聖書箇所 使徒の働き16:29-31
16:29 看守はあかりを取り、駆け込んで来て、パウロとシラスとの前に震えながらひれ伏した。
16:30 そして、ふたりを外に連れ出して「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。」と言った。
16:31 ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。
御言葉に沿って順にみていきます。
ここに登場する看守はパウロとシラスを監視していました。
しかし、同章の25-28節のことが起こりました。
参照 使徒の働き16:25-28
16:25 真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。
16:26 ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。
16:27 目をさました看守は、見ると、牢のとびらがあいているので、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした。
16:28 そこでパウロは大声で、「自害してはいけない。私たちはみなここにいる。」と叫んだ。
その看守が30節に書かれているように救われるためにどうしたら良いかをパウロに尋ね、信仰に入りました。
本日は、「救い」というテーマで話をしていきたいと思います。
上記御言葉の箇所は、これからクリスチャンになろうとしている人や、すでにクリスチャンとして歩んでいる人の中で、今ひとつ救いについて確信していない人にとっても大切なポイントについて書かれています。
そして、なおかつ、そのような人たちに私たちが福音を語っていく機会に、わずかでも参考になるのでは?と、そのような思いでメッセージを書かせていただきました。
ちなみに過去、私も救いについて誤解をしていました。
たとえば、良い行いをして、良い人格にならないと救われないと思っていました。
救いについて、どこまでも人間的なとらえ方をしていました。
しかし、救いについて、31節でパウロとシラスはきっぱりと言われています。
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と。
つまり、救いとは、キリストを信じることによって無条件に与えられるもの、いわば、神の恵みなのです。
今更ではありますが、そのことを正しく理解することは、大切なことです。
そのことをきちんと理解していないと、ありとあらゆる混乱を招いてしまうからです。
重ねて申し上げますが、主イエスを信じること、それが救いです。
しかし、今日のキリスト教界やクリスチャンの間では、救いについてどのように言われているのでしょうか。
前章の1節のようなことが強調されてはいませんでしょうか。
参照 使徒の働き15:1
15:1 さて、ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない。」と教えていた。
これは何を言っているのかというと、律法を行うことによって救われると言っているのです。
モーセの慣習とは、神様の戒め、すなわち律法のことを指します。
でも、もし、この理論が成立するとしたら・・・どう思われますか?
人は良いこともします、しかし、悪いことをして罪も度々犯します。
律法を行うこと、つまり、良い行いを積むことによって救われるとそのように考えるなら、救いは帳消しになってしまいますよね。
クリスチャンになろうと、そうでなかろうと、私たちは生まれつきの罪、すなわち原罪があります。
ゆえに、良い行いを積むことでは救われないことが理解できるのではないかと思います。
ですから、ここでパウロやシラスが言及している31節の言葉が正しいのです。
繰り返すようですが、とても単純明快です。
主イエスを信じるだけで救われるのです。
それでは、なぜ信じるだけで救われるのでしょうか?
大きな理由のひとつとして、まず、救われなければ、クリスチャンとしての歩みをスタートできないからです。
参照 Ⅰテモテ2:4
2:4 神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。
一にも二にも、とにかく信じて救われることがポイントです。
そして、ここに書かれているように次の段階として真理を知ることに踏み込んでいかれるようになるのです。
このことについては、本日は詳細について触れませんが、いつか機会がありましたら是非お話させていただきたいと思います。
ポイントは、神様はすべての人が救われることを望んでおられるということです。
私自身も恵みによって神様の救いにあずからせていただいた一人として、是非、このことを一人でも多くの方に知っていただきたいと思っています。
それでも・・・「信じるだけで本当にそれで救われるの?」と疑問を持たれる方に朗報があります。
そのことを後押ししてくださる御言葉がありますので紹介させていただきます。
参照 ローマ人への手紙10:9-13
10:9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
10:10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
10:11 聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」
10:12 ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。
10:13 「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。
いかがでしょうか?この箇所でも、主イエスを信じるだけで救われることについて言われていますが、素晴らしいことだと思いませんか?
