聖書箇所 使徒の働き15:1

 

15:1 さて、ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない。」と教えていた。

 

本日も御言葉に沿って御一緒に学んでいきたいと思います。

 

まず、ここで言われている「モーセの習慣に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」とは、どういう意味でしょうか?

そのことから、神様は、私たちに何を語っておられるのでしょうか。

順を追ってみていきたいと思います。

モーセと言えば、まず、思い浮かぶのが、「十戒」ではないでしょうか。

 

参照 出エジプト記34:28

モーセはそこに、四十日四十夜、【主】とともにいた。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。そして、彼は石の板に契約のことば、十のことばを書きしるした。

 

参照 申命記4:13

主はご自分の契約をあなたがたに告げて、それを行うように命じられた。十のことばである。主はそれを二枚の石の板に書きしるされた。

 

出エジプト記34章に、「十」のことばとありますが、これが、「十戒」です。

この文章を読まれている皆さまも、よくご存知だと思いますので、詳細についてはあえて触れませんが、申命記に書かれている「二枚の石の板」という言葉に着目していただきたいと思います。

「石の板」というと、川原にある石を連想しますよね。

しかし、ここで言われている「石の板」とは、「聖書」のことを言っています。

賢い皆様は、今更説明されなくてもお分かりかとおもいますが、「二枚」とは、「旧約&新約」を意味します。

ちなみに、聖書は、イエス・キリストを証するものであり、私たちを永遠の命に導くためのものでもあります。

永遠の命に導くための、いわば、「律法」について書かれているものです。

たとえば、日本にも「法律」があります。

私は、こと法律に、疎い者ではありますが、少なくとも、人殺や窃盗をしたら、法に基づいて、刑罰を受けることくらいは、分かります。

犯行の重さにもよりますが、最悪、無期懲役や死刑もあります。

多くの人はそのようなことはあってはならないと、事前に犯行を起こさないようにします。

そして、法律を守ることによって、刑罰を回避して日々の生活を送っています。

これは、世のことであります。

しかし、信仰生活でも、同じことが、当てはまります。

クリスチャンの信仰においても、手引き書があり、それが、六法全書でないことは、言うまでもありません。

どこまでも、「聖書」です。

先ほども申し上げたように、そこには、私たちを永遠の命に導くための、数々の神様の言葉が記されているからです。

イエス様もおっしゃっています。

「心を尽くしてあなたの神である主を愛しなさい」とか「戒めを守りなさい」と。

ですから、クリスチャンは、聖書が言われる基準に沿って、信仰の歩みをします。

もし、御言葉を守らないなら、この世にあって、法律を破って刑罰を受けてしまうのと同様に、神様の怒りの裁きが下されてしまいます。

この世において、いくら、無期懲役と言っても、所詮この世のことにしか過ぎません。

神様の裁きに関しても、この世だけで終わるならいいのですが、罪を放置したままで、この世を去ってしまうなら、後の世において、永遠の刑罰に入ってしまう可能性がありますので、気をつけていきたいと思います。

話が、多少ズレてしまいましたが、元に戻します。

この節で言われている、「モーセの慣習」とは、「聖書に書かれている律法」のことを言われているのです。

 

さて、それでは、本日の本題に入りたいと思います。

聖書に書かれている言葉は、神様が書かれているものであり、すべて純粋で、よいものばかりです。

しかし、そうではあっても、ひとつひとつの御言葉と真剣に向き合っていくときに、自分自身の心の内側とは随分かけ離れているものだなぁと、少なくとも、私はそのように思うことが多々あります。

つまり、度々、違反を繰り返す者だなぁと。

はっきり言って、「全部守るのは無理!」と、断言できてしまいます。

そんなことを言うと、「それじゃぁ、あなたは、クリスチャンとしては、失格ですね」と、言われてしまうかも知れません。

でも、聖書には、すべての律法を守れる人はいないと、そのようなことが書かれています。

たとえば、「義人は、いない」と。

もともとの罪、原罪のゆえに、一時的に律法を守れたとしても、あるタイミングで破ってしまったり、あるいは、守れるものがあったとしても、別のものを破ってしまったりと・・・

ここに、書かれているように、「もし、律法を守れないのなら、救われない」という理論が正しかったとしたら、誰一人として、救われる人はいないのでは?と、思います。

ユダヤから下ってきたある人々が、救われて間もない兄弟たちに、そのようなことを発したわけですが、そんなことを言う人たちに、「じゃあ、あなたがたは聖書に書かれている律法のすべてを守っているの?」と、もし、この場に居合わせていたら、私自身、反対に彼らに質問したいくらいです。

恐らく「No」と、答えるか、あるいは、無言になるのではないかと思います。

何を言いたいのかと言うと、私たちは、律法によっては神様の前に「義」とは、認めなられないのです。

聖書にも書かれているのですが、もし、律法の行いによって「義」とされたいのであれば、すべての律法を守るべきなのです。

これを読まれている皆様に、思わず質問です、「そんなこと、できますか?

