聖書箇所 ローマ人への手紙7:1-6

 

7:1 それとも、兄弟たち。あなたがたは、律法が人に対して権限を持つのは、その人の生きている期間だけだ、ということを知らないのですか。――私は律法を知っている人々に言っているのです。――

7:2 夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。しかし、夫が死ねば、夫に関する律法から解放されます。

7:3 ですから、夫が生きている間に他の男に行けば、姦淫の女と呼ばれるのですが、夫が死ねば、律法から解放されており、たとい他の男に行っても、姦淫の女ではありません。

7:4 私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。

7:5 私たちが肉にあったときは、律法による数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いていて、死のために実を結びました。

7:6 しかし、今は、私たちは自分を捕えていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。

 

本日も御言葉に沿ってみていきたいと思います。

 

この箇所を通して、私たちは律法から解放されてキリストと結ばれることの大切さについて学ぶことが出来ます。

 

ここでは、「律法」という言葉が繰り返し使われています。

ですので、「律法」について触れながらこれらの箇所についてみていきたいと思います。

同章の12節に書かれているように、律法は聖なるものであり、良いものです。

しかし、律法を行うことによっては神の前に義とされない、つまり、救われないと言われています。

また、「律法」は「私たちをキリストへ導くための養育係」とも言われています。

つまり、「律法」とは、私たちが罪深い者であるということを自覚させるためのものなのです。

まず、自分が罪人であるという、そのことを認めなければ、キリストを信じる信仰は成立しません。

自分には何ら間違いは無い、何にしても自分は正しい、もし、そんな風に思うなら、イエス様なんて全く必要としないのではないでしょうか?

辛辣な言い方で恐縮ではありますが、そういう人は、どこまでも、自分の力で生きていくしかないのです。

しかし、自分が罪人であるということを神様の前に素直に認めるのなら、あるいは、イエス様の助け無しには生きていかれないと思うのなら、イエス・キリストの力と助けによって、信仰の歩みをスタートさせることが可能になります。

うまく説明出来ませんが、かつて、神様を知らなかった時代からイエス・キリストを信じる信仰を持つまでの間に登場するのが「律法」だということを言われているのではないかと思います。

 

そして、私たちがイエス・キリストを信じる信仰を持つようになったら、「律法」から解放されていくことにポイントがあります。

でも、誤解なさらないでくださいね。

それは、罪を犯すことを奨励していることではありません。

6節にポイントがあります。

「律法」から解放された後に、新しい御霊、すなわち、キリストの霊によって仕えていくことに御心があるのです。

キリストの霊によって仕えていくというのは、単純にキリストと結ばれることです。

キリストと結ばれるということが、1-3節に書かれているように、律法から解放されることになるのです。

良い例かどうか分かりませんがこういうことを言われているのではないかと思います。

かつて、私は、ある高校で3年間学びをしました。

学校なので、当然、いくつもの校則があります。

その中の1つに、アルバイト禁止の校則がありました。

万一、見つかったら、停学の処分を受けてしまうので、そこの高校に通っている学生は、その期間は何とかそのことを守るようにします。

でも、その高校を卒業したら、校則から解放されて、心置きなく、アルバイトが出来るようになります。

新しい生活が始まったのなら、アルバイトをしたからと言って、処分を受けることも、誰からも咎められることもありません。

このことと比較して良いかどうかは分かりませんが、「律法」から解放されることについても同じようなことが言われているのではないかと思います。

6節で言われているように、キリストの霊によって仕えていくときに、もはや、「律法」に束縛されることはないのです。

「私たちは自分が捕らえていた律法に対して死んだので、それから解放され」という言葉に語りかけがあります。

このことは、何を言われているのでしょうか。

信仰を持つ前、すなわち、神様を知る前は、「御霊」の力ではなく、「肉」の力、すなわち我力によって、生きていました。

しかし、イエス・キリストを信じて信仰を持った時に、私たちのすべての肉()は十字架に付けられました。

すなわち、その時点で、自分の力に死んだのです。

もっと言うなら、生まれつきの力には、もう、頼らないということです。

これからは、神様の力だけに頼って生きていくということです。

このことは、肉()から御霊(いのち)の生き方に移ったとも言えるのです。

随分、回りくどい言い回しになりましたが、律法から解放されたとは、そのようなことを言われているのではないかと思います。

そして、そのことに続くがごとく、「その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです」と書かれています。

話は少し前後しますが、新しい御霊、すなわち、キリストと共に、あるいはキリストから力を得て生きていくことによって、4節に書かれているように、神様のために、実を結ぶようになっていくのです。

それでも、律法にどうしてもこだわってしまう、あるいは、律法を行わないと不安という方に、紹介させていただきたい御言葉があります。

参照 ローマ人への手紙3:31

それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです

つまり、信仰を持つこと、御霊によって仕えることによって、律法を確立していくことが可能となるのです。

 

過去の私も随分勘違いしていましたので決して大きな声では言えないのですが、「律法を行う=信仰、救い」という風に勘違いされているクリスチャンは、今でも案外多いのではないかなぁと思います。

