聖書箇所 使徒の働き28:25,26
28:25 こうして、彼らは、お互いの意見が一致せずに帰りかけたので、パウロは一言、次のように言った。「聖霊が預言者イザヤを通してあなたがたの先祖に語られたことは、まさにそのとおりでした。
28:26 『この民のところに行って、告げよ。あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。
本日も御言葉に沿ってみていきたいと思います。
「真理を悟る」というテーマで語っていきたいと思います。
ちなみに、この26節はイザヤ書で引用されているとても有名な御言葉です。
参照 イザヤ書6:9
6:9 すると仰せられた。「行って、この民に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』
その前の同章23節を読んで分かるように、パウロはどこまでも御言葉に沿って語りました。
参照 使徒の働き28:23,24
28:23 そこで、彼らは日を定めて、さらに大ぜいでパウロの宿にやって来た。彼は朝から晩まで語り続けた。神の国のことをあかしし、また、モーセの律法と預言者たちの書によって、イエスのことについて彼らを説得しようとした。
28:24 ある人々は彼の語る事を信じたが、ある人々は信じようとしなかった。
そして、24節に書かれているように、そのパウロの話を聞いた人でも、信じた人と信じようとしない人とに分かれました。
26節に戻ります。
「あなたがたは確かに聞きはするが~」とあるように、耳ではちゃんと聞いている、しかし、聞くんだけれども、「決して悟らない」ということに語りかけを感じます。
ちなみに、主がこのように、「決して悟らない」と言われている以上、そうなのでしょうし、このことは実現していくのでしょう。
つまり、聞くことは聞くことで、それはそれで、ひとつのことだけれども、理解をして、悟りを得ることは別のことだということが分かります。
この悟らない人とは、誰のこと?を言われているのでしょうか?
24節にヒントがあります。
それはパウロのメッセージを聞いても信じようとしなかった人のことを言われているのです。
信じようとしないことについて、1つだけ、こんな例を挙げます。
良い例かどうかは、分かりませんが、高校の中間テストの前に先生が「今度の試験は5ページから10ページの範囲から出題しますので、そこをよく勉強しておいてください」と生徒に言いました。
ある生徒は先生が言われたことを素直に聞き入れてきちんと勉強して、合格点を取ります。
しかし、一方では、「先生、あんなこと言ったけど、あの先生が言うことは信用しないほうがいいよ。どうせあの範囲からは問題は出ないんだから、勉強しなくても大丈夫さ」と、きちんと聞き入れないなら、0点、もしくは赤点しか取れず、補習を受けたり、最悪、留年したりすることになります。
そのことと比較して良いか分かりませんが、聖書の御言葉も、それと似たような部分があるのでは?と、思います。
つまり、御言葉をいくら耳で聞いても、信じない人は御言葉の意味合いをいつまでも悟ることは出来ないのではないでしょうか。
真理を悟らない、御言葉を信じないというのは、実は、とても恐ろしいことなんです。
なぜかと言うと、それは、聖霊に逆らっていることだからです。
聖霊に逆らうとは、正しい教えに反対したり、批難したりすること、つまり、背教のことを指しています。
そして、聖霊に逆らうと、究極、間違えて、正しい人を殺してしまうのです。
「そんな馬鹿な!」と、思われるかも知れませんが、御言葉には、「兄弟が兄弟を訴えて死に至らせる」とあって、艱難時代や苦難や試練の時に、正しく御言葉につくクリスチャンを間違えて死罪に引き渡してしまう可能性があるのです。
御言葉に逆らっているにも拘わらず、どこまでも自分は正しい、間違いが無い、おかしいのは、聖書に基づいている人たちという、わけの分からない結論になって、的外れなことに及んでしまうのです。
また、本日の御言葉の箇所はパウロやイザヤの時代だけに終わるのではなく、新約の世の終わりを生きるクリスチャンにも再現していると思います。
たとえば、聖書では艱難のために備えろと言っているのに、キリスト教界のムーブメントに乗せられて艱難前に挙げられるから備えなんて必要無い、そんなことを唱える人たちはカルトだ!と、いうようなことです。
これでは、さっきの例で話をしたように、先生がわざわざ親切にも出題箇所を教えてくださっているにも拘わらず、それを退けて、準備をしないで落第してしまった生徒と変わりが無いと言えるのではないでしょうか。
いくら御言葉を読んだり、メッセージを聞いたりしても、そのことを悟らないなら、信じないなら、御言葉に書かれていることと、全く違う方向に歩むことになってしまうのです。
クリスチャンと称していても、もし、御言葉に則して歩みをしないのなら・・・御言葉に則さないというのは、御言葉を退けていることになるので・・・もし、地上で御言葉であるキリストを退けているのなら、死後、主の御顔から永遠に退けられてしまう可能性があるので気をつけていきたいと思います。
この世で落第しても、ある程度のやり直しがききますが、しかし、死んでからでは、こと、信仰においては、もう、二度とやり直しがきかないので気をつけていきたいと思います。
でも、信じるなら、真理を悟ります。
24節に書かれているように、パウロが語ることを信じた人がいたように、御言葉を聞いて信じるなら、御言葉が生きて働き、その人にとって現実のものになっていきます。
このことに関連して証をさせていただきます。
最近、学んだことがあります。
それは、ヨハネの福音書6章の28,29節です。
そこには、このようなことが書かれています。
6:28 すると彼らはイエスに言った。「私たちは、神のわざを行うために、何をすべきでしょうか。」
6:29 イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」
神のわざを行うためには、神が遣わした者を信じること、そのことを学びました。
皆さんにとっては、「当たり前じゃない、何を今更、そんなこと、分かっている」と、おっしゃるかも知れません。
でも、私にとって、この御言葉が