聖書箇所 使徒の働き11:23

 

11:23 彼はそこに到着したとき、神の恵みを見て喜び、みなが心を堅く保って、常に主にとどまっているようにと励ました。

 

「心を堅く保ち、常に御言葉にとどまる」というテーマに沿って、主が語られていることについてご一緒にみていきたいと思います。

 

本題に入る前に・・・

この1節だけを見ると分かりづらいのですが、彼とはバルバナのことです。

バルバナという人について、少し説明したいと思います。

参照 使徒の働き4:32-37

4:32 信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。

4:33 使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。

4:34 彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった。地所や家を持っている者は、それを売り、代金を携えて来て、

4:35 使徒たちの足もとに置き、その金は必要に従っておのおのに分け与えられたからである。

4:36 キプロス生まれのレビ人で、使徒たちによってバルナバ(訳すと、慰めの子)と呼ばれていたヨセフも、

4:37 畑を持っていたので、それを売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。

36節を読むと分かるように、バルバナはレビ人でした。

今までも何度か申し上げているように、レビとは、「くっつく」という意味です。

分かりやすくいうと、主のそばにいつも一緒にいる、主のそばから離れないということです。

つまり、新約でいう、弟子の歩みをしている人のことです。

ですから、バルバナも、主の弟子として歩み、働きを担っている人でした。

このとき、バルバナはアンテオケというところに、福音を語るために遣わされました。

そして、本日のメッセージ箇所の23節にあるように、彼は神様の恵みを見て喜びました。

神様の恵みということについて、今更あえて説明するまでもありませんが、この箇所を英語で見てみると、the grace of Godと書かれてあります。

graceとは「品性、慈悲・寛容」という意味合いです。

つまり、このとき、バルバナは、アンテオケにいる人々に対して、神様の品性や慈愛や寛容を心に感じ、そのことに、とても喜びを覚えて、人々がこれからも、そのような心の思いを堅く保って、常に主にとどまっていることを願い、そのように激励の言葉を与えたのではないかと思います。

 

さて、それでは、本題に入っていきたいと思います。

私たちクリスチャンが神様の働きを担うときに、具体的には、人々を真理の光の道へと案内する奉仕をする際に、いくつかのポイントがあります。

まさに、本日の御言葉の箇所が、そのことを明白に教えてくださっています。

心を堅く保つこと、常に主にとどまることです。

「そんなこと、当たり前のことでしょ?!」と、賢い方は、すでに御理解されておられるかと思います。

しかし、私を含め、そのことに関して、あまり理解されていない方々のために、主が語って下さっていますので、共に御声を聞いていきたいと思います。

「心を堅く保つこと、常に主にとどまること」に関しても、nkjv訳で読んだほうが更に分かりやすいので見てみたいと思います。

purpose of heart they should continue with the Lord.

このことを訳すと「皆がいつも御言葉にとどまり続けて、主に対して同じ思いとなる」というような意味合いになるのではないかと思います。

(ちなみに私事で恐縮ではありますが、もともと英語はとても苦手ですので、この訳が良いかどうかは分かりませんが、聖書の御言葉が言われていることから、概ねこのようなことではないかと、そんな風に訳させていただいています)

 

「主にとどまる」とありますが、主御自身は、御言葉そのものですので、私たちが聖書の言葉に従う、そんなニュアンスを感じます。

クリスチャンお一人一人が御言葉に従うことはとても大切なことです。

細かいことではありますが、この節では、「みなが心を堅く保って」と、そのことが「常に主にとどまること」よりも先に書かれています。

逆説的な言い方をするなら、もし、お一人一人がきちんと御言葉を土台として歩んでいくのなら、そのことが、自ずと御霊の一致へと結びついていくのではないかと思います。

まず、私たちが、個々において、御言葉にとどまることにポイントがあります。

共に働きを担っていくにしても、兄弟姉妹との関係についても、どこまでも、御言葉が主体です。

同じことを繰り返すようで恐縮ではありますが、まず、私たちがすべきことは、一にも二にも、御言葉に堅くつくことです。

そして、単に御言葉を知識として知るだけでなく、行っていくことも大切です。

そのようなことを通して、主にあって、兄弟姉妹の心がひとつとなり、御心の働きを成していくことに通じていくのではないかと思います。

 

