聖書箇所 使徒の働き25:19

 

25:19 ただ、彼と言い争っている点は、彼ら自身の宗教に関することであり、また、死んでしまったイエスという者のことで、そのイエスが生きているとパウロは主張しているのでした。

 

本日も御言葉に沿ってみていきたいと思います。

 

使徒の働きの後半をずっと読んでいくと分かることですがパウロは度々議会に引き渡されたり、とらえられたりしています。

本日の箇所も拘置されている中で裁判にかけられているのですが危うくユダヤ人たちに途中で殺害されるところでした。

ユダヤ人とパウロ、今更あえて言うまでもありませんが両方ともクリスチャンです。

「彼ら自身の宗教に関することであり・・・」を読むと、それは一目瞭然ですよね。

聖書のことに関する論争ですので神様を知らない未信者とのことではありません。

そして、上記御言葉は2つのタイプのクリスチャンを顕著にあらわした箇所ではないかと思います。

片方はパウロのように正しく御言葉につくゆえに迫害されるクリスチャン、もう片方は正しいクリスチャンを議会に引渡し重い罪状を申し立て死罪へと引き渡そうとするクリスチャンです。

私たちがクリスチャンというと、皆、同じであると考えると思いますが、それは誤りです。

むろん平素の時にはその差はほとんど感じません。

でも、それは、現時点で、とりたてて何かが起こっていないので、そのように思うだけです。

しかし、そうではあっても、たとえ、事が起ころうと起こるまいと、神様の前には御言葉につく正しいクリスチャン、もしくは御言葉に背いているクリスチャンとに二分されています。

どちらが正しいのか?当然、御言葉につくクリスチャンに決まっていますよね?

しかし、パウロの時代、神様の目にはともかく多くのユダヤ人にとって「イエスが生きている」と主張することは異端、カルト呼ばわりされることでした。

このことを、どう思われますか?

ワーシップソングに「主は今生きておられる」という有名な歌があります。

私が以前所属していた教会でも、今行っているレムナントキリスト教会でも、当たり前のようにこの歌を賛美しています。

しかし、もし、このパウロの時代にこの歌を賛美していたらどうなってしまうでしょうか?

恐らくパウロと同じ扱いを受けてしまうと思います。

同胞であるクリスチャンからカルトとか異端と呼ばれ、そのような扱いを受けてしまいます。

パウロは「イエスは生きている」と、ごく当たり前のことを主張したに過ぎませんでした。

聖書に書かれていないことならともかく、聖書に書かれているありのままを話したのです。

にも、拘わらず、このことは多くのユダヤ人に受け入れられませんでした。

なぜ、そんな風になってしまったのでしょうか。

それは、パウロの時代が悪く、神の民が背信の道を歩んでいてどうしようもないほどに堕落していたからなのです。

聖書を読みながらも背信の道を歩んでいたために正しく聖書を理解出来なかったのです。

それゆえにどこまでも御言葉に基づいて論じているパウロが彼らにとっては、こっけいに見えてしまったのです。

ここに書かれている「宗教に関すること」とは聖書の御言葉の解釈のことを言われているのではないかと思います。

そしてパウロのすごいところはあらゆる議会や裁判に引き渡されて多くの人々から反対されたり迫害されたり罵倒されながらも、決して引かずにどこまでも御言葉に沿って弁明していることです。

人間的に考えると裁判にかけられることは全く嬉しいことでも喜ばしいことでもありません。

でもパウロは、そういった状況に落胆することなく、むしろ証をしたり人々を説得したりする良い機会と、とらえているのです。

こういった態度は私たちが模範とすべきものでもあります。

 

さて、何を申し上げたいのかと言うと、新約の終わりを生きている私たちの時代にも、いずれこのような時が来るので備えていく必要があるということです。

すべてのクリスチャンにとって再臨はハッピーだし艱難時代が来る前に携挙されるから何を備える必要があるのか?と、思うかも知れません。

しかし今までのメッセージでも書かせていただきましたように、そんなことは聖書のどこを探しても見当たりません。

もし、万が一、そのようなことを盲信されておられるのでしたら今一度聖書の隅々まで読まれることをおすすめいたします。

それでも納得がいかなのでしたら、エレミヤの部屋のホームページのメッセージを読まれたり音声礼拝 (別途申し込みが必要です)や音声黙示録セミナー(どなたでもアクセス可能です)のメッセージを視聴されたりすることをおすすめいたします。

