
「彼らがつまずくのは、みことばに従わないからですが、またそうなるように定められていたのです。」
御言葉を知っているだけではダメなのです。
身近な例を挙げると、どんなに機能の良い掃除機があったとしても、それを眺めているだけではお部屋の中はきれいになりませんよね。
そのことと同様で、御言葉は実践して、はじめて、人の心の中を生かすものになります。
御言葉に従うことが、神様に従うことであり、従うことによって、聖霊の働きがどのようなものであるかを体験し、理解していくのです。
また、祈っていくことが、聖霊に触れることに通じます。
このような言い方は、とても、恐縮なのですが、今の時代、時間をかけて祈っているクリスチャンが少ないように思います。
そのような意味合いで、聖霊の働きを目の当たりに見ているクリスチャンもあまりいないように思います。
祈らないと聖霊の働きは皆無と言っても過言ではないので、祈っていく習慣を身につけていきたいと思います。
また、日々、聖書を熱心に調べていくことも大切です。
聖書を読んでいくことによって、神様御自身の性質や私たちへの語りかけを理解し、神様に喜んでいただけることとそうでないことの識別が可能になり、御心にかなった歩みをしていくことに通じていくからです。
繰り返しになりますが、今は、聖霊と悪霊の区別がしづらい時代です。
背教が起こり、反キリストが擁立すると、更に見分けるのが難しくなっていくかと思います。
なぜかと言うと、不法の秘密の力はすでに働いていると、聖書に書かれているからです。
あまりにも、御言葉に対して反発し続けてしまうと、霊的に盲目になってしまいます。
そして、恐ろしいことに、神様から退けられる結果を招いてしまいます。(この世においても、後の世においても)
これから、更に、闇の勢力が力を増していく時代において、この世の価値観にとらわれたり、人の評価に一喜一憂していく歩みに、神様の御心はありません。
どこまでも、光を追い求め、熱心に悔い改め、主に堅くつく歩みをしていく人に御心があります。
そのように歩んでいく人は、たとえ、世の中やキリスト教界が、ますます混乱や混濁に満ち、暗闇に包まれた状態に陥ったとしても、絶えず真理を見出し、主の守りや助けの中で、勝利を得ていかれると思います。
ここに書かれているバプテスマのヨハネのように、神様の前に、尊ばれる歩みをして、主からの誉れを受けていきたいと思います。
証
クリスチャンになってから、しばらくの間、真の意味合いで主に仕えていくということについて、ずいぶん誤解していました。
ろくに祈りもせず、聖書も読まなかったので、いくら礼拝や祈祷会に出席していても、本来の召しや信仰の目的について、なかなか、見出すことが出来ませんでした。
そのような状態が続いたため、しばらくの間、神様と教会から離れてしまいました。
このことは、決して良いことだとは思ってはいませんでした。
しかし、そのような私の心の状態を神様は、よくよくご存知で、あるとき、神様の憐れみと恵みによって、神様と信仰、そして、教会生活に立ち返る機会が与えられました。
再び信仰生活をスタートさせ、「もう、神様から二度と離れたくない」と、そのような思いで心の中はいっぱいでした。
上記御言葉の通り、私は御言葉を行わなかったため、つまずき、神様から離れてしまったのだということを、後になって、理解しました。
神様と信仰生活に立ち返ってすぐに仕えていこうという決意をしたわけではありませんが、心の奥底で、いつか、神様に捧げていかれたらという思いがあり、そのことに神様は憐れみをもって助けや導きを与えてくださり、わずかながらでも、お仕えすることができるようにしてくださいました。
日々の信仰生活において、時間をかけて祈っていくことや御言葉を読んでいくことをはじめ、神様の御心を行っていくことの大切さについて、今も学ばせていただいています。
また、何をするにしても、主の前に忠実に行っていくことの大切さについても、最近教えられています。
これからも主にお仕えし、ほんのわずかであっても、御心にかなった歩みをしていかれたらと思います。
レムナントキリスト教会
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