聖書箇所 ルカ8:4-10
8:4 さて、大ぜいの人の群れが集まり、また方々の町からも人々がみもとにやって来たので、イエスはたとえを用いて話された。
8:5 「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると、人に踏みつけられ、空の鳥がそれを食べてしまった。
8:6 また、別の種は岩の上に落ち、生え出たが、水分がなかったので、枯れてしまった。
8:7 また、別の種はいばらの真中に落ちた。ところが、いばらもいっしょに生え出て、それを押しふさいでしまった。
8:8 また、別の種は良い地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」イエスは、これらのことを話しながら「聞く耳のある者は聞きなさい。」と叫ばれた。
8:9 さて、弟子たちは、このたとえがどんな意味かをイエスに尋ねた。
8:10 そこでイエスは言われた。「あなたがたに、神の国の奥義を知ることが許されているが、ほかの者には、たとえで話します。彼らが見ていても見えず、聞いていても悟らないためです。
ここの箇所では、「たとえ」という言葉が使われています。
「たとえ」とは、字のごとく、「たとえること」とか、「比喩」という意味合いです。
つまり、そのまま文章を読むなら、意味を理解することが出来ません。
ゆえに、その文章が本来語ろうとしていることについて、読み取っていく必要があります。
クリスチャンであれば、誰しもが、何らかの機会を通して、聖書の御言葉に触れていると思います。
ある人は、毎日熱心に聖書を読んでいるでしょうし、メッセージやキリスト教関連の書物やクリスチャン関連のもの、たとえば、御言葉のカレンダーを通して、目にしたり、耳にしたりしていると思います。
私たちが、何気なく、読んだり聞いたりしている御言葉は、文字通り読める部分もありますが、実は、ほとんどの御言葉が「たとえ」で語られているのです。
なぜなら、イエス様御自身が、御言葉を語る時に、たとえによらないで、話されることはなかったと言われているからです。
証
私自身、このことに気づかせていただくのに、かなりの年数を要しました。
と、言うのは、クリスチャンになってから、長い間、群集の歩みにとどまっていたからです。
10節にあるように、群集には、残念ながら、御言葉の奥義、つまり、譬えの意味合いを悟ることが許されていないのです。
なので、イエス様がたとえによらずに話をされなかったと言われていたことすら、理解出来ませんでした。
しかし、おととしの11月に弟子として歩む機会が与えられ、日々、歩みを重ねていく中で、ようやく、そのことを少しずつ理解出来るようになりました。
10節に「あなたがたには、神の奥義を知ることが許されている」とあるように、弟子として、歩む人には、主が、教えてくださることは、本当だなぁということを日々の歩みの中で、体験させていただいています。
このことは、弟子の歩みをしてみて、はじめて分かることです。
なぜかというと、群集の歩みにとどまっている時というのは、主に徹して従っていないので、いくら、真理を見ようとしても、敵の力によって、かき消されてしまうのです。
うまく、表現出来ませんが、主と完全にひとつになっている人に神は栄光をあらわすと御言葉にあるように、常に主と共に歩みむことによって、御言葉のことを少しずつでも理解出来るようになりました。
結論から申し上げると、弟子の歩みを選び、正しく歩んでいく人には、譬えの意味合い、御言葉の奥義を解き明かしていただけます。
また、15節には、8節に書かれていることの解き明かしがされていて、「正しい良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです」とあります。
ここで言われていることは、同じ御言葉を聞いても、理解の仕方は様々だということです。
クリスチャンなら、毎週礼拝に集い、メッセージを通して御言葉に触れていると思います。
だからと言って、皆が皆、正しく理解しているかというと、そうではないように思います。
なぜなら、ここのたとえにもあるように、悪魔が来て御言葉を持ち去ってしまったり、喜んで受け入れても、続かなかったり、あるいは、御言葉よりもこの世のものにとらわれて実を結ぶことまでに到達しない人が多いからです。
4パターンのたとえ話があり、最後のひとつだけが、神様の御心にかなう歩みだということを御理解いただきたいと思います。
4人のクリスチャンがいるとして、そのうち正しく理解する人は、1人だけだということなのでしょうか。
いいえ、そうではないように思います。
天の御国への道を見出すのはまれであるという御言葉から考えると、更に低い確率であることが理解できるのではないでしょうか。
8節に「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われているように、正しく聞いていくことに御心があります。
また、御言葉を単に聞くだけで、終わらせることに御心はありません。
「しっかりと守り、よく耐えて」の言葉に語りかけがあります。
しっかりと守る、つまり、御言葉を実践していくことが大切です。
御言葉を知っているだけで、行わないのでは、意味が無いのです。
先ほど、弟子の歩みについて触れましたが、主の弟子というのは、キリストが歩まれたように歩んでいく人のことを言います。
イエス様は、常に、神様の御心を行っていました。
そのことと同様に、私たちも、祈りや御言葉を通して、神様の御心を知り、行っていく必要があることを御理解いただきたいと思います。
また、神様の御心というのは、私たちの喜びとしないこと、つまり、肉の思いや欲望に反したことが多いので、忍耐を要することも、理解する必要があります。
生まれつきの考えや思いを優先していたら、いつまでたっても、御言葉を実践することに到達しません。
心の思いや考えをはじめ、すべてを主に明け渡して御言葉に従う時に、聖霊の力によって、義の実を結ばせていきます。
そのために、御心を行っていくことに加えて、忍耐力を祈り求めていく必要があるかと思います。
このことは、これから背教が起こり、艱難時代を通過していく上でのポイントにもなると思います。
いまだかつてないような、今後もないような、大変な苦難の時がくると、艱難時代についてイエス様は前もって私たちに語られています。
その時に、必要なのは「忍耐」であると、言われています。
また、忍耐によって、自分の命を勝ち取ることができるともあります。
御言葉の聞き方、そして、聞いたらどのように対応していくのか、主が御言葉を通して、私たちに語ってくださったことについてきちんと受け止めていきたいと思います。
18節には、御言葉を聞いても行わない人がどのような結末を迎えてしまうのかについても書かれています。
繰り返しになりますが、御言葉を正しく聞いて行っていくことに御心があります。
そのためには、弟子の歩みが必須であることを、御理解いただきたいと思います。
真に主に従う人、あるいは従おうと志す人に、主は目を留めておられ、そのような人に必要なすべてのことを語ってくださり、歩みを導いて下さいます。
せっかく、神様を信じて、キリストを救い主として受け入れて、クリスチャンとして歩まれているのでしたら、キリストと共に、弟子として歩まれることをおすすめします。
神様のことを知ることは、正しく御心を行う上で大切なことですし、このことは、場合によっては、私たちの死後の行き先を決定付けてしまうものなので、神様の前に、正しく賢い選択をしていきたいと思います。
キリストの弟子として歩み、御言葉の奥義を悟り、とこしえの義の道を歩み、天の御国を受け継いでいきたいと思います。
レムナントキリスト教会
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