話は少しそれましたが、正しく御言葉につくクリスチャンはいずれパウロのように背信のクリスチャンから迫害されたり訴えられたり捕らえられたりすることを想定して歩んでいく必要があります。

先ほども話しましたように今は、そのようなことはありません。

しかし、そう遠くない将来にこのことは実現していきます。

キリスト教は既に背教に入りつつありますが、これから更に背教が進んでいくと不法の人、反キリストが擁立して、かつてないような今後もないようなひどい苦難の時に入っていきます。

キリスト教が背教している?そんな馬鹿な?とおっしゃるかも知れません。

でも、艱難前・中・携挙説やクリスチャンと名が付けば裁かれないとか進化論は正しいという聖書に書かれていない教理を背教と言わずに何と言うのでしょうか?

その不信のゆえに、神の赦しによって獣の国が起こされ、反キリストが現れるのです。

ちなみに、かつてないような今後もないようなひどい苦難の時のことについてとは聖書に書かれていることです。

その時に、この時のパウロのような事態が起きてくるのです。

聖書から、ごく普通に論じる人を悪い意味合いで原理主義者呼ばわりしたり難癖をつけたりして訴訟沙汰、死罪へと持ち込んでいく日が来るのです。

こんな御言葉を聞いたことはありませんか?

「兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に立ち逆らって、彼らを死なせます。」という御言葉があります。

兄弟とは、兄弟姉妹の兄弟、ですから当然クリスチャンです。

父とは霊的な父である牧師や神父を指します。

子とは信者のことです。

クリスチャンがクリスチャンを死に渡す日がくるのです。

分かりやすく言うと、背信の道を歩んでいるクリスチャンが御心を行うクリスチャンを死罪に引き渡すということです。

悲しいことかも知れませんが聖書がこのように言っている以上、そうなのです。

そしてポイントは死罪に引き渡す立場には決して回ってはいけません。

その時には、迫害される側にいるのが正しいのです。

もし、イエス様やパウロのように正しいクリスチャンを死罪に引き渡すなら死後、裁かれてしまいます。

ちなみにユダはイエス様を引き渡しました。

その結果、彼は天の御国を受け継ぐことは出来ませんでした。

セカンドチャンスを唱える方に言わせるとユダは天国へ行ったということですが、それは無いと思います。

そもそもセカンドチャンスは聖書に書かれていないことですし、ユダはイエス様を訴えるのが正しいと思って銀貨30枚を受け取って祭司長や律法学者に引き渡したのです。

イエス様を裏切ったのですから明らかに裁きに入ったと考えるのが正しいのではないでしょうか。

旧約時代の終わりにペテロやヨハネやパウロのようにイエス様を救い主と正しく認めた人とそうでない人とに、二分されたように、新約時代の終わりには、再臨をはじめとするあらゆる御言葉の教理に関しての論争が起きてくると思います。

霊的に正しく物事を見るなら、もう、すでにおかしな教理にキリスト教界は覆われつつあり、クリスチャンであっても裁かれるとか艱難前携挙説やエキメニュカルに異を唱えることについて言いづらい時代に入っています。

反対に、そういったことを言う人のことをこの時のパウロのようにカルト扱いをしたり異端呼ばわりしたりする兆候があります。

先日、礼拝で学んだのですが、アメリカでは503C教会法というのがあり、キリストのみに救いがあることを公言する人は迫害され、そういうことを言わない教会は税の優遇がなされると聞いています。

しかし、その行き着く先は滅びです。

ですから、多くの人たちが聖書と反対のことを言ったりしたりしても同調してはいけないのです。

もし、そういう人たちに合わせるなら、この世においては苦難を免れても後の世における永遠の刑罰、すなわち「火の池」に直行してしまうことを御理解ください。

永遠ですよ、永遠・・・1分、いや1秒でも大変なことです。

ぜひ、このことに恐れをもってください。

 

