聖書箇所 使徒の働き25:7

 

25:7 パウロが出て来ると、エルサレムから下って来たユダヤ人たちは、彼を取り囲んで立ち、多くの重い罪状を申し立てたが、それを証拠立てることはできなかった。

 

本日も御言葉に沿ってみていきたいと思います。

 

この箇所はフェストの裁判の中で起きたことです。

パウロの身の上に起きている事柄は艱難時代の光景であり、新約の終わりの予表とも言えます。

「クリスチャンは携挙されるから艱難時代なんて私には関係ない」と言われる方もおられると思いますが、今まで何度も繰り返し話をさせていただきましたように、御言葉は、私たちクリスチャンが艱難時代を経ることについて書かれています。

「かつてもないような今後もないようなひどい苦難の時がある」とイエス様御自身がおっしゃっていますし、これは間違いなく、艱難時代を指すと思われます。

ですから、そのような視点に立ってこの文章をお読みいただけると幸いです。

ちなみに艱難時代は、この時のパウロと同様に、正しい人が囚人、罪人扱いされる時であるということを理解してください。

正しく御言葉に従うゆえに、苦難に遭うのです。

世の中は、罪を犯した人、たとえば、殺人者、窃盗者、つまり、悪いことをした人が逮捕され、牢に入れられます。

もちろん、この原則は昔も今も、未来も変わることはありません。

しかし、キリスト教の信仰を持つ人々に関して、今までそうではなかったことがこれから起きてくるということを御理解ください。

どのように、そんな風に変わっていくのかについては、その時にならないと確かなことは分かりません。

ただ、アメリカではすでに503C教会法というのが法律で定められていて、御言葉にきちんと基づいてメッセージをする教会には税を課し、復活は無かった等と御言葉と反対のことを言う教会には税の優遇がなされるということです。

ですから、これからの時代、政治的なことがキリスト教において持ち出され、正しいクリスチャンを迫害したり排斥したりというような流れになっていくのではないかと思われます。

義と不義とが逆転していくので、正しく御心を行うクリスチャンにとって、苦難の時となるのです。

そうでないクリスチャンは艱難を通りません。

それどころか、クリスチャンと称していても、あるいは、教会の礼拝に行き、神様の働きを担っていたとしても、正しいクリスチャンを迫害する立場に回っていきます。

このことは、とても大切なことです。

どうか、こういったことに関して、御言葉を通して今から正しく認識されることをぜひおすすめします。

御言葉に「多くの思い罪状」とありますように、パウロは囚人として取り扱われてしまいました。

もちろん、パウロは何も悪いことをしていません。

それどころか、この道「命に至る狭い道」について、ひたすら解き明かしをしていたのです。

このことをどう思われますか?

素晴らしいメッセージを語っていたのになぜ?と、不思議に思われませんでしょうか?

たとえば、キリストは復活していなかったとか地獄は存在しないとか御言葉に書かれていないデタラメのことばかりを語っていたのなら、捕らえられたり、牢に入れられたりするのもやむを得ないと思います。

しかし、イエス様から蛇の子とかまむしの子とか偽善者と言われていた律法学者やパリサイ人や祭司たちは捕らえられることはなかったのです。

反対に、どこまでも御言葉に基づいて、正しく啓示を解き明かしていたパウロが囚人になってしまったのです。

イエス様の時もそうでした。

十字架にかけられるときに「ユダヤ人の王」と書かれた罪状書きが掲げられました。

聖書のどこかに「彼は罪人たちの中に数えられた」とありますように、神の御子であるイエス様が、私たちと違って生涯にわたって一度も罪を犯されなかったイエス様が、罪人として扱われたのです。

このことに語りかけがあります。

新約の終わりを生きる私たちにも、これから似たようなことが起きると考えるのが正しいのです。

イエス様を模範として歩んでいく人たちは、同じようなことを経験するということを想定して歩んでいく必要があります。

いきなり、殉教するということではないにしろ、良いことをしているにもかかわらず、報われず、そればかりか、同胞であるクリスチャン仲間から、異端だのカルトだのと言われるような日がやがて訪れるという風に考えていくのが正しいのではないかと思います。

また、艱難時代はそう、遠くない近未来に来ると思われます。

もちろん、平成××年△日□日とは申し上げられませんが、時代を正しく見るなら、少しずつ背教が起こりつつありますし、すでに多くのクリスチャンが御言葉を行わなくなってきていることから、それほどは遠い日ではないのでは?と、言えると思います。

そして、繰り返すようですが、正しく御言葉につくなら、艱難に遭うというポイントについては正しくとらえていていただきたいと思います。

具体的には、この時のパウロと同様、クリスチャンからの迫害、批難、中傷、カルト、訴訟沙汰、殉教が起きてきます。

だからと言っておびえる必要があるのか?と、言いますと、何も怖がることはないのです。

なぜかというと、聖書では、これらのことを、いずれも、軽い艱難と言っているからです。

 

