聖書箇所 ローマ人への手紙8:16,17
8:16 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。
8:17 もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。
本日も御言葉に沿ってみていきたいと思います。
この箇所を通して、神の相続人になるためには、神の子とされることが条件であることが分かります。
また、相続人となるためには、キリストと共に苦難をすることも必須であることが読み取れます。
このことについて、個人的ではありますが、私はこんなことを感じます。
「神の子」についてはともかく、「キリストと苦難を共にする」ということですが、最近、このようなことは、キリスト教界において、あまり言われていないように思います。
神様の愛こそは強調され、救われてクリスチャンと名前が付けば、皆、神様の子どもとされ、そのまま、エスカレーター式に天の御国に入れるのだと。
本当にそうなら、いいのですが、聖書をよく読むと・・・少なくとも、17節の御言葉を読む限りでは少し違うのでは?と、思うのですが、いかがでしょうか?
しかも、現代において、「キリストと共に苦難」どころか、「艱難の前にクリスチャンは天に挙げられる」という教理が、まかり通っているため、聖書に書かれている「苦難」という言葉はクリスチャンの間、自分たちにはおおよそ関係が無いと言わんばかりに、無視されつつあります。
信仰に苦難があるなんてことは、今、多くのクリスチャンにとって、寝耳に水だと思いますが、聖書がこのように言われている以上、私たちは、このことも尊重しなければいけないのではないかと思います。
さて、ここで言われている「苦難」とは、どんなことを言われているのでしょうか?
私が思うに・・・キリストをはじめ12弟子やパウロが受けたような苦しみのことを指しているのではないかと思います。
具体的にどのようなことかと言うと、批難や中傷や迫害を承知の上で、おかしな教理と全力で戦うことです。
正しいことを語るゆえに、人々からカルトと呼ばれたり、罵られたりと、正当でありながらも、同胞であるクリスチャン仲間から、なかなか理解してもらえない、ゆえに、このことを「苦難」と言っているのです。
「エエーッ、そんな馬鹿な!イエス様やペテロやパウロのように歩んでいくなら、人々から尊敬されるのでは?」と、おっしゃるかも知れません。
でも、聖書をよく読んでみていただけると分かるのですが、どうでしょうか?
イエス様やペテロやヨハネやパウロは人々から賞賛されたり尊敬されていたりしたでしょうか?
確かに、律法学者やパリサイ人や祭司長はモーセの座を占めていると言われていたように人々から尊敬されていました。
当然のことですが、彼らは神を崇めるクリスチャンであり、今で言う牧師や教師やキリスト教界のリーダーに当たる立場の人々です。
しかし、そういった立場の人々が、何と、キリストを十字架に付けたり、ペテロを牢に入れたり、パウロを議会に引き渡したりしたのです。
福音書を読むと分かるのですが、イエス様と律法学者たちは、論争につぐ論争でした。
そして、イエス様の十字架殺しに先陣を切ったのも、彼らでした。
つまり、最後まで、イエス様に敵対していたのでした。
もちろん、和解なんて成立しませんでした。
クリスチャンと称しながらも、彼らの父は、実はサタンだったからです。
このことは、今の新約の終わりを生きる私たちにも関連する事柄です。
今、残念ながら、キリスト教界において、多くの教理が曲げられています。
ほんの一例を挙げるなら、地獄は無い、艱難前にクリスチャンは天に挙げられるから備えなんて必要無い等の教えです。
もし、こういった御言葉に書かれていない教えを盲信していくなら、当時の偽善なるパリサイ人や律法学者や祭司長の轍を踏むことになり、神様の怒りの裁きを招いてしまいます。
当時、イエス様は、彼らにこのように言いました。
「おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう。」と。
この御言葉はどこから読んでも、天の御国を受け継ぐとは読み取れませんよね。
恐らく、彼らはメシヤであるキリストのことを、こいつは偽物だ、こんなのについていったらロクなことにならないというようなことを語っていたのでしょう。