今の時代も、はたまた聖書に熱心であらゆる奥義にも通じているクリスチャンであっても、「Yes」と答えられる人は皆無だと思います。

しかし、だからと言って、気落ちすることはないんですよ。

そんなときには、聖書に書かれている「あなたがたは、恵みによって救われたのです」という御言葉をぜひ、思い出してくださいね。

 

参照 使徒の働き15:11

私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです。」

 

ここに書かれているように、「恵み」とは、神様から与えられるものであって、私たち人間が作り出すものでもなく、この世に存在するものでもないことを、ご理解ください。

はっきり言います。

何か良い行いをしたからとか、修行を積んだからとか、自分の心がきよめられたからとか、そういったことで救われるわけではないのです。

「じゃあ、一体何をすればいいの?」と言われるあなたに朗報があります。

それは、「イエス・キリスト」を信じることです。

分かりやすく言うなら、聖書の言葉=イエス・キリストですが、御言葉こそが真理であり、私たちを唯一救いへと招くものであり、霊的な意味合いにおいて、命を与えるものであるということを信じることです。

また、イエス・キリストを自分の主であることを口で告白して死者の中からよみがえったことを信じることも大切なことです。

 

参照 ローマ人への手紙10:9,10

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。

人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

 

いかがでしょうか?とても、単純明快ではないでしょうか。

過去、私も「救い」ということについて、勘違いしていたことがありました。

聖書で言われている有名な御言葉で「さばいてはいけません、あなたがたもさばかれないためです」とありますよね。

聖書は、このように言われているのですが、私自身、口に出さなくとも、時として人に対して苦い感情を抱いたり、腹立たしく思ったりすることがあります。

このことは、本日の節の、ユダヤから来た人々から言わせると、まさに、律法の違反者であります。

もちろん、人をさばくことは良くはありません。

悔い改めていくべきことではあります。

しかし、だからと言って、救われていないかというと、それは違うのです。

完全ではないので、律法の違反者には、度々なってしまいますが、違反を犯したからと言って、御言葉であるキリストのことをもう、信じない、受け入れないというと、そうではないのです。

また、律法は私たちを導くための養育係りとも言われています。

 

参照 ガラテヤ人への手紙3:24,25

こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。

しかし、信仰が現れた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。

 

律法を破ることは神様の目から見て悲しいことかも知れませんが、しかし、そういったことを通して、自分自身の心の弱さや足りなさを認識するためのものでもあるのです。

律法を通して、自分自身がますます、罪深い者だなぁ、偽善者だなぁと、どうしようも無い者だなぁ、だから、イエス・キリストの助けが必要なんだなぁ、自分の力では、何一つ律法なんて守れないんだなぁと、まずは、神様の前にそういったことを素直に認めることが大切であることを教えておられるのではないかと思います。

このことを、きちんと、理解していくことによって、私たちが真に神様を恐れてへりくだって、ひとつひとつのことを神様に助けを求め、ますます神様だけにより頼んでいくようになっていくのだと思います。

 

本日の要点をまとめます。

「救い」は、キリストを信じるすべての人に神様の恵みによって、無条件に与えられているものです。

何かの行いによって、あるいは、聖書に書かれているすべての律法を守ることによって、救われるのではありません。

一にも二にも、御言葉であるイエス・キリストを信じることです。

信じないなら、あるいは、イエス・キリストを自分の主と認めないなら、救われません。

繰り返すようでありますが、イエス・キリストを自分の主であることを口で告白して、死者の中からよみがえられたことを信じるなら救われます。

そうすることによって、クリスチャンとしての歩みをスタートさせることができます。

いわば、クリスチャンの最終ゴールである「天の御国を目指す道」を歩んでいかれるチケットをゲットしたということになるのです。

あくまでも、天の御国を目指すべく条件を得たということを正しくご理解ください。

ここでは、詳細について触れませんが、クリスチャンとしての歩みをスタートさせて、それだけでそのままエスカレーター式に、天の御国の後継者になれるのではなく、歩み方次第によって、後の日に、御国を受け継ぐか否かについては、神様によって決定付けられます。

言うなれば、すべてのクリスチャンが必ずしも同じ結末に至るわけではないということは、正しく認識してください。

良い例かどうか分かりませんが、登山家が、エベレスト山やマッキンリー山の登頂&下山を目指したとしても、すべての人が全うできるとは限りません。

標高が格段に高かったり、強風や寒さが激しかったりということから、かなり厳しい条件の山々であるということにおいては有名ですので、ある人は途中で体調を崩したり、吹雪のために諦めて引き返してしまったりとか、あるいは、最悪遭難してしまったりする人もいるように、頂上まで行き、そして、無事に下山できる人は、プロと言われている人であっても、限られた人なのではないかと思います。

