聖書箇所 使徒の働き22:13

 

22:13 私のところに来て、そばに立ち、『兄弟サウロ。見えるようになりなさい。』と言いました。すると、そのとき、私はその人が見えるようになりました。

 

本日も御言葉に沿ってみていきたいと思います。

 

その前を読むと・・・パウロはユダヤ人に訴えられて千人隊長にとらえられて事の成り行きを弁明する機会が与えられました。

その証の中でパウロは自分の目が見えたことについて話をしている箇所があります。

また、目が見えたことについて書かれている御言葉を見てみたいと思います。

参照 使徒9:18

9:18 するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。

「目からうろこが落ちた」とは啓示が開かれたことを言います。

 

 

本日は「霊的に見える」というテーマに沿って話をしたいと思います。

 

私たちクリスチャンは一にも二にも啓示が開かれることにポイントがあります。

クリスチャンにとって霊的な事柄は信仰の歩みをしていく上で不可欠なものです。

確かに肉体の体は持っています。

また、実際に肉体にも目があって視覚を通して色々な情報を得ていることも事実です。

でも、信仰生活はどこまでいっても霊的な事柄が関係していきます。

そしてこのことこそ最も大切なことであります。

なぜかと言うと霊的にきちんと見えるかどうかによって歩みや受ける祝福や恵み、また、大げさな言い方ではありますが死後の行き先も異なっていくからです。

 

最近礼拝の中で知識として知るのではなく霊において理解してくださいというメッセージを聞きました。

そのことに対して私自身、「なるほどーっ」とうなずくものがありました。

いくら良い知識や教理を得ていても、それを人間的な頭や能力で理解するなら真の意味合いでの理解に至らないのでは?と、思いました。

 

聖餐式のことを例に挙げてみましょう。

私たちクリスチャンは礼拝ごとに主の聖餐の式にあずかります。

その際に、自分たちが犯した罪や咎や汚れや過ちを主の前に告白し、きよめられて赦されて贖われていかれます。

聖餐式、いわば、パンとぶどう酒をいただくこと、これは、礼拝の時に行われる儀式でありますが、単なる型とも言えます。

すなわち、教会の礼拝の中で行うだけでなく、私たちは度々、あるいは瞬時においても聖餐を受けることにポイントがあるのです。

罪や咎や過ちをいつも主の前に告白して赦されることは大切なことですが、本来の意味合いの聖餐とは絶えずキリストの霊と御言葉に触れていることだと私は思います。

分かりやすく言うなら、聖霊の力を祈り求めて御言葉を堅く守ることです。

うまく言えませんが霊において理解するとは、このようなことを言われているのではないか?と、思います。

 

「見えるようになりなさい」とサウロは言われ、見えるようになったとは、「啓示が開かれた」ということです。

つまり霊において理解するとか霊的に見えるとは「啓示が開かれる」ことです。

 

そして、啓示が開かれることはとても大切なことです。

そのことについて具体的にみていきたいと思います。

このことに関して優しい言葉を用いるなら「たとえの意味合いを知ること、御言葉の奥義に通じる」ことです。

なぜ、そんなに大事なのか?と言いますと・・・

譬えの意味合いや御言葉の奥義を知らないと、とんでも無い方向を歩んでしまうからです。

たとえば、クリスチャンは艱難を通ると御言葉は言っています。

にも、かかわらず、キリスト教界では艱難は通らない、その前に天に挙げられると教えています。

これは天と地との差です。

しかし御言葉が言っていることがどこまでも正しいのです。

「かつてもなく今後も無いようなひどい苦難の時が来る」と、聖書ではハッキリと言っています。

もし、艱難の前に天に挙げられることを鵜呑みにしてしまうなら誰一人として備える人はいないのではないでしょうか。

しかし艱難時代を通ることが分かっているのならそれに向けて一生懸命備えますよね。

ですから、聖書を正しく読み取っていくか否かによって歩みが大きく左右されることが理解できるかと思います。

ちなみに、たとえの解釈に関して、例を挙げてみたいと思います。

黙示録に書かれている獣の刻印「666」の意味合いについて何を語っているのかご一緒に考えてみましょう。

獣のしるしをつけていない人は売り買いが出来ないと聖書には書かれていて、それをそのまま文字通りにとらえて、やれ、食品や必需品が買うことが出来ない、それじゃぁ、しるしを受けていない人はどうやって生きていくの?餓死してしまうじゃない?と、そんな風にしかとらえないのなら霊的に正しく理解しているとは言えないのです。

このことも礼拝やHPのメッセージの中で学んだことですが、売り買いとはキリスト教用語で贖いを指します。

救いに関する働き、つまり獣のしるしをつけていない人は伝道が出来ないことを言われているのです。

また、額に獣のしるしをつけるとは、「666」と文字が実際に目に見えるように額に刻まれるのではなく、獣の霊を受けることに通じる事柄です。

具体的には獣の教え、もっと言うなら、アメリカ由来の嘘・偽りの教理、すなわち聖書とは反対の教えを受け入れることを指します。

 

