聖書箇所 ローマ人への手紙14:9-13

 

14:9 キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。

14:10 それなのに、なぜ、あなたは自分の兄弟をさばくのですか。また、自分の兄弟を侮るのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。

14:11 次のように書かれているからです。「主は言われる。わたしは生きている。すべてのひざは、わたしの前にひざまずき、すべての舌は、神をほめたたえる。」

14:12 こういうわけですから、私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります。

14:13 ですから、私たちは、もはや互いにさばき合うことのないようにしましょう。いや、それ以上に、兄弟にとって妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心しなさい。

 

本日も御言葉に沿ってみていきたいと思います。

 

「さばきの御座」というテーマに沿って、順番にみていきます。

 

14:9 キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。

ここで、キリストは、全世界のすべての人々の主であるということについて言われています。

「死んだ人」とか、「生きている人」という表現は、あまり聞きなれないことかも知れません。

まず、「死んだ人」というと、交通事故に遭って、あるいは、病気になって命を失って死んだという風に思えるかも知れません。

でも、そんな風に理解すると、なんだか、つじつまが合いませんよね。

今までも、何度か話をしましたように、聖書には、多くのたとえが使われています。

もちろん、文字通り読むところもあります。

たとえば、イエスの父がヨハネで母がマリヤだとか、ダビデ王朝が万世一系だとか・・・です。

でも、イエス様御自身が「たとえによらず話をしなかった」とか「私は、口を開いて、たとえ話を語り、昔からのなぞを物語ろう」という風に言われていますように、御言葉の大半は、たとえで書かれています。

ですから、ここで言われている「死んだ人」というのも、たとえが使われているのです。

聖書で言う「死」とは、「罪」に関係します。

つまり、「死んだ人」とは、罪の中にいる人のことを指します。

もっと分かりやすく言うと、神様を信じていない、受け入れていない、そういう状態の人のことを言います。

そういう人は、肉体の体は機能していても、霊的に死んだ状態なのです。

人の目はともかく、おおよそ神の目の前には、死んでいるのです。

「生きている人」とは、その反対で、神様を知り、イエス・キリストを救い主として信じて受け入れて歩んでいるクリスチャンのことを言います。

ですから、ここでは、クリスチャンだけでなく、未信者、聖書では、「異邦人」という言葉で表現されていますが、彼らにとっても、イエス・キリストは主であるということを語っているのです。

「死んで、また生きられたのです」とありますが、イエス・キリストがすべての人の罪のために十字架にかかって死に、三日目によみがえれたということは、クリスチャンの間では、ごくごく当たり前のことではありますが、この箇所を通して、再度、このことを私たちに認識していただくように、語られているのではないかと思います。

 

次をみます。

 

14:10 それなのに、なぜ、あなたは自分の兄弟をさばくのですか。また、自分の兄弟を侮るのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。

14:11 次のように書かれているからです。「主は言われる。わたしは生きている。すべてのひざは、わたしの前にひざまずき、すべての舌は、神をほめたたえる。」

14:12 こういうわけですから、私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります。

14:13 ですから、私たちは、もはや互いにさばき合うことのないようにしましょう。いや、それ以上に、兄弟にとって妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心しなさい。

さて、今、学びましたように、異邦人にとってもクリスチャンにとっても神であるお方が、お一人一人のことをさばかれることについて書かれています。

「神様は愛のお方」であることは、とても有名なことです。

このことは、極端なことを言うなら、イエス・キリストを救い主として、まともに受け入れていない方でも、御存知なのではないかと思います。

そう、「神様が愛である」、そのことは確かに、間違いではありません。

でも、愛のお方であると同時に「正義と公正をもってさばくお方」であることも知っていただきたいと思います。

多くのクリスチャンは「そんなこと言われなくなって知っているよ、聖書に書いているでしょ?!」と、おっしゃると思います。

ただ、昨今・・・もし、私の捉え違いや勘違いでなければ、「神様のさばき」、つまり、「公義」において、ほとんど語られていない教会が多いように思いますので、あえて、このようなことを申し上げているのです。

もちろん、この文章を読まれているあなたさまが、神様のさばきという言葉について、御存知なのは分かります。

ただ、「神様のさばき」に関して、真の意味合いで向き合っている方は、あまり、おられないように思います。

なぜなら、聖書に、わざわざ、なぜ、あなたは自分の兄弟をさばくのですか。また、自分の兄弟を侮るのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです」と、こんな風に書かれているからです。

死後、お一人一人は、神のさばきの座に立つにもかかわらず・・・しかし、なぜか、クリスチャンは人を裁きやすい、そういったことを言われているのです。

もし、本当に、「神様のさばき」ということについて真剣に向き合って、御言葉を恐れるのでしたら、厳格な言い方で、非常に恐縮なのですが、人を裁いてはいけないのです。

自分も人様のことを、とやかく言える立場ではないのですが、たとえ、新生してクリスチャンになったとしても、人は往々にして、さばきやすいのではないかと思います。

よほど、意識して、注意していないと、いいえ、そのように心がけていたとしても、ひょんなことから簡単に人を裁いたり、批判したりしやすいのではないでしょうか?