色々な厳しい条件を見事にクリアした人だけが達成できるのだと思います。

そのことと比較して良いかどうかは分かりませんが、クリスチャンの歩みも同じようなことが言えるのではないでしょうか。

聖書の御言葉には、数多くの律法が書かれています。

その中には、とても厳しい事柄についても書かれています。

もちろん、それらをすべて守るのは無理だということについては、さきほどお話した通りです。

しかし、守れるか否かは別として、まずは、聖書に書かれているすべての御言葉を信じること、そして、その次の段階として、御言葉に則して歩んでいかれるように神様にひたすら助けを祈り求めてより頼んでいくことは、とても大切なことです。

また、クリスチャンになって、それで、ハッピーなのではなく、それは、始まりに過ぎないことであって、天の御国にふさわしい者になっていくべく歩みをしていくことも重要です。

そのためには、神様からのありとあらゆる試みがあります。

本当に、キリストを信じているのか?キリストだけを頼っていくのか?そのような試みがポイントポイントにおいて、必ずあります。

神様の御子であるイエス様でさえ、試みの連続でした。

あらゆる苦難や試みを経ても、キリストである聖書の御言葉に最後までとどまっていくのかどうか?キリストだけを頼みとしていくのか?そのようなことがお一人一人のクリスチャンに問われています。

自分にとって、都合の悪いことになってしまったから、あるいは、人間的に不利になってしまうからということで、途中で投げ出してしまうのでは、残念ながらゴールに、辿り着くことはできません。

しかし、最後まで、イエス様だけを信じて、神様の前に忠実に歩めるように助けを祈り求めていくのであれば、主の助けと力と導きと憐れみによって、見事にゴールへと達していかれるのではないかと思います。

その達成感、いわば後の日に神様からの栄光を得るというのは、「神様の知恵は金や銀や宝石に勝る」という御言葉にもあるように、この世において全世界を得ることにさえ比べ物にならないように思います。

繰り返しになりますが、「救い」とは、本当に素晴らしく、この世のどんなに素晴らしいことをも遥かに超越したものです。

私たちがきちんと受け取りさえすれば、イエス様からの最高のプレゼントだからです。

ですので、この、尊い、キリストの救いを決して無にすることのないように、地上に生きながらえているほんのわずかな時間をすべて主のために捧げていきたいと思います。

いわば、主が備えて下さっている細くて狭いまっすぐな道をひたすら歩み、ぜひ、最終ゴールである天の御国に入っていきたいと思います。

 

メッセージの中でも申し上げたように、過去、私は、些細な罪を犯しただけでも、「自分は救いから外されてしまっているのでは?」という不安に度々陥っていました。

御言葉に、「私が聖なる者であるように、あなたがたも聖なる者となりなさい」とか、「私が完全であるように、あなたがたも完全な者になりなさい」と書かれているので、聖なる者、完全でないと、救われないのかなぁと、まして、悔い改めても、神様に赦していただいても、すぐに罪を犯してしまうので、これではいつまでたっても聖なる者にも、完全にもなれない、だから救われていないのかなぁと、随分長い間、救いに関して誤解していました。

でも、救いは、神様からの恵みによるものであること、御言葉であるキリストを信じて心に受け入れて、死者の中からよみがえられたことを信じれば、救われるということを知ってから、そういった不安や悩みから解放されました。

クリスチャンであっても、あるいは、まだ、キリストを信じておられない人々であっても、過去の私のような誤解をされている方が案外多いのではないかと思いました。

本日の御言葉の箇所を通して、そのような誤解が明確に紐解かれましたのも、神様がより、多くの人々を救いへと招いておられるのかなぁと、ただただ、感謝するばかりです。

また、私の周囲には、家族、親族、友人をはじめ、救われていない人たちが沢山います。

でも、そういう人たちが、この地上で生きている間に救われて欲しいなぁと、神様にお祈りするばかりです。

導きによって福音を語っていくのは、私たちの責任の範囲ではありますが、救うのは、神様にしか出来ないことなので、ひたすら、「○○さんが救われますように、○○さん御家族も救われますように」と、主にお祈りしています。

今は、クリスチャン人口が1%にも満たない日本ではありますが、聖書にも、また、今回の地震・津波・原発を通しても、日本人がユダ族の獅子であること、今、獅子は眠っている状態ではありますが、やがて獅子が目覚めたときには、獅子の本領が発揮され、日本を起点に国の再興、宮の再建が成されることについて、神様は明確に語っておられるので、希望を持って、主を信じて、周囲の人々の救いについて、お祈りしています。

まずは、救われることが大切であるということを、本日の御言葉の箇所を通して改めて教えられ、今一度、自分自身、初心に戻って、一つ一つのことを神様に祈り求めていきたいなぁという思いが起こされ、感謝でした。

主に栄光がありますように、御名をほめたたえ、感謝します。