聖書箇所 ルカ10:21

 

10:21 ちょうどこのとき、イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。

 

この箇所を通して、「聖霊」について、主が語ってくださったことについて、みていきたいと思います。

 

イエス様が言われた「聖霊による喜び」、このことは、私たちクリスチャンが日々、あるいは瞬時において、体験すべきものです。

毎日の信仰の歩みにおいて、聖霊によって、喜びに満たされているクリスチャンは、どれくらいいるでしょうか。

聖霊の力を、体験していかなければ、真の意味合いで、神様にお仕えしていくことは難しいと思います。

聖霊の力を得ていくためには、日々、祈りに時間を費やし、御言葉を読み込んでいくことが必須です。

そして、そのことにプラスして、上記御言葉に書かれているように、「幼子」のような信仰を持っていくことにポイントがあります。

 

この世的に賢いこと、知恵を持っていることは、人間的な視点だと、一見、良いことのように思われます。

しかし、神様の前では、そうではないのです。

なぜなら「主の前では、どんな知恵も英知もはかりごとも、役に立たない。」とか、「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」とか「知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。」等の御言葉が、そのことを裏付けているからです。

ちなみに、ここで言われている「賢い者、知恵ある者」とは、パリサイ人や律法学者、今で言う、神学者やキリスト教界を先導している指導者のことを言われているのではないかと思います。

あるいは、理屈ばかりこねて、御言葉を行わない人、つまり、神様の心からかけ離れている人達のことを指すのではないかと思われます。

残念ながら、いくらこの世の知識や知恵に富んでいる人であっても、必ずしも、そのような人たちが、神様のことを正しく理解するとは限らないと言われているのではないかと思います。

また、世と世のものは過ぎ去ると言われているように、この世のものを、どんなに追求しても、いつまでたっても真理に到達出来ないことを御理解いただきたいと思います。

 

また、この世で成功したり、人から認められたりしたとしても、その人の内面的なものまで満たされるのかというと、そうではなさそうです。

この世の有様は過ぎ去ると言われているように、目に見えるもの、つまり、世のものというのは、すべて一時的なものばかりだからです。

たとえ大きな悩みや問題が無く、何の不自由の無い生活を送っていたとしても、神様にあっての喜び、つまり、聖霊の喜びに欠如していたのであれば、常に心は空しく、肉体は生きていたとしても、霊的には死んでいるのです。

そして、私たちの心の空虚な部分を埋めて下さるのは、神様の力、すなわち聖霊の力だけなのです。

 

さて、さきほど、「幼子」のような信仰を持つことが、聖霊の喜びに満ち溢れていくポイントだということを申し上げましたが、このことで、具体的なことについて見ていきたいと思います。

「幼子」とは、読んで字のごとく、「幼い子」という意味です。

幼い子の大きな特徴の一つとして、常に助けを必要とします。

たとえば、人間の赤ちゃんや小学校に上がる前の幼児のことを考えてみてください。

自分では、ほとんど何も出来ないので、何かと、親を頼ります。

そして、頼ってくる我が子に、親は助けの手を差し伸べます。

また、素直であることも、幼子の特徴です。

親のことを全面的に信頼しているので、親の言うことは何でも素直に聞き入れます。

クリスチャンの歩みについても、このことは当てはまります。

私たちは、肉体の親もいるかも知れませんが、真の意味合いでの親、霊の父親は、「天の父」であります。

天の父が言われること、つまり、すべての御言葉を信じて、受け入れることに御心があります。

しかし、今の時代、曲がった教理がキリスト教界に出回っています。

これはある意味、世の終わりには、聖霊が追い出されるということの御言葉の成就だと思います。

たとえば、クリスチャンは一度救われてしまえば大丈夫とか、艱難の前に天に挙げられる等です。

耳には良いものですが、残念ながら、こういったものは、天の父からのものではありません。

敵が持ち込んできた、嘘・偽りの教えです。

このようなものを吟味もせずに、安易に受け入れてしまうと、永遠の命を失ってしまう危険性があるので、くれぐれも気をつけていきたいと思います。

そのためには、目にするものや耳にするものについて、御言葉と照らし合わせていくことが大切です。

また、私たちが、御言葉を読んだり、聞いたりする時に、この世の知恵や知識や固定観念や先入観を捨てる必要があります。

なぜかというと、こういったものは、真理を阻む可能性があるからです。

イエス様御自身が、人の言い伝えは神のことばを空文にすると言われています。

御言葉が語っている正しいこと、このことを正しい心で受け止め、御心を行うことが大切です。

そのことを実践していくことによって、私たちは、聖霊による喜びの中で生かされ、天の父の子供とされることを御理解いただきたいと思います。

 

本日の要点をまとめます。

クリスチャンとして歩んでいくためには、聖霊に触れていくことにポイントがあります。

また、私たちを助けて下さるのは、聖霊です。

残念ながら、どんなに親しい人であっても、また、家族、友人、あるいは教会の牧師や信徒をはじめ、人は、私たちの信仰の歩みを助けたり、導いたりすることは出来ません。

聖霊だけが、私たちの歩みを助けて下さり、正しい方向へと導いて下さいます。

ゆえに、信仰生活を送っていく上で、聖霊の働きは不可欠であります。

しかし、問題は、私たちが常に、聖霊に助けを求めているかどうかです。

と、言うのは、聖霊、つまり、キリストは、目には見えないゆえに、通過してしまう可能性のあるお方だからです。

そして実際に、必要としなくても、特に問題が無いと思っているクリスチャンが案外多いのです。

聖霊に助けを求める、聖霊により頼むというのは、単に、聖霊の存在を認めることではないのです。

はじめに申し上げたように、祈り求めていかなければ、聖霊の働きや導きや助けを得ていくことは出来ないのです。

つまり、求めていかないと、霊的に正しく見えなくなったり別のものをつかんでしまったりするので、危険な状態の中に入ってしまったり、真理の道ではない別の道を歩んでしまうことになります。

また、信仰の歩みだけでなく、神様の働きを担っていく上で、聖霊の働きは、不可欠です。

祈り求めていくときに、人知を超えた喜びや知恵や力を得て、教会の奉仕、個々における召しを担っていかれるようになります。

このことは、神様の御業や栄光をその都度見ていくことに、通じていきます。

ぜひ、聖霊に助けを求め、御声に耳を傾け、主の御心を行い、多くの実を結ばせていきたいと思います。

 

最近使徒の働きの箇所を通して、クリスチャンが、もし、聖霊から離れてしまったら、命(霊的な)が無くなるということを教えていただきました。

聖霊は、水にたとえられているのですが、水も、飲んだり、生活で使用しているうちに、すぐに無くなってしまいます。

それと同様に、祈らないと水、すなわち、聖霊は与えられませんし、すぐに枯渇してしまうことを学ばせていただきました。

また、祈りを身につけていくことによって、おかしな惑わしから守られたり、失敗しても立ち上がっていかれることを教えていただきました。

また、弟子の歩みをしていく中で、特に、祈りの必要性について、最近、主からあらゆる形で語りかけを受けているのですが、その通りだという風に、礼拝のメッセージを通しても、改めて、確信しました。

これから、更に背教が進み、正しく御言葉に立とうとしていくクリスチャンにとっては、困難な時代に入っていくと思いますが、絶えず祈り、どこまでも御言葉に堅くとどまっていくことは大切だと思いました。

日々の歩みの中で、祈りが強められるように祈り求めていき、常に聖霊と共に、歩みを成していかれたらと思います。