ただし、このことは覚えていてください。
9,10節の御言葉にポイントがあります。
口でイエスを主と告白すること、心で神はイエスを死者の仲からよみがえらせてくださったと信じることが大切です。
これを読まれているあなたが救われてクリスチャンとして歩んでいるのでしたら、もし、誰かに「あなたの宗教は?何を信じているの?」と、聞かれたら、イエス・キリストこそが主であることをはっきりと言っていきたいと思います。
もし、そんな風に聞かれた時に口をつぐんでしまったら、後の世において、イエス様から「知らない」と退けられてしまいますので気をつけていきたいと思います。
参照 マタイ10:32,33
10:32 ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。
10:33 しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。
話は、少し、反れてしまいましたが、主イエスを信じることのみが救いのポイントであることを今一度、正しくとらえていただきたいと思います。
ですから、「良い行いや慈善事業を積み重ねて救われましょう」という教えには騙されないように、くれぐれも気をつけていきたいと思います。
そして、まだ、神様を知らない人たちに救いのことを話すときには、このときのパウロやシラスを模範に「主イエス・キリストを信じることによって救われる」ということを、是非、強調していきたいと思います。
31節の後半を読むと更に素晴らしいことについて書かれていることにお気づきでしょうか。
「そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と。
何と、その人だけでなく、その人の家族も救われると言っています。
このことは、一人の救いによって周囲の人も救いにあずかることを言われているのです。
家族について・・・
もちろん、その人の身内、たとえば、血のつながった家族のことも言われていますし、もう1つの意味合いとして神(霊)の家族のことも言われているのではないかと思います。
このことについて順にみていきたいと思います。
肉親の家族の人が救われていなかったとしても救われた人の証やその人の生き方を通してイエス・キリストを知り、信じるようになっていくこと、そして、それが家族の救いへとつながっていくことを言われているのではないかと思います。
また、神の家族に関してですが、神の家族とは主イエス・キリストを信じて救われている人、いわば、クリスチャンのことを指します。
しかし、先ほどのテモテの手紙に書かれているように、救われているからと言って真理を知るかどうかは別のことなのです。
このことについて、今は、詳細は述べませんが、もし、一人の人が救われて、真理を正しく知っていくときに、その人を通して、まだ、真理を見ていない周囲のクリスチャンが真理を見ていくようになることを言われているのではないかと思います。
「あなたの家族も救われる」とは、そのような二重の意味合いがあるのではないかと思います。
救いのことに関連して、私自身の証をさせていただきます。
以前話をしたかも知れませんが、私は「キリスト」の伝記の本を通して救われました。
12歳になる前でした。
それまで母から多くの英雄と言われる方々の伝記の本を買ってもらっていました。
有名どころでは、石川啄木、宮沢賢治、ベートーベン、モーツァルト、シューベルト、ヘレン・ケラー、他にも色々と読みました。
どの人も素晴らしいなぁ、さすが、伝記として語り告げられて当然の人たちだなぁと、尊敬の思いを心に抱きながら読んでいたという記憶があります。
そして最後に渡されたのが「キリスト」の伝記でした。
それまでの人たちは、どんな素晴らしいことをしたのだろうと、多少なりとも心に期待を膨らませていたのですが、失礼ですが、「キリスト」に関しては、そういった思いにはなりませんでした。
こと、キリストに関してだけがそうだったのです。
今にして思うと、それが聖霊の導きというものだったのかも知れません。
一体、この人は、どんな人なの?何をした人なの?と、そんな思いで読み始めました。
しかし、読み進めていくうちに、何か不思議な思いに包まれました。
子ども向けの伝記だったので、聖書ほどは詳しくはありませんが、キリストの時代背景のことからはじまって、キリストの誕生、少年時代に母マリヤと父ヨセフと共に過ぎ越しの祭りに行った時のこと、3年半の公生涯のこと、マグダラのマリヤがイエス様の葬りの準備のために香油を注いだこと、イスカリオテのユダの裏切りのこと、ピラトがイエスの釈放に努めようとしたこと、十字架の刑のこと、復活されたイエス様がマグダラのマリヤに最初に現れたこと、その後弟子たちにも現れて昇天されたことについて、順を追って書かれていました。
次々と読んでいくうちに、これまでの人たちとは全く違う、そして、どれもこれもが心に落ちてくるものばかりでした。
当時は、神様=イエス・キリスト=聖霊ということについての理解は全く無かったのですが、イエス・キリストが神の御子であり、救い主としてこの世に遣わされて、私たちの罪のために十字架にかかって死なれ、3日目によみがえったことについて、理屈抜きに信じることが出来ました。
何度も何度も読み直したのですが、心に深い感動を覚えたり、時には号泣したりしました。
教会に行ったわけでもなく、聖書を読んだわけでもなく、しかし、たった一冊の「キリスト」の伝記の本を通して、私は神様にお会いして聖霊の力に触れたのです。
はじめに申し上げましたように、すべて聖霊による導きだったと、それに尽きると思います。
それから数年後、神様の不思議な導きによって近所の教会に行くようになり、その一年後には洗礼を受けることが出来ました。
救われた時から、もう、かなり年月を経ていますが、その時のことは今でも鮮明に覚えていますし、思い出すたびに、胸が熱くなります。
そのような、イエス・キリストの素晴らしい救いを、一人でも多くの人に体験していただきたい、そんな風に祈りながら、日々、主と共に歩み、わずかでも働きを担わせていだたいている恵みや喜びや平安にひたすら感謝するばかりです。
本日、こんな風に証をしながらも、過去の救いのこと、初めて神様とお会いした時のことを思い起こすことが出来、このことも感謝です。
主イエスを信じるだけで救われるのは、本当に神様の恵みです。
ですから、この点について、私たちは正しく理解して、ますますイエス・キリストの御名だけに救いがあることを強調していきたいと思います。
また、今は世の終わりです。
普通に聖書を読み、時代を正しく見分けるなら、これから背教が更に進み、反キリストが擁立して、真に御言葉につくクリスチャンが迫害されるという、かつてもなく今後も無いような苦難の時に入っていきます。
しかし、その前か、もしくはその時代と併行して異邦人にも救いのことが伝えられることについて聖書に書かれています。
当レムナントキリスト教会では3月に起きた地震、津波、原発のことを通して、これからはクリスチャンだけでなく、神様を知らない人たちに向けても警告をしていくことについて神様からそのようなメッセージをいただいています。
そのことが、いつ、実現するかは私たちには分かりません。
しかし、異邦人向けの伝道が始まったときには、31節で言われていること、まず、このことをハッキリと言っていきたいと思います。
そして、次の段階として、神の愛だけではなく、信仰を持って歩むこと、悔い改めて御心を行っていくことの大切さ、やがて来る審判等についても、きっちりと話していきたいと思います。
いわば、天の御国への条件をハッキリと打ち出していきたいと思います。
また、すべての働きには、神様の時と方法がありますので、そのことを尊重して神様がGOサインを出したときには、その声に私たち神の働き人は正しく応答して多くの義の実を結ばせていきたいと思います。
レムナントキリスト教会
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