聖書箇所 ローマ人への手紙3:20-24
3:20 なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。
3:21 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。
3:22 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。
3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
3:24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
「神の前に義と認められる」というテーマに沿ってみていきたいと思います。
23節に書かれているように、人は生まれながらの罪、原罪があるため、律法を行うことでは誰一人、神様の前に義とはされません。
私たちは良いことを行いながらも、すぐに罪を犯してしまうからです。
人を誉めたり、神様に感謝を捧げる一方で、少しでも感に触ることを誰かに言われようものなら、口に出さないまでも人に苦い思いを抱いたり、裁いたりしてしまいます。
つまり、私たちは、クリスチャンであってもそうでなくても、度々、律法の違反者になってしまうのです。
もし、律法を行うことによって義と認められたいのであれば、すべての律法を守らなければいけません。
このことは聖書にも書かれています。
参照 ガラテヤ人への手紙3:10
3:10 というのは、律法の行ないによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」
では、律法とは、何のためにあるのでしょうか?
そのことを少し見ていきたいと思います。
参照 ガラテヤ人への手紙3:23-25
3:23 信仰が現われる以前には、私たちは律法の監督の下に置かれ、閉じ込められていましたが、それは、やがて示される信仰が得られるためでした。
3:24 こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。
3:25 しかし、信仰が現われた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。
24節に書かれているように、律法とはキリストへ導くための養育係です。
そして、聖書になぜ、律法が書かれているのかと言うと、それは、私たちの心の内側の弱さを知り、罪人であることを自覚させなければいけないからです。
自分は御言葉とは、かけ離れている者だ、罪深い者だと・・・
まず、そのことを認めない限り、キリストを信じる信仰を持つことは出来ません。
もし、私たちが自分を正しいとするなら・・・この律法もあの律法も守っている、だから自分は完璧であると思うのなら、もはや、イエス様を必要としないからです。
しかし、自分はどうしようも無い者だ、自分の力では何一つ律法を守るのは無理、だからイエス様の助けが必要だ、この方を信じてより頼んでいくのなら何とかなるのでは?と神様の前にへりくだっていくのなら、イエス様は共にいてくださり、助けてくださいます。
ローマ人への手紙に戻りますが、22節に書かれている「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」とは、そういったことを言われているのではないかと思います。
この箇所をいつの日か、礼拝の時に学んだことがあります。
その時に、「律法を行うのは力仕事」だという風に教えていただいた記憶があります。
要は、誰も、すべての律法を守ることは出来ないのです。
しかも、律法を守っているから、大丈夫!と、思うのならどうでしょう?
イエス様に頼る必要なんて全く無いのではありませんか?
聖書では、イエス様を必要としなかったり呼び求めなかったりすることを「不信の罪」とまで、言っているのを御存知でしょうか?
言うまでもありませんが、不信とは、「不信仰」のことを言います。
ちなみにクリスチャンの不信仰を神様はとても悲しがります。
良い例かどうか分かりませんが、たとえば、私たちは何の疑いも無しに交通機関や航空機を利用しますよね。
でも、もし、運転士やパイロットを信用しなかったら乗車できませんよね。
無意識のうちにもお任せしているから利用しているわけです。
このことが信仰と当てはまるかどうか分かりませんが、似たようなことが言えるのではないかと思います。
私たちがイエス様の言葉をどこまでも信じるなら、すべてを委ねて、安心して信仰生活を送ることが出来ます。
交通機関の場合は人が動かしているので、時折、事故や過失が発生することがありますが、イエス様は神様なので、すべてにおいて完璧です。
どうでしょうか?
また、世の中のことは人をはじめ、裏切られることが多々ありますが、イエス様を信じていくなら、決して裏切られることがありません。
素晴らしいと思いませんか?
そして、私たちがイエス様を心から信じていくときに、自ずとイエス様に頼るようになり、恵みや祝福に入っていきます。
これを読まれているあなたさまが、まだ、クリスチャンでないのでしたら、いかがでしょうか。
色々と変動する世の中のことに価値を置くことから手を引いて、永遠に変わらない御言葉なるキリストに望みを置く人生に方向を変えてみませんか?
