聖書箇所 ローマ人への手紙10:1-3

 

10:1 兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです。

10:2 私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。

10:3 というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。

 

本日も御言葉に沿ってみていきたいと思います。

 

ここでパウロが言われているのは、神の言葉を信じる人の中で、別のものを掴んでいる人々がおられるということです。

何を言いたいのかというと、「神の義を知らず」とあるように、イエス・キリスト、すなわち、御言葉に対して無知だということです。

 

順にみていきます。

 

10:1 兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです。

パウロが「彼らの救われること」とわざわざ言われているということは神の言葉を求めていても真に救われていない人がいることが分かります。

また、「兄弟たち」とあるように・・・この箇所は英語訳で見ると「friendsと書かれていて、ある特定の人に対してというよりも、むしろ、多くの人々に対して呼びかけていることが分かります。

神の言葉を求めつつしかし、救われない人々がいる。不思議ですが、でも、聖書がこのように言われて以上、実際にそうなのです。

また、このことはパウロの初代教会の時代に終わるのではなく世の終わりを生きる新約の私たちの時代にもそのまま通じることなのです。私たちも行いに歩むなら救われません。

 

次に進みます。

10:2 私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。

ここで、パウロはここにいる人々が信仰熱心なことをまず語っています。

このことには、私も同感です。

たとえば、以前行っていた教会では毎朝6時から早天祈祷がありましたし夜の祈祷会を除いて平日は4回お祈り会があり、証会もありました。

それこそ、当初、信仰熱心な教会だなぁとある種の衝撃のようなことを覚えましたし、今でも続けているならそれは神様の前に尊いことだと思います。

ただ、この節の後半に書かれているように、その熱心が、知識に基づいていることにポイントがあります。

この箇所は英語ではこのように書かれています。

but their devotion is not based on true knowledge

このことを直訳するとこんな風になるのでは?と、思います。

「しかし彼らの信仰は本当の知識が基礎となっていない」

信仰熱心なのはとても良い、しかし、信仰の基礎が何になっているのか?真理の御言葉が土台なのか、そうでないのか?ということを言われているのではないかと思います。

そして、クリスチャンの多くは、建前はともかく、残念ながら御言葉を土台としていない、分かりやすく言うとキリストの言葉を信じずに、別のものに頼って生きているということを言われているのです。

 

最後をみます。

10:3 というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。

この箇所も英語で見てみたいと思います。

They have not known the way in which God puts people right with himself, and instead, they have tried to set up their own way; and so they did not submit themselves to God's way of putting people right.」という風になります。

「彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして」の部分は、こんな風に書かれています。

They have not known the way in which God puts people right with himself, and instead, they have tried to set up their own

更に「instead, they have tried to set up their own」の部分に着目してみてください。

この箇所を訳すとこのようになります。

「苦難に耐えるよりもむしろ自分自身の道を立てた」と訳せます。

つまり、信仰を持ちながらも、たとえクリスチャンであっても、神の義を知らないというのは、苦難や試練を経ない信仰のことを言われているのです。

聖書では、あらゆる試練や苦難があり、それらのことに耐え忍んで主の力によって勝利していく延長線上において永遠の命が約束されていることについて書かれています。

たとえば、ヤコブの手紙にはこのように書かれています。

試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。

いかかでしょうか?

試練に耐える人とあるように、信仰において、試練や困難は赦されるのです。

そして、そのことに合格した人が神様からいのちの冠が与えられることが分かります。

しかし、悲しいことに多くのクリスチャンはそういった教えを逸脱して自分に都合のいいように御言葉を理解しているのです。

例を挙げるなら艱難前・中携挙説です。

クリスチャンは艱難が来る前に天に挙げられるという教えです。

明らかに聖書には「かつてもなかったような、また、これからもないようなひどい苦難の時がある」とはっきり書かれています。

これは、艱難時代を指す以外に考えられないのですが、ほとんどのクリスチャンが御言葉に書かれていない艱難前・中携挙を盲信して艱難のための備えをしようとしません。

確かに私たちが本当に艱難を通らないのなら、試練や困難も経なくても大丈夫です。

そのように聖書を読むなら、それはそれで、どれもこれもつじつまは合います。

でも、パウロがここではっきりと言及しています。

「彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかった」と。

つまり、「試練や困難を通ることを御言葉は言っているのに、それを無視して人間的な思いや願いや考えにとどまり続けている人々よ、それはマズイよ、そんなことでは、まともに救われないぞ」と言われているのです。

私たちは、御言葉がどのように語っているのか、そのことに常に焦点を当てていかなければいけないのです。

御言葉をきちんと学んでいくときにちゃんとした知識を得ていきます。

でも、そのことをないがしろにして、教理の本や器が言うことを吟味もせずに鵜呑みにすることを優先するなら、いつの間にか方向がずれてしまいます。

数々の教理の本はキリスト教書店に足を運べば簡単に手に入ります。

すべてを否定するわけではありませんが、しかし、どれもこれも聖書の御言葉に勝るものはありません。

聖書の御言葉をどこまでも土台としていくことにポイントがあります。

その上で本を読むなら、何が正しくてそうでないかの分別力によって正しく判断ができます。

しかし、御言葉よりも、そのことを優先するなら、どこかで必ず行き詰ります。

また、あらゆる問題やトラブルにおいても、残念ながら御言葉と聖霊の力以外に解決の方法はありません。

このことは、自分自身が多くの失敗を繰り返してきた中で実感しましたことですので、このように申し上げることが出来るのです。

ですから、この時のユダヤ人と同じようにならないように、あるいは、失敗した人の轍を踏むことのないように心がけていきたいと思います。

繰り返すようですが、御言葉には私たちに必要なありとあらゆる知識が豊富に書かれていますので、ぜひ、それらのものを得て、なおかつ実践出来るように祈り求めて、神様の前に正しく歩んでいきたいと思います。

 

以前にも証したかも知れませんが、私は数年前からほぼ、聖書オンリーに徹するようになりました。

良くも悪くも、もともと教理の本には、あまり興味は無く、ごく稀に自ら購入することはあるものの、ほとんど人からすすめられた時に、読むという程度でした。

確かに、内容的には、どれもこれも抵抗は無いのですが、今日の御言葉にもありますように「神の義」に関して霊的な渇きを覚えました。

と、言うのは、祝福、恵み、繁栄に関して強調点が置かれているものばかりだったからです。

いくつかの本を読んでいくうちに、「本当に神様ってそう語っているのかなぁ。もっと、大事なことを言われているのでは?」という疑問を持つようになりました。

それと同時に、悔い改めとか真の救いとか裁きについて知りたいと、少しずつそういった思いがいつしか強くなっていきました。

その行き着いた先が再三申し上げているようにエレミヤの部屋のHPでした。

そこには、まさに、私が疑問に抱いていたことや求めていたことが数々書かれていました。

嘘・偽りの教理に関しても正しく理解することが出来ました。

そして、何よりも聖書の御言葉こそが真実であること、常に御言葉に触れていることの大切さについて教えられ、まさしく本当にそうだ!と、思いました。

聖書オンリーと言うと、大半の人々からは、やれ、堅物だの原理主義者だのと言われてしまうかも知れませんが、これこそ、信仰の基本の基本であることを理解しました。

聖書から知識を学ぶことは本当に大切だと、日に日に、その確信は強まるばかりです。

また、天の御国に入るためには、キリストと苦しみも共にすることなのだなぁということを御言葉から学んでいますので、その一事に励んでいかれたらと思います。

本日も主が大切なポイントについて語ってくださり感謝でした。

主に栄光を帰します。