聖書箇所 ローマ人への手紙15:1,2

 

15:1 私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。

15:2 私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。

 

本日も御言葉に沿ってみていきたいと思います。

 

「人をたてあげる」というテーマに沿って、主の語りかけを共に学んでいきたいと思います。

 

ここでは福音を語るときの留意点について宣べられています。

私たちクリスチャンは、メッセージ、預言、証等を通して、御言葉を伝える働きを大なり小なり誰しもが担っていると思います。

また、場所が教会でなくても、家族や親族、友人、知人等、個人的な場面においても、イエス・キリストのことを伝える機会も与えられています。

それらのことは、いずれも、神様の前に尊いことです。

ただ、その際に、いくつか気をつけなければいけないポイントがありますので、そのことをみていきたいと思うのです。

本日の箇所は、まさしく、そのようなことが語られているからです。

 

順にみていきます。

 

15:1 私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。

この箇所をそのまま、読んでも分かるのですが、英語訳も少し参照していきましょう。

英語ではこんな風に書かれています。

15:1 We then who are strong ought to bear with the scruples of the weak, and not to please ourselves.

直訳すると、こんな感じでしょうか。

「私たちが力のある場合には、心の弱い人を支えるは当然のことです。自分自身を自ら喜ばせてはいけません。」と、なります。

「力のある」というと、体力があるとか、重量のあるものを持つのが得意とか、イメージされるかも知れませんが、ここで言われているのは、霊的な事柄に関することです。

力があるとか、ないとかに関して、分かりやすく言うと、クリスチャンと言っても、信仰が強い人と、弱い人がいるということです。

同じローマ書の141節には「信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません」と書かれています。

クリスチャンといっても、信仰を持っているといっても、個人差があって、霊的に強い人、つまり、自分の足で歩んでいる人は、霊的に弱い人の助けにならなければいけないということを、言われているのです。

具体的には、その人がきちんと自分の足で立って歩みができるように、とりなしたり、場合によっては、必要に応じて助言したりすることです。

また、霊的に弱い人は教理に関して幅が狭いということをふまえて、接していくことが大切です。

受け入れられるものに、制限があるということも言われていると思います。

そして、そのことに関して、わたしたちは、決してさばいてはいけないのです。

「自分を喜ばせてはいけない」という言葉に、語りかけがあります。

そういう人に接していくときに、あれも知っている、これも知っている、こんなことも知らないの?受け入れていないの?と、たとえ、それが正しいことであったとしても、自分自身を満足させるために、語ることはNGなのです。

むしろ、そういった立場に立って、語っていくことが大切であるということを言われているのです。

もちろん、こういうことに関して、当然、忍耐も要しますし、エネルギーや時間も費やします。

時には、犠牲も払わなければならないかも知れません。

でも、信仰の弱い人、力の無い人が益を受けられるように、たてあげられていくことができるように、配慮したり、考慮したりすることは、とても大切なことなのです。

自分がたてあげられれば、それでいいとは、聖書には書いていないからです。

15章の3節にも書いているように、イエス様ですら、御自身を喜ばせることをなされなかったのですから、私たちもそのことに倣うべきだと思います。

 

次をみます。

 

15:2 私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。

ここでも、1節と、同じことが語られています。

この箇所についても、英語訳をみてみましょう。

15:2 Let each of us please his neighbor for his good, leading to edification.

直訳しますと、「私たちは、それぞれ、隣人を喜ばせ、向上に良いと思うことを行っていく」という風になります。

今、礼拝では、一コリント人への手紙を学んでいるのですが、「徳を高める」とは、「人や教会をたてあげる」という風に教えていただきました。

まさに、それと同じことを、この箇所でも言われているのではないかと思います。

先に、メッセージや証や預言が、人をたてあげる働きになることが大事だということを語りましたが、必ずしも、人をたてあげるものばかりではないので、あえて、こういったことが書かれているのではないかと思います。

たとえば、給料が上がったとか、マイホームが手に入ったとか、良い学校に入学したとか、確かに、これらも恵みがゼロではありませんが、聞いている人々に霊的な益をもたらすかというと、どうでしょうか?

以前行っていた教会では、月に一度、礼拝の中で数人の兄弟姉妹が証をしていましたが、全般的に、今、申し上げたような類のことが多かったように思います。

私がその教会を離れてからではありますが、ある方が、「証を聞いても、メッセージを聞いても、ほとんど恵まれない」とおっしゃっていましたが、確かに、そうだなぁと、私もそのことに同感でした。

もちろん、給料が下がるよりも上がったほうがいいでしょうし、賃貸よりも持ち家のほうが、人間的には良いのかも知れませんが、それらのことは、どこまでも、暮らしの向きであり、あくまでもこの世のものにしか過ぎません。

世と世のものは滅びると、御言葉は語っているくらいですので、そういったことには、あまりポイントが無いのでは?と、私自身は、そんな風に思っています。

また、そういったことには、残念ながら、聖霊のわざというものをほとんど感じません。

ですから、証にしても、メッセージや預言に関しても、私たちは、本当に人をたてあげていくものかどうか?を、神様にたずねて、語っていかなければいけません。

そうでないと、方向性がズレてしまいますし、はたまた、霊的に人に良い影響を与えなかったり、全く益にならなかったりするからです。

一方、人が益を受けたり、喜ばせるように、語っていくのなら、霊的に人をたてあげたり、養うようになっていきます。

そのことは、神様が望んでおられることですし、とてもとても尊いことと言えます。

もし、私たちが、人をたてあげるということに関して、真面目に考え、真剣に祈り求めていくなら、神様の導きによってそのことは次第に実現していきます。

自分自身がたてあげられることも大切ですが、たてあげられましたら・・・今度は、多くの人々が霊的にたてあげられるような働きに心をとめ、そのことをぜひ、神様の前に忠実に成していきたいと思います。

 

私自身、およばずながらも、人前でメッセージの訓練をしたり、証や預言をしたりしていますので、このことに関して、とても語りかけを受けました。

最近、礼拝のメッセージの中で、いくつか学んだことがあります。

それは、聞いてくださる方、読んでくださる方にとって分かりやすく噛み砕いて語っていくということです。

御言葉は、多くの人たちにとって聞きなれていないものだということを前提に、分かりやすいことばで、明瞭に語っていくことにポイントがあるかなぁと思いました。

また、それぞれの人々の立場に立って、語っていかなければ伝わっていかないということも教えられました。

たとえば、パウロが言っていたように、ユダヤ人にはユダヤ人のように、ギリシャ人にはギリシャ人のように、律法を持たない人には持たない人のように、割礼の無い者には割礼の無い者のようにと・・・

自分はある程度分かっているからとか、これくらいは分かっているのでは?という概念を振り捨てて語っていくときに、御霊の力がそこに働かれ、人々が理解するようになるのではないかなぁと、思いました。

それこそ、その人にとって、益になるように祈り求めて語っていくことが大切なのでは?と、いうことを示されました。

もし、近々、ユダ族の獅子が目覚めるという御言葉が成就したときには、神様を知らない人々、未信者の方々に福音を語っていく機会が与えられていくと思いますが、こういったことに目を注いでいかれたらなぁと思いました。

本日も、主がとても大切なことを語ってくださり、感謝でした。

栄光が世々限りなく主にありますように。