聖書箇所 使徒の働き3:17-19

 

3:17 ですから、兄弟たち。私は知っています。あなたがたは、自分たちの指導者たちと同様に、無知のためにあのような行ないをしたのです。

3:18 しかし、神は、すべての預言者たちの口を通して、キリストの受難をあらかじめ語っておられたことを、このように実現されました。

3:19 そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。

 

順にみていきます。

 

17節に書かれている「あのような行い」とはイエス・キリストを十字架につけて殺してしまったことです。

 

参照 使徒3:13-15

3:13 アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわち、私たちの先祖の神は、そのしもべイエスに栄光をお与えになりました。あなたがたは、この方を引き渡し、ピラトが釈放すると決めたのに、その面前でこの方を拒みました。

3:14 そのうえ、このきよい、正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、

3:15 いのちの君を殺しました。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。

 

ここで、ペテロは、兄弟たちにこのことを語っています。

このことから、キリストを十字架につけて殺したのは、他でもない、神様を信じるクリスチャンであることが理解できます。

とても恥ずかしい話なのですが、かつて、私はキリストを殺したのはこの世の異邦人だとばかり思っていました。

聖書をろくに読んでいなかったので、そのような見当違いをしていました。

そういった私自身のことからも「無知のために」という言葉に何か語りかけを感じます。

もし、イエス・キリストが救い主ということを正しく理解していたのなら、そんな過ちは犯さなかったと、そのようなことを言われているのではないでしょうか。

私も人様のことを言える立場ではありませんが、実は多くのクリスチャンがイエス様のことを知っているようでいて、案外知らない、あるいは誤解されておられるのではないでしょうか。

神様が人の形をとられて地上に遣わされたイエス様のことについては多くの方がご存知です。

でも、イエス様が遣わされた理由をはじめ、私たちに語っていることや神様の本質について、果たしてどれだけのことを私たちは理解しているでしょうか。

多くのクリスチャンは当たり前のように毎週礼拝に行き、賛美をしたり、それぞれの奉仕を担ったりしています。

イエス様を信じて救われてクリスチャンなって、そのような歩みをしていくことは神様の目から見て尊いことだと思います。

ただし、正しく歩み、働きを担っていくのであれば・・・です。

そうしていくのなら、祝福や恵みに入ります。

そのあたりのことで、神様が語っていることと、私たちクリスチャンがとらえていることと、多少なりともズレがあるように思いますので、少し話をさせていただきます。

私自身、最近礼拝のメッセージで学んだことなのですが、すべての奉仕が必ずしも神様に受け入れるわけではないことを知りました。

特に世の終わりは、キリスト教界において、あらゆる欺きの行いや不法や嘘・偽りが幅を占めていくので、神様の前に的をついた働きは非常に少なくなるように思います。

さて、今の時代、神様が私たちクリスチャンに何を求めておられるのか、そのことについて、真剣に神様に聞いていくことを前提に歩み、働きを担っていくことに御心があるように思います。

少なくとも私には、このような示しが与えられています。

かつての私もそのひとりだったのですが、多くの嘘・偽りの教理(Ex:地獄は無いとかクリスチャンは艱難を通らずに挙げられるなどの教え)に倒されているクリスチャンに対して、永遠の命を得ることは非常に困難であること、ただちに真理に立ち返り、歩みを正していくことの大切さについて呼びかけていくことです。