また、このようなことも言われているのではないかと思います。

バルバナの時代もそうだったのかも知れませんが、今の世の終わり、残念ながら、個人においても教会においても、神様の目からみて、このこと(御言葉にとどまることや主にあって兄弟姉妹が同じ思いになって働きを成していくこと)がほとんど実践されていないのが現状と考えるのが正しいのではないか思います。

バルバナがあえて、アンテオケの人々のお願いしたというのは、そういうことだと思います。

このことに関連して、少し話をさせていただきます。

昨年、レムナントキリスト教会において、今の約3倍の人数の兄弟姉妹が弟子の歩みをしていました。

しかし、今年に入って些細なことをきっかけに、約2/3の兄弟姉妹が去っていきました。

詳細については触れませんが、聖書には、弟子と群集、はたまた聖徒をより分けるための試しが赦されていることについて書かれています。

神様の御子であるイエス様ですら、「試みを経た石」と言われているように、あらゆるサタンからの誘惑、試みに遭遇しました。

ですから、私たちが、試みられるのは尚更のことですし、より分けられてしまうのはある意味、聖書的であることは理解できます。

イエス様の時代も、12弟子以外にも、大勢の弟子がいましたが、最終的に残ったのは12人、しかし、イスカリオテのユダが裏切ったので、わずか11人でした。

その時代、イエス様は人々の目に見えていましたし、いつも、弟子たちのそばにいました。

それにもかかわらず大勢の弟子がキリストから離れ去ってしまったのです。

そんな風に見ていくと、まして、今の時代、残る人はもっと少ないのでは?と、思わず、頷いてしまいます。

(このことは、私が勝手にそう思っているだけで、実際には違うのかも知れませんが・・・)

主にとどまろうと思って、弟子として歩む決意をして、実際に行っていくことは尊いことです。

しかし、残念ながら、すべての弟子が全うできるのではなく、ポイントポイントにおいての主からの試みをきっかけに離れてしまうのも現実です。

その理由としては、主の言われている訓練を守れなかったり、主の叱責に耐えられなかったり、あるいは神様の言われていることよりも周囲の人が言う意見に押し流されたりと・・・

離れていく理由は挙げればいくらでもあります。

言い方が多少きつく感じるかも知れませんが、実は、キリストの弟子として、とどまることのほうが困難なのです。

なぜかというと、「滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入る人が多い。命に至る門は小さく、その道は狭く、それを見出すのはまれである」と、御言葉は言っているからです。

今、このように申し上げている私自身も、人間的には全く自信がありません。

しかし、何とか御言葉にとどまり続けて、自分の召しや歩みや働きが全うできるように、主に憐れみを日々祈り求めています。

ただし、これは言えることです。

御言葉にとどまる人、離れる人、それぞれ特徴や原因があります。

聖書に書かれている御言葉を正しく聞くか否か、人間的に不利になっても、御言葉を受け入れていくか否か、なおかつ、聞くだけでなく実践していくか否か、あるいはすぐに実践できなくても、聖霊の力によって出来るように祈り求めていくか否かです。

御言葉にとどまることは、正直、人間的には、言葉は悪いかも知れませんが、「馬鹿馬鹿しい、とてもやってられない、冗談でしょう?!」と、そんなことばかりです。

損か得か?どちらかといえば、はっきり申し上げて「損」なことばかりです。

ただし、これは、人間的な肉の目で見た場合のことです。

しかし、逆に、真理の御言葉に私たちがとどまらないならば・・・

祝福や恵みは受けられませんし、当然のことながら、神様とはいつも戦争状態、つまり神様との間に平安が保たれることはありません。

二つに一つ、どちらかを私たちは選択し、決断し、実践していくのです。

死後の行き先が天の御国か、あるいは火の池かのどちらかであるように、このことにも中間はありません。

つまり、御言葉に徹していくのか、そうでないかのいずれかひとつであることを、どうかご理解ください。

そして、この文章を読まれているあなたには、ぜひ、御言葉にとどまることをおすすめします。

御言葉にとどまること=イエス様の弟子として歩んでいくことです。

「クリスチャンと名が付けば、それでいいじゃないか?!群集でも一緒だろう?!」と、言われる方には、あえておすすめはしません。

しかし、真剣に天の御国を考えておられるのでしたら、生涯キリストに従う歩みをぜひおすすめいたします。

周囲を見渡せば、ほとんどの人が御言葉に従っていないかも知れません。

いえ、むしろ、そういう人ばかりとも言えるのかも知れません。

でも、人は人ですし、御言葉に従わない=永遠に神の御顔から退けられてしまうということに恐れを持ってください。

たとえ、地上にあっては、何も得られなくても、後の世において、神様の報いを得られるほうがいいと思いませんか?