それは、今で言う、「あなたがたは苦難に遭うように定められているのです」という御言葉を退けて、自分勝手に聖書を曲解して、艱難の前にクリスチャンは挙げられるという教理にすりかえているのと同じことです。
耳には良いものかも知れませんし、語る側も人から批難されることもカルトと呼ばれることも無いのかも知れませんが、残念ながら、御言葉と違うことを言うなら、神様の前には、偽教師、偽善者、すなわち、パリサイ人たちが言われたように、蛇やまむしのすえどもと呼ばれてしまいます。
確かに、イエス様の時と同様、今の時代も、多くの人が不義を喜び、真理を退けているので、正しく真理を語る人は人々から拒否されたり、嫌われたりします。
でも、御言葉を正しく伝えないなら、多くの人をゲヘナへと道連れにしてしまいます。
いくら、耳によくても、人受けするものであっても、御言葉に反することを語るなら、裁きを招き、あわや会衆までも、ゲヘナの裁きへと引き込んでしまうのです。
御言葉が語っているように、正しく真理を語るゆえに、迫害や罵倒をはじめ、最悪死罪に引き渡されたりと、多くの苦難に会うのかも知れません。
それでも、あえて、そのような道を自らの意志で選択していくのなら、キリストの共同相続人となれるのです。
そういったことをこの箇所では言われているのではないかと思います。
また、そのような道のことを、「狭い門、細い道」と言われているのではないでしょうか。
ですから、少数派であっても、神の相続人となれるような歩みをしていきたいと思います。
また、そのような道を選んでいくときに、主からの不思議な助けや守りや導きや知恵や力が与えられ、この地上においても祝福と恵みに満ち溢れた歩みに入っていきますので、ぜひ、おすすめいたします。
証
私自身も長い間、クリスチャンと名前が付いていれば、そのまま天の御国だという概念にとらわれていました。
艱難前に挙げられることを盲信していましたので、キリストと苦難を共にすることとは疎遠でした。
しかし、今からおよそ4年前に、クリスチャンが艱難を通ることについて、エレミヤの部屋のHPのメッセージから確信を得ましたので、周囲のクリスチャンはともかく、自分は備えていこう、そして、こういった誤りに関して異を唱えていこうと、主の憐れみによって遅ればせながら、そのように決意させていただきました。
そして、そのことは私にとって益になりました。
それまでは、十字架を背負うということに関してもかなり希薄だったのですが、正しく御言葉を学び、わずかながらも働きを担わせていただく中で、キリストの十字架について、また、神様の御性質について、少しずつ理解を深められるようになりました。
ただ、御言葉と真剣に向き合っていくときに、艱難に会うとかクリスチャンも裁かれる等、キリスト教界と逆のことを示されることが多いので、このようにメッセージを語る際に、正直、葛藤が無くもありません。
反論されたり拒否されたり、批難されたりしたら嫌だなぁとか、多少なりとも思わなくもありません。
でも、主の足跡を辿る歩みをしていくのなら、そういった思いにも少しずつ死んでいかなければということも理解しながら、今日、このような働きにわずかでも携わらせていただいています。
「日々、私のために、十字架を背負っているのか?」と、もし、このように主から問われたら、正直、自信はありませんが、主から示されたことや教えていただいたことに一歩ずつ従っていかれたらなぁと思っています。
時々、機会があるときに、未信者の方に、御言葉を語らせていただくこともあるのですが、ほとんど相手にされないのが現状です。
あるいは、クリスチャンに艱難時代の備えやキリストの再臨の時は背信のクリスチャンの裁きの時であることについて語っても、あしらわれてしまうことが多いです。
でも、聖書によれば、真理に立ち返っていく残された人々がおられるので、その人たちのために、今の働きをひたすら続けていきたいと思っています。
残念ながら、終末は、ノアやロトの時のようであり、真理を見る人は稀ですし、救われる人も、ほんの少数ではありますが、一人でも多くの人が救われることを祈りつつ、主の働きに励んでいきたいと思います。
本日も主が大切なことを教えてくださり、感謝でした。
主に栄光を帰します。
レムナントキリスト教会
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