そうは言っても、たとえの意味合いを理解することに抵抗を覚える方もおられるかと思います。

そういった方にぜひ知っていただきたいことがあります。

第Ⅱペテロ(1:20,21)に「それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。」とあります。

ここでも、単に文字通りに理解することはおすすめしていないことが分かります。

もちろん、そのまま読んで理解するところもありますが・・・

しかし、実は聖書の御言葉の大半はたとえで書かれていることを理解してください。

私的解釈を施してはならないとは「その箇所のみでの解釈をしてはいけない、他の箇所も参照して理解しなさい」ということです。

それに続くかのようにこのように書かれています。

「なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」

聖書は聖霊によって書かれていることについて言われています。

ですから、私たちは聖霊によって聖書を理解する必要があります。

この御言葉からも、文字通りだけで理解するのではなく、隠された意味合いを知るということにポイントがあることについて理解できるのではないかと思います。

また、啓示を理解することは堅い食物をいただくことに通じることです。

それによって神様からの知恵や知識に精通して実際に御心に叶った歩みや働きに入っていくようになります。

 

では、具体的に啓示が開かれるためには、どうしたらいいのか?についてみていきたいと思います。

このことも礼拝や弟子の学びの中で言われていることですが、祈りと御言葉に徹していくことです。

祈りといっても、一日5分、10分ではダメです。

ゲッセマネの園でイエス様がペテロたちに「1時間も起きて祈っていられないのか?」と言われたように最低1時間はお祈りすることをおすすめします。

しかし、あくまでも、これは、最低限のラインであることを理解してください。

また、御言葉の読み込みに関しても一日に1節や2節ではダメです。

年に3,4回の通読を目安に日々、御言葉を読んでいくことをおすすめします。

聖書には反芻することの大切さについて書かれています。

御言葉を何度も何度も繰り返し読んでいく中で神様が私たちに語ってくださるようになり、神様の語りかけを少しずつ聞いていくようになっていきます。

そうすることによって、おのずと聖書的な思考パターンに変えられていくようになっていかれます。

そして起きてくる一つ一つの事柄に関して霊的に見えるようになっていきます。

また、Ⅰコリントの手紙を通して奥義を知るかそうでないかによって神の前に区分されてしまうことを知りました。

このことは、とても厳粛なことです。

なぜかというと、奥義を理解しなかったパリサイ人や群集がイエス・キリストを殺して裁かれてしまったように、世の終わりも同じことが再現するからです。

つまり、新約の時代の終わりにも再度イエス・キリスト殺し、つまり御言葉の冒涜が起こり、奥義を悟らない人たちによって正しく御言葉につくクリスチャンが迫害されたり殉教に追い込まれたりするというとんでもないことが起きてくるのです。

しかし、残念ながらこのようなことに加担した人たちはクリスチャンと名が付いていても裁かれてしまうのでくれぐれも気をつけていきたいと思います。

ですから、啓示を見ること、悟ることに関して、ぜひ、今からきちんと訓練していきたいと思います。

ぜひ、こういったポイントについてみていっていただきたいと思います。

 

弟子として歩み、日々の訓練を積み重ねていく中で及ばずながら主が召してくださった働きに携われるようになりました。

私は今から約3年前に弟子の歩みをスタートしました。

エレミヤ牧師から祈りの時間と聖書通読のことを言われたときには正直驚きました。

以前の教会で平日のお祈り会で毎日2時間くらいは祈っていましたが個人的に、しかも自宅である程度の時間を毎日祈るという習慣はありませんでした。

聖書も毎日読んでいましたが一年に1回の通読のペースでした。

しかも文字通りの解釈しかしませんでしたので、何を語っているのかについて、ほとんど理解していませんでした。

また、祈ると言っても自分のことが主体で教会の働きのことで祈りの時間を割いたことは、ほとんどありませんでした。

でも、エレミヤ牧師に言われた通りに実践していく中で、わずかではありますが、神様の語りかけや声を聞くようになっていきました。

分からないことが沢山あっても、1つ1つのことを祈りや御言葉を通して少しずつ神様が教えてくださるようになりました。

また、エレミヤの部屋のホームページや御言葉を通して、たとえの意味合い、つまり啓示は弟子にしか開かれないということを知り、これは何が何でも弟子として歩みをしていかなければと思って一歩踏み出せたことは、とても感謝でした。

そして実際に神様の色々な方法でほんのわずかであっても真理を見させていただけるようになりました。

このことは、とても感謝なことですし、これからも、主の弟子として歩み、更に啓示を祈り求めていきたいと思います。