偉そうな言い方で恐縮ではありますが、もし、万一、そんな風に誤解されておられましたら、このことを機会にぜひ、正しく御理解されることをおすすめいたします。

 

御霊によってお仕えしていくときに、神様が喜ばれることとそうでないことの分別力が嫌でも分かるようになっていきます。

すぐに実践出来るかどうかは別として、無意識のうちにも、「良いことだけを行っていきたい!神様の御心を何とか成していきたい!」と、そんな風に心の内側も次第に変えられていきます。

そうなってきたら、しめたものです。

ただし、そのように変えられていくためには、いくつかの条件があります。

いえいえ、そんなにいくつも、ありません。

とても単純明快なことですので、信仰をお持ちの方なら、どなたでも、極端なことを言いますと、お子様でも、即、実行出来ることです。

それは、お祈りと聖書の通読を毎日、行うことです。

そのことを、繰り返していくことによって、聖霊から力が与えられ、日々、栄光から栄光へと、キリストの似姿へと変えられていき、イエス様が十字架の上で勝利を取られたように、この地上においても勝利者となっていかれます。

ですから、ここにさらっと書かれている「新しい御霊によって仕えている」という言葉は、とても大切なことではないかと思います。

 

また、補足ではありますが、クリスチャンと称していても、神様の前には、2種類に区分されています。

何を申し上げたいのかと言いますと、すべてのクリスチャンが必ずしも、御霊によって仕えているとは限らないので、このようなことが、あえて書かれているという点についても正しくとらえておきたいと思います。

つまり、御霊によって仕えていくのか?それとも、ろくに聖書も読まず、祈りもせずに、生まれつきの肉のままで仕えていくのか?によって、後の世においての行き先が最悪変わってしまう可能性があるので、くれぐれも気をつけていきたいと思います。

 

ぜひ、本日、ご一緒に学びをしましたように、御霊によって仕えていきたいと思います。

もし、自分は御霊によって仕えていない、まだまだ、自分の力に頼っていると、思われましたら、「神様、今日から私は御霊によって仕えていきたいと思います。御霊によって仕えていくための力を与えてくださいますように。御霊によって仕えられるように神様の力によって変えてくださいますように」と、お祈りしてみてください。

心から、真剣に祈り求めていくなら、神様は決して見放したり退けたりはされません。

それどころか、人知を遥かに超えた助けや力や知恵や導きや方法によって、そのように歩めるように変えてくださいます。

また、どんな環境におられていたとしても、たとえ、お仕えするのが難しい状況におられたとしても、そのことは必ず実現していきます。

先ほど、神様の前には、クリスチャンと言っても二分されていると話をさせていただきましたが、神様は、クリスチャンお一人一人がそのように決意されることを願っておられますし、そういう人にどこまでも、助けや力を与えたいと思われています。

そして、御霊によって歩んでいくのなら、大いなる祝福や恵みに入っていきますので、ぜひ、おすすめいたします。

 

数年前から、すべて神様のもので満たされていきたい、自分自身を主に捧げていきたいと思うようになり、そのようなお祈りに導かれました。

ちなみに、私の環境と言えば、家族や親族や友人は未信者ばかりです。

でも、そんな私のお祈りに、神様は誠実に答えて下さっています。

クリスチャンホームの人と比べると、そういった環境で信仰を持つことすら、人間的にはハンディがあるように、特に周囲の人にはそんな風に見られることが多いです。(別に自己卑下をしているわけではありません)

未信者の方には、よく質問されていたことがあります。

「御家族はクリスチャンなの?」と。

その中のある人に、「いいえ、私だけです」と答えたら、「そうなの、珍しいわね。でも、それでも、信仰を持っているって聞くと、とても信憑性を感じるわ。それってすごいことだと思う」と、言われたことがあります。

確かに以前は、教会にいても、家族連れが多かったので、肩身が狭いなぁと感じたこともありました。

でも、信仰は、どこまでも、神様と自分との関係だ!と、割り切るようになってから、心の内側が少しずつ変えられていくようになりました。

また、周囲の環境等にも、とらわれなくなっていきました。

それから、しばらくして、エレミヤの部屋のHPに導かれ、神様の前に誠実と忠実を尽くしていきたい、御心の働きを行っていきたいと思うようになりました。

そのためには、聖霊の力によって歩んでいくことがポイントになることを教えていただき、それは、弟子の歩みに通じることだという風に理解して、今日のような歩みや働きに携わっております。

本日のメッセージ内容とは、ズレてしまいましたが、このことにおいても、御霊の力に拠り頼んでいった時に、すべて神様の力によって仕えていくための環境が整えられたり、内面的な部分が変えられていったりと、自分自身を通して神様の力や御業を目の当たりにさせていただき、このことは私にとって、とても貴重な体験となりました。

このことに限らず、これからも、ひとつひとつのことを、更に、神様に拠り頼んでいきたいと思います。

その拠り頼む力ですら、神様が与えて下さっているということにも感謝です。

本日もメッセージを通して、学びをさせてくださった主に栄光と誉れがありますように。