参照 Ⅱコリント4:17

4:17 今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。

また、それに続いてこのように言われています。

参照 Ⅱコリント4:18

4:18 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

 

艱難時代の真の敵はサタンです。

サタンは事を大きく見せたり、思索感情を揺るがしたり、見えるものによって脅したり、弾圧をかけてきたりします。

しかし、敵の攻略にまんまと乗ってしまったり怯んだりしてしまったりすることのないように気をつけていきたいと思います。

艱難時代は3年半ですが、あたかも、それがずっと続くかのような錯覚に陥らせようと敵は懸命に働いてくると思います。

しかし、18節に「見えるものは一時的」と書かれているように、艱難時代と言いましても、「一時的」であるということをその時に思い出すようにしたいと思います。

反対に神様は永遠のお方です。

サタンはこの世の支配者ですが、この世はやがて過ぎ去ります。

それと同時にサタンは滅ぼされます。

ですから、目に見える一時的なことで反キリストを拝んだり、キリストの名を否んだり、信仰を捨ててしまったりするのは愚かなことであることを正しく理解しましょう。

この地上には限りがあります。

しかし、永遠には、終わりがありません。

パウロは牢に入れられたり鎖につながれたりして人間的には不利な状況に置かれていましたが、常に、変わることのない、永続する神様だけに焦点を当てていたのだと思います。

だからこそ、そのようなことも17節にあるように「今の時の軽い患難」という風に言われていたのではないかと思います。

その点について、ぜひ、今から正しく賢くとらえていきたいと思います。

 

さて、私たちが艱難時代に入った時に、この時のパウロのような毅然とした態度を取るにはどのようにしていったらよいのか、簡単にみていきたいと思います。

それは、霊的な訓練に励むことです。

 

参照 Ⅰテモテ4:8

4:8 肉体の鍛練もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。

 

地上に生きている間、健康に気遣うことも大切です。

お酒を飲まない、煙草を吸わない、夜更かしをしない、暴飲暴食を慎む、添加物は控える、適度に体を動かす等・・・

しかし、クリスチャンは霊的な健康に最も気をつけていかなければいけません。

先ほどのⅡコリントの御言葉にもありますように、肉体はこの地上だけのことです。

けれども、霊は永遠に生き続けるものだからです。

そのためには「今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔」を身に付けていきたいと思います。

ある時、礼拝のメッセージで教えられたことですが、キリスト教界は揺り動かしに弱いと学びました。

それと同じように私たち個々におけるクリスチャンが霊的にもろいなら、事が起きたときにあっという間にひっくり返されたり、倒されたりしてしまうのです。

もし、口先だけの表面的な信仰にとどまり続けるなら、苦難のときに、崩されてしまいますので、霊的な訓練に今から励んでいきたいと思います。

たとえば、動じない心になれるように祈り求めたり、御言葉を読み御心を行っていくことです。

 

このことに関連して少し証をさせていただきます。

最近、こんな夢を見ました。

同じ使徒の働きの中に書かれているのですが、「積荷」の言葉に関しての語りかけを主から受けました。

すべての重荷を委ねていきなさい、肉体の弱い部分や思い煩いを私(イエス様)におろして、ひたすら霊の訓練に励んでいきなさいという語りかけでした。

もし、この夢が、本当に神様から来たものだとしたら、艱難時代はそう遠くない、だから、今から備えよと言われているのではないかと思いました。

今、成すべき訓練に徹して、歩みや働きをしていくことの大切さについて、語って下さったように思いました。

 

最後に、霊的な訓練について、具体的に何をしたら良いのかについて話をしたいと思います。

実は、とても、単純なことです。

こんなことを申し上げたら怒られるかも知れませんが、小学生以上でしたら、信仰を持っていれば、子どもでも出来ることです。

いつも申し上げているように、祈りと御言葉のことに専念することです。

「何を祈るの?一体どうしたらいいか分からない!」という方におすすめしたいことがあります。

まず、御言葉を読んで、ご自身の内側を照らしてみてください。

私自身もそうですが、改善しなければいけない点を主が語ってくださり、そのためのお祈りに導いてくださいます。

あるいは、働きのためにどういう祈りが必要かということも御言葉から見出したりします。

祈りや御言葉を読むことを積んでいくことによって霊的な土台は嫌でも立てあげられていきます。

あらゆる問題をはじめ、試練や困難、そして、艱難時代にも対応していかれるようになります。

ぜひ、このことを機会に霊的な訓練に励んでいかれることをおすすめいたします。

そして、パウロのように、試練や困難に遭遇しても、艱難時代を正しく経て、後の日において主からの誉れを受けていきたいと思います。