もし、そのように決意されたのでしたら、ぜひ、そのことをイエス様の前に表明してみてください。
神様の不思議な力や導きや方法を通して、イエス様と共に生きていかれる人生へと変えられていきます。
また、クリスチャンであっても、律法を行うことによって救われると思われている方がおられましたら、イエス様を信じる信仰へと方向を転換されてみませんか?
もちろん、律法を行うことは良いことです。
しかし、先にも申しましたように、すべての律法を守り、行うことは残念ながら出来ません。
でも、イエス様、つまり、すべての御言葉を信じることは可能なのではないでしょうか?
信仰を持って御言葉であるイエス様を信じるだけで、「義」とされる、こんなに素晴らしいことは地上のどこを探しても見当たらないのではないでしょうか。
御言葉を信じること、このことも、ある意味行いであるということを礼拝のメッセージから学ばせていただき、私自身も肩の荷が降りた経験をさせていただきましたので、ぜひ、皆様にもおすすめいたします。
私も随分長い間、「律法を行う」ことに捕らわれていた一人でありますので、このようなことを申し上げることが出来るのです。
また、御言葉を信じていくときに、自ずと神様に喜ばれることを行っていくようになります。
聖書には、数多くの御言葉が書かれていて、それは私たちに喜びや慰めや平安、時には、叱責や訓戒を与えるものとなっています。
そして、すべての御言葉を信じていくときに、私たちを矯正し、義の道への招き入れるものとなっていきます。
ぜひ、御言葉を信じて、神様の前に義とされていきたいと思います。
御言葉を心から信じていくときに、祝福や恵みをもたらすものとなっていきます。
そのためには、御言葉を反芻されることをおすすめいたします。
繰り返し、御言葉を読んでいくうちに、聖書的な思考パターンにも変えられていくようになります。
このことも私自身が日々、体験していることです。
残念ながら、今、多くのクリスチャンがイエス様のことを信じているようで信じていません。
聖書には「ことばは神であった」とあるのですが、真に御言葉を信じている人は非常に少ないように思います。
このことも礼拝の時に学んだのですが、御言葉は信じる人には実現していきますが、そうでない人には残念ながら何ひとつ実現することはありません。
しかし、私たちにあっては、ぜひ、信仰を持って、イエス様を信じて祝福の歩みや働きに入っていきたいと思います。
証
メッセージの中でも書きましたが、以前の私は、全てではないにしろ、良い行いによって義とされなければという部分がありました。
でも、やはり、それでは、今ひとつ、信仰ということから外れているのでは?と、思うようになりました。
レムナントキリスト教会に行くようになり、ある時、礼拝の中で、「御言葉を行う人とそうでない人とは天と地の差があります」ということを耳にしたときに、なるほどと、思いました。
御言葉を行うためには、まず、御言葉を信じていかなければいけないと思いました。
そして、御言葉を信じていくときに心に平安を得ることができました。
また、御言葉を信じて受け入れていく中で、御言葉を実践していきたいと思うようになりました。
このことは、すべて主の力に頼っていかなければ出来ないのでは?と、思いました。
そのときに、どこかで自分の力で良い行いをしようとしたり、律法を守ろうとしていたことにも気づかせていただきました。
それは、ある程度までは出来ても、限界があることに気づきました。
その時以来、イエス・キリストを信じるということは、全面的に主により頼む、そのようなことを少しずつ日々の信仰生活の中で体得させていただくようになりました。
このことがいずれ、「心と耳とに割礼を受ける」ということにもつながっていくのでは?という点についても理屈ぬきで理解するようにもなりました。
本日の箇所を通して、主イエス・キリストを信じることは大切なことを改めて教えていただき、これから始まるであろう異邦人に向けて福音を語っていくときに、このことはハッキリと伝えていきたいと思いました。
御言葉を通して、主が大切なことを語ってくださり、感謝でした。
レムナントキリスト教会
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