いわば、クリスチャン向けへの警告の働きですが、このことに関して、とりなしの中で働きをすすめていくことです。

「何も備える必要なんか無い、天国行きはクリスチャンの特権だ!」と、おっしゃるかも知れません。

特に、ここでは、詳しくは書きませんが、残念ながら、聖書には、そのようなこととは、間逆のことしか書いていないのです。

とても失礼な言い方で恐縮ではありますが、もし、ヨタ話、ガセネタを掴んだままでしたら、永遠の命は非常に危と思われます。

しかも、危ないだけでなく、イエス様の時代のユダヤ人同様に、無知のゆえにキリストを十字架につけることに加担するになってしまいます。

「ええーっ、今の時代、イエス様はこの世にはいないから、関係ないことだ!」と、言われるかも知れません。

でも、真理を正しく解き明かし、御心をきちんと行っていく人を迫害する立場に回る可能性は十分にありうるわけです。

御言葉に正しくつく人を非難したりカルト扱いする危険性があるのです。

イエス様=御言葉と考えるなら、その理論は当てはまるのではないでしょうか。

艱難前携挙説やクリスチャンは裁かれないという教えは、ある意味御言葉を冒涜していることに直結することだからです。

「無知のためにあのような行いをしたのです」ということについて、決して人事のように思わないでください。

このことは、旧約の時代の終わりを生きるユダヤ人だけに当てはまるのではなく、世の終わりを生きる新約時代のクリスチャンにもそのまま当てはまることだからです。

不信に不信を重ねた旧約時代の終わりの多くの神の民の心の良心はいつしか消えていき、神の民らしからぬ別のものに変質してしまいました。

イエス様のことを最後まで救い主と認められず、それどころか18節に「キリストの受難」とあるように、口汚く罵しり、悪口を言い、迫害し、十字架につけてしまったのです。

正しいゆえに、迫害されたりカルト扱いされたり、非難されること、これこそが「受難」の意味合いなのではないでしょうか。

今の時代のクリスチャンにもこのことは当てはまります。

これから起こる「背教」とは、正しく御言葉につくクリスチャンを迫害したり排斥したりして、最悪、死に至らせることなのです。

新約の時代も、時代を重ねるごとに、多くのクリスチャンが背信の道に入っていくことは、聖書の常識です。

そう考えると、旧約時代の終わりに起きたことが、新約時代の終わりにも同様のことが再現すると理解するのは正しいのではないかと思います。

ですので、19節で言われているように、悔い改めて神様に立ち返っていく必要があります。

そうでないと、簡単に正しいクリスチャンをカルト扱いしたり迫害する立場に回ってしまうからです。

そして、恐ろしいことに、このことは後において神様の御怒りの裁きを招くことになってしまいます。

クリスチャンとして歩み、働きを担っていきながらも、受けるべき報いを得られなくなってしまうのです。

いわば、滅びが待っているのです。

このことは何が何でも事前に回避していかなければいけません。

この世の学問や知識に乏しいことに、さほど問題はありませんが、こと、イエス様に関してだけは、私たちは決して無知であってはならないのです。

御言葉にも、「神は誠実を喜ぶ、いけにえは喜ばない、全焼のいけにえよりも、むしろ神を知ることを喜ぶ」とあります。

誠実に歩んでいくためには、聖書を正しく読み、正しい知識を得ていくことがポイントです。

そして、単に御言葉を知識として知っているだけでなく、祈りの中で御言葉を行っていくことも大切です。

このことを繰り返し実践していく中で、神様のことが次第に理解できるようになります。

神様が喜ばれることとそうでないこととの分別力も培われていき、御心を行っていかれるようになるのではないかと思います。

そのような歩みに徹していくのであれば、神様から見て「無知な人」とは言われなくなるのではないでしょうか。

また、正しい人を訴えたり、迫害したりすることも無いのではないでしょうか。

ゆえに、人間的には喜ばしくはありませんが、ペテロやパウロたちのように、艱難時代には、逆に、訴えられたり、迫害される立場に置かれてしまうかも知れません。

でも、たとえ人間的には理不尽であったり、不当な働きを受けたりしても、正しく真理に従っていくことによって、多くのクリスチャンを光へと導く働きを担っていかれるようになります。

そして、このことは後において、大いなる報いを得ていかれます。

繰り返しますが、無知であるがゆえに、キリストの十字架殺しに加担してしまうことに御心はありません。

このことは、滅びこそは招いても、命の道には至らないからです。

そして、多くの人たちを恵みから落としてしまいます。

ぜひ、ひとりでも多くの人たちを真理の光へと招くべく歩みや働きを成していかれることをおすすめいたします。

多少のリスクを背負ったとしても、このような歩みを選択していきたいと思います。

一見損のようにも見えますが、神様の前に賢く、とても尊い歩みと言えます。

たとえ地上において受けるべきものは何も無くとも、後の世において、神様からの大いなる報いを得ていきたいと思います。

この一点に望みをおいて、歩み、神様の御心を行う日々を全うしていきたいと思います。

 

メッセージの中でも申し上げたように、私自身も無知のためにイエス様を十字架につけて殺した一人であります。

洗礼を受けてから、大分年数が経ちます。

その間、聖書の御言葉に触れる機会や奉仕する場も与えられました。

しかし、神様の目の前に、そのことが正しかったかというと、決してそうではありませんでした。

ろくに祈らず、聖書も読まず・・・

ゆえに、クリスチャンは艱難は通らないとか、裁かれないとか、耳障りの良い教えを盲信し、人にもそのことを伝えていました。

今にして思うと、とんでもない間違いをしてしまったのだなぁと・・・

でも、ある時を境に、神様は、そんな私に憐れみをかけてくださり、エレミヤの部屋のHPを通して、真理の光へとお招きくださいました。

HPのメッセージを通して、艱難前携挙説が偽りであること、神の家から裁きが始まることについて教えていただき、そういったことを発端に、徐々に光へと導かれていきました。

そして、光を見せていただいたり、聞かせていただいたりしたのであれば、そのことについてきちんと宣べ伝えていくべきなのだということを理解し、わずかながらも今日のような奉仕にあずからせていただいております。

先に申し上げたように、かつての私も、御言葉であるキリストを十字架につけた者でありますので、何一つ偉そうなことは申し上げられないのですが、このことは後の世において大いなる区分をもたらす大切なことですので、これからも機会があるごとに、周囲のクリスチャンにきちんと真実を伝えていかれるように祈り求めて行っていきたいと思います。

ひとりでも多くのクリスチャンが真理を見ることができますように、そのようにお祈りしながらもわずかでも働きをさせていただけることは、ひとえに神様の憐れみと恵みだと思っています。

まだまだ知らなければならないことは山積みではありますが、祈りながらも聖書を読み、少しでも正しい知識を得ていき、御心を行っていかれたらなぁと思います。

主に感謝です。