本日の要点をまとめます。

これから御言葉に正しくつくクリスチャンは迫害されていきます。

艱難時代に入ると、最悪、訴訟沙汰や死罪に引き渡されるかも知れません。

しかし、このことに恐れを持つ必要はありません。

聖書では前もって預言していることですし艱難時代といっても3年半です。

また、万一、そのような事態になったとしても今からきちんと備えていくなら主に守られます。

ただし、備えはきちんとしなければいけません。

今までも申し上げたように主の弟子として歩み働きを担っていくことです。

また、自称「弟子」とならないように、日々、必要な訓練をしていかなければいけません。

祈り、聖書通読をはじめ主が言われていることは、すべてきちんとこなしていく必要があります。

今からきちんと備えるなら間に合います。

そのためには、主から声がかかったときにはすぐに応答していくことにポイントがあります。

聖書では「時」ということが強調されています。

笑うに時があり、泣くに時があり、失うに時があり・・・と。

ですから「主の声に従う時」というのも当然あるわけです。

ただ、主の声に従う時については、「即答」が要求されることを覚えていてください。

なぜかというと、ペテロやヨハネやヤコブをはじめとする12弟子や使徒パウロは、声がかかってから時を移さずにすぐに従ったからです。

従うかどうかについては、御心を感じましたら、あまり時間をかけずに、すぐに決断されることをおすすめいたします。

参考までですが、こういう御言葉があります。

参照 ルカ9:57-62

9:57 さて、彼らが道を進んで行くと、ある人がイエスに言った。「私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行きます。」

9:58 すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」

9:59 イエスは別の人に、こう言われた。「わたしについて来なさい。」しかしその人は言った。「まず行って、私の父を葬ることを許してください。」

9:60 すると彼に言われた。「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」

9:61 別の人はこう言った。「主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。」

9:62 するとイエスは彼に言われた。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」

何を言っているか分かりますか?

主の弟子になるということについて、それなりの自覚と覚悟が必要だということも覚えていてください。

主に従うゆえに、大切なものを次々と十字架につけていく、苦難も主と共にしていく、そういったことを承知の上でイエス様に従っていくということです。

シビアな言い方で恐縮ではありますが、もし、はじめからそのつもりが全くないのであれば、弟子の歩みは、しないほうがいいと思います。

弟子であってもポイントポイントにおいて揺り動かしやより分けは赦されますので、中途半端な思いで歩んでいくなら、いずれ主によって必ずふるわれてしまいますので・・・

しかし、もし、真に主に従っていくまっすぐで細くて狭い道を自らの意志で選び歩んでいくのなら、たとえ人間的には不利であったり理不尽な目に遭ったり損だったりしても、主からの不思議な守りや助けがあり、そればかりでなく、大いなる祝福や恵みに入っていきます。

本日の箇所について、このことはパウロに起こった大変なことで終わるのではなく、近未来に起こる出来事であることを正しくとらえていき、そのための備えをしていくことに大きなポイントがあります。

備えていくなら、どんな議論に持ち込まれようと、パウロのようにどこまでも聖書の御言葉に基づいて論破していかれるようになります。

繰り返すようですが、このことを信じて備えていく人に恵みがあり、この世において勝利を得たり神様の御業や栄光を拝したり、後の世においては大いなる栄冠を受けるに値することですので、ぜひ、おすすめいたします。

 

以前も証したかも知れませんが、2年以上前に夢の中で「艱難時代の備えをしなさい」という主から語りかけを受けて、その間、毎日ではありませんが、時々お祈りをしていました。

しかし、つい最近、毎日祈るようにとの語りかけを受けましたので、短い時間であっても毎日祈るようになりました。

祈りを開始した頃は多少の不安があったのですが、日々、積み重ねていくうちに、だんだんと心の内側が喜びや平安で満たされていくようになりました。

御言葉を守るなら神様が必ず守ってくださるということに確信を得ていかれるようになりました。

艱難時代にどんな風に守ってくださるかについて、今は想像がつきませんが、今までのように弟子として歩み、どんな御言葉でもきちんと守っていく中で不思議な守りや助けが与えられていくのではないかと思います。

黙示録の御言葉に「あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。」と書いてありますので、そのことを信じて、主の言われている一事のことにひたすら前に向かって励んでいかれたらなぁと、本日こんな風に執筆させていただきながらも改めてそのような思いにさせていただき感謝でした。