以前の私もそうだったのですが、残念ながら、多くのクリスチャンが天の御国をすでに得ていると勘違いしています。

しかし、残念ながら聖書には、後の世において、永遠の悔いを残す人が多いこと、つまり、御国の子らか泣いたり歯噛みしたりすることについて、はっきりと書かれています。

罪を持ったままでも、自分勝手に歩んでいても、クリスチャンと名が付いている人は裁かれないと・・・

でも、それは、嘘・偽り、また、クリスチャンから永遠の命を奪うためのサタンの巧妙な策略や罠であることをどうか、正しくご理解ください。

また、御子を信じる者がひとりも滅びることなく永遠の命を持つのが神様の御心であることも、ご理解いただきたいと思います。

繰り返しになりますが、そのために、ぜひ、主の弟子として歩まれることをおすすめします。

時代を正しく見るならば、また、聖書や預言でも示されていることですが、時は明らかに縮まっています。

クリスチャンとして歩む時間、主の働きを担える時間には、限りがあります。

どうか、そのようなことを踏まえて、神様の前に正しく賢い選択をされることをおすすめしますし、お祈りいたします。

「人がたとえ全世界を得ても永遠の命を失ったら何の得がありましょう」という御言葉に今一度、立ち返っていきたいと思います。

何が最も大切であるのかについて、この箇所を通して私たちに語って下さった主に栄光と誉れがありますように。

 

最近、私の父(未信者)に福音を語るきっかけが与えられました。

以前から、少しずつ、イエス様のことについて話をしていたのですが、あることをきっかけに、御言葉や証を通して、天の御国に入るためのことについて度々話をするようになりました。

イエス様は、私たちが一度聞いて、理解する者ではないことをよくご存知で、何度、何十回、何百回、あるいは何千回と言葉を変えながらも、永遠の命への道について、繰り返し私たちに聖書を通して語って下さっています。

ですので、私も、イエス様と同じようにはいきませんが、何度も繰り返し父に話をしています。

父は、比較的素直に聞いてくれるのですが、「ああー、もう、分かった、分かった、よく分かった」と言います。

でも、「お父さん、分かっていないから、何度も同じことを言うの。しかも、クリスチャンと言われている人すら警告のことを言っても理解してくれないんだから。真理について語っても無視したり耳を傾けない人がクリスチャンの中にも大勢いるの。だから、こんな風に繰り返し、語るんだよ。今、こうやって語っている私だって、分かっていないことばっかりだから、何度も何度も同じことを聞いたり(礼拝のメッセージやおすすめ)、読んだり(聖書を)しているの。これからも、耳を傾けてくれる人には、同じことを語っていくから」と、言いました。

そうしたら父はこう言いました。

「なるほど、そうか、そのことも分かった。だからお前自信が納得するまでそういうことを話せばいい」と、言ってくれました。

本日の御言葉やテーマからズレた証になってしまいましたが、繰り返し聖書を読むこと、語ること、このことも御言葉にとどまることにつながるのではないかなぁと思いました。

また、それと共に祈ることは、更に大切なのではないかと思います。

働きを担うにあたって、また、働きは一人でするのではなく、兄弟姉妹と支えあって助け合って力を合わせて行っていくものなので、なおのこと、祈り、聖書を読み、御言葉を実践して御心にとどまることは大切だというふうに理解させていただきました。

自分自身を見ると、まだまだ悔い改めるべき罪が多々あり、不足も多いのですが、本日の御言葉で教えられたように、地上に生かされている間、御言葉にとどまっていかれるように、ますます祈っていきたいと思いました。

本日も、大切なことを主が語ってくださり、感謝でした。

主に栄光がありますように。

アーメン。