少なくとも、私には、十分心当たりがあるので、このように申し上げているのです。

でも、御言葉に、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように」と、書かれていますように、私たちは、善であれ、悪であれ、死後、必ずさばきを受けます。

そのときには、12節に書かれているように自分のことを神の御前に申し開きをするのです。

そして、13節にありますように、互いに、さばき合うことがないように呼びかけているのです。

御言葉に、「さばいてはいけません、さばかれないためです」とあります。

人を罪に定めたり、さばいてしまうと、自分自身が神様によってさばかれてしまうのです。

そうそう、こんな話がありますよね。

ヨハネの福音書の中で、姦淫の罪を犯した女がとらえられて、長老をはじめ、多くの人々が、彼女をイエス様のところに連れて来て、石打ちにしようとしました。

今の時代でも、姦淫の罪を犯すなら、人に後ろ指をさされたり、悪く言われたりしますよね。

もちろん、良いか?と、聞かれたら、そうするべきではないのですが・・・

しかし、イエス様は、「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」と言いました。

すると、一人去り、二人去り、最後には、全員が去って行きました。

そして、イエス様は、その女に言いました。

「あなたを罪に定める者はなかったのですか?」と。

それに続いて「わたしもあなたを罪に定めない。今からは決して罪を犯してはなりません」と。

神の御子である、もっと言うなら、罪が全く無いパーフェクトなイエス様ですら、人のことを罪に定めなかったのですから、多くの罪の負債を背負って生きている私たちは、なおのこと、人様のことを罪に定めたりしてはいけないのです。

しかも、主は、私たちを罪に定めるためではなく、赦すために、地上に来られたのですから。

色々と神様にお仕えする働きがあり、訓練や歩みがあり・・・

それらは、非常に尊いことなのですが、しかし、私たちは何はともあれ、人を裁くことの無いように、気をつけたいと思います。

ヤコブ書にこんな御言葉があります。

「あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです」

そのことから、人々が神様に背いていたとしても、私たちが、そのことを赦し、あわれみをもって、人々に接していくなら、さばかれることは無く、反対に、神様のあわれみが、私たちの上にとどまるのです。

繰り返すようですが、死後、私たちは、神のさばきの座に立たされ、それぞれ、申し開きをしなければいけませんので、そのことで、決して、とがめられることがないように心がけていきたいと思います。

残念ながら、明らかに、今の世の終わりは背教が起こり、多くの人々が御言葉を投げ捨てている時代です。

真理に立ち返るように、正しく御言葉から語ったり、警告をしていくことは大切なことですが、だからと言って、そのことを、受け入れない人々のことをさばいたりして、反対に神様からの怒りを招くことのないように、気をつけていきたいと思います。

また、正しく御言葉についていくときに、やがては、背信のクリスチャンから迫害を受けたり、訴訟沙汰に持ち込まれたり、死罪に引き渡されたりするかも知れませんが、そのことに関しても、甘んじて受け入れたり、さばきは主に委ねていかれるように、祈り求めていきたいと思います。

「さばかないようにする」という言葉は、今の時代、世の中においても、キリスト教界のトレンドにおいても、あまりそぐわないようなことかも知れませんが、御言葉が語っていることですので、尊重していきたいと思います。

また、さばくことから解放されていくときに、自ずと恵みや祝福に絶えないような、勝利に勝利を重ねていかれるような歩みに入っていきますので、おすすめいたします。

ぜひ、こういった面に関しても、正しくとらえて、さばきの御座に立ったときに、何の染みも傷も汚れも見出されず、「よくやった!忠実なしもべよ」と、主からの誉れを受けていきたいと思います。

 

証になるかどうか分かりませんが、こんなことを示されましたので、参考までに書かせていただきます。

「人をさばかないようにする」とは、私にとって、永遠のテーマであります。

自慢するわけではありませんが、私は、人のことをさばきやすい者です。

どうしたら、さばかずに済むのかなぁと?と、信仰を持って大分時を経ているのですが、その間、主が憐れんでくださっていくつかのヒントをくださいましたので、少し紹介させていただきます。

まず、さばかないように、前もって祈ることです。

そして、さばいてしまったときには、すぐに、主に謝って、悔い改めていくことです。

それをその都度、行っていくのです。

また、どうしても、人に対して苦い思いが、なかなか消えない・・・そんなときには、その人に祝福があるように、ひたすら祈っていくことです。

参考になるかどうかは分かりませんが、もし、人のことをさばきやすくて、困っておられるという方に、ぜひ、おすすめいたします。

それから、すべてに感謝して、喜ぶことも、人をさばかないことにつながっていきます。

人から悪く言われたり、嫌な対応を取られたりしても、「神様、このことも、あのことも、すべて感謝します。喜びます。すべて、主の御手の中のことですから、ありがとうございます」と。

そうすると、不思議な喜びや平安が心の中に湧き上がっていきます。

その力すら無いという方には、まず、そういった思いが与えられように、主に祈り求めていくことをおすすめいたします。

人をさばいたり、人に怒りや憤りを覚えて、永遠の命を失う人は、案外多いのでは?と、いうことを本日の箇所を通して改めて教えられたように思います。

人さまのことは、ともかく、自分自身は、地上に生きながらえている間、気をつけていかなければいけないなぁという思いを、この箇所を通して与えられたことも、感謝です。

本日も主が御言葉を通して私たちに大切なことを語ってくださり、感謝でした。

益々、主の御名が早く広まり、御名が崇められますように、主に栄光を帰し、感謝して。