聖書箇所 ルカ16:9-13

 

16:9 そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。

16:10 小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。

16:11 ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。

16:12 また、あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう。

16:13 しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」

 

この箇所では、主の前に、忠実に歩む人が天の御国を受け継ぐことを言われています。

 

今更ではありますが、天地万物を創造された神様を信じ、御子イエス・キリストを救い主として信じて受け入れる人のことを、「クリスチャン」と呼んでいます。

神様のことを知らない人、あるいは、知ろうともしない人、すなわち未信者の人たちからみて、クリスチャンであるというだけでも、何かすごいことのように思われることが時としてないでしょうか。

特に日本のように、クリスチャン人口が非常に少ない国だと、クリスチャンであること自体が稀であるような感覚にさえなることがあります。

 

そのことは、さておき、聖書は、私たちクリスチャンに書かれたものです。

そして、聖書を読んで理解できることは、クリスチャンの歩みは、弟子と群集とに区分されています。

極端な言い方をすると、聖書は、神様に真にお仕えする弟子宛へのメッセージとも言えます。

なぜかと言うと、聖書の言葉の大半は、たとえで書かれているからです。

しかも、イエス様は、弟子だけにたとえの解き明かしをなされました。

もちろん、単に文字通り読んで理解できる部分もありますが、多くは、たとえで語られていて、同じ御言葉でも、二重、三重の意味合いが含まれているものもあります。

そして、隠された意味合いの中にこそ、神様の奥義や御心を見出すことが出来ます。

しかし、残念ながら、弟子として歩んでいないと、このことを理解するのは、難解と思われます。

弟子とは、キリストが歩まれたような歩みを目指していく人であり、御心を行って、はじめて神様の思いや隠された奥義を悟ることが可能だからです。

本日も、御言葉を通して、主が私たちに語っておられることについてみていきたいと思います。

 

はじめに申し上げたように、ここで、語ろうとしていることは、主の前に忠実に歩んでいくかどうかによって、私たちの死後の行き先が決まるということです。

 

順にみていきたいと思います。

9節に書かれている「不正の富」とは、聖書の御言葉、つまり、神様の言葉のことです。

聖書では、富とか財産という言葉が度々出てきます。

世の中の富や財産とは、物質的なものやお金や地位や名誉を言われていますが、聖書で言われている富とは、信仰とか御言葉のことを言われているのではないかと思います。

なぜかというと、信仰や御言葉というのは、神様からいただくものであって、人間的な知恵や力で、得られるものではないからです。

ある意味、いずれも、神様からの借り物であるということです。

つまり、ここでは、信仰によって歩み、御言葉を用いて自分自身のために信仰の友を作っておきなさいといわれているのです。

そうすれば、信仰が弱くなって霊的に飢え乾いたりした時に信仰の友によって、助けられるということを言われているのではないかと思います。

「永遠の住まい」とは、「天の御国」を指します。

天の御国に入るためには、主の道を歩んでいくことが必要です。

ゆえに、信仰の友を通して、とりなしや励ましや助けを受けながら、再び力を得て主の道を歩んでいかれる、そのようなことを言われているのではないかと思います。

 

10節から12節では、「忠実」という言葉が何度も繰り返されています。

主のしもべとして歩むには、どんなことにも忠実であることが条件であることが理解できます。

キリストに忠実に歩むということについて、そんなに大それたことを考える必要は無いのです。

10節にあるように、小さなことに忠実であることに御心があります。

私たちの目から見て、どんなに小さなことと思われることであっても、忠実に行う人を主は尊んでくださいます。

また、小さなことの積み重ねや繰り返し行っていくことが、大きなことを忠実になしていくことに通じていくことが理解できます。

 

たとえば、昔、小学生の頃、私は、水泳の100Mメドレーに憧れていました。

しかし、水泳をはじめた当時は、息継ぎはおろか、水に浮くことすら出来ませんでした。

でも、どうしても、泳げるようになりたかったので、近所のスイミングスクールに通いました。

まずは、浮くことからはじめて、息継ぎの練習、クロール、平泳ぎ、背泳、バタフライと順を追って取り組むようになりました。

そして、2年後に、念願の100Mメドレーを自分なりにクリアーすることが出来ました。

タイムが早いわけでもなく、泳ぎがきれいだったわけではありませんが、その達成感は、感無量でした。

 

信仰についても、同じようなことが言えるのではないでしょうか。

歩みや働きにおいて、私たちは、それぞれビジョンを持っていると思います。

ある人は、伝道師を目指したり、牧師になるのを夢みたりします。

また、そうではないにしろ、御言葉を忠実に行っていきたいと考えている人もいると思いますし、実際に、そうしていくことはとても大切なことだと思います。

聖書に書かれている戒めを守っていくこと、つまり神様の私たちクリスチャンへの要望について、学び、実践していく、このことが忠実に歩んでいくことに通じていくと思います。

でも、いきなり、すべてのことに忠実になれるかというと、そうではないと思います。

あることは、難なく従えても、そうでないこともあるでしょうし、頭で理解していても、なかなか行動に移せないことも往々にしてあるかと思います。

でも、主に示されているひとつひとつのことを成していかれるように、主に祈り求めていったらいかがでしょうか。

一息にはいかなくても、ひとつできるようになったら、更に、もうひとつという風に、チャレンジなさったらどうでしょうか。

このことに関連して、少し、証をさせていただきます。

 

過去、私は、聖書の御言葉やメッセージを通して教えていただくことがあっても、出来ないと思って、あきらめたり、妥協ばかりしていました。

それが、どんなによいと思われることでも、自分の心の思いや考えを優先して、できるように祈ることすらしませんでした。

でも、ある時に、そんなことでは、いつまでたっても何も変わらない、しかも、神様に背いているということに気づかせていただき、その時から、不可能と思われることでも、出来るように祈り求めていくようになりました。

祈ったからと言って、すぐに、出来るようになるわけではありません。

と、言うのは、すぐに応答できるくらいなら、祈り求める必要はないからです。

でも、そのことで、一週間、一ヶ月、二ヶ月と祈っていくうちに、神様の不思議な方法によって、内面的なものが徐々に変えられるようになり、それが現実、行動となって出来るように変えられていきました。

場合によっては、半年なり、一年なり、数年かかるものもありますが、そういったことを繰り返していくうちに、どんなことでも、信じて祈っていけば、必ず神様がそのようにして下さるということに、確信を持てるようになりました。

そして、今では、出来ないことに対してあまり否定的に考えることもなく、いつの日か、神様の時に、必ず御言葉を行えるようになれるという風な考え方に変えられ、祈ることにも更に楽しみを見出すようになりました。

まだまだ、悔い改めていくことや改善すべきことはたくさんありますが、これからもこのような繰り返しの中で、主に忠実に仕えていかれるようになれたらと思います。

 

積み重ねていくことに、大きなポイントがあると思います。

繰り返すようですが、たとえ、どんなに小さなことでとも、忠実に行っていくことが大切です。

何の訓練も無しに、突然、人を信仰に導いたり、教えたりすることは、不可能だからです。

また、忠実に行っていくことについて、祈りが必須です。

今、訓練ということを申し上げましたが、まさに、祈りや御言葉の読み込みがそのことに通じます。

忠実に歩むこと、一見、自分の力でそのことを行っているようでいて、しかし、そうではなく、このことも、聖霊の助けと導きが不可欠であることを御理解いただきたいと思います。

祈っていくことによって、神様の人知を遥かに超えた知恵や力や助けによって、御言葉に従った歩みが可能になっていきます。

そのためには、当然忍耐も要します。

今、キリスト教界では、クリスチャンであれば皆、勝利者だという風に言われていますが、聖書では、忍耐を持って善を行い続ける人が勝利の栄冠を受けることが書かれています。

主の言われていること、このことに異を唱えずに、御声に応答した歩みをして、この世においても勝利者となり、後の世においては、神様からの誉れを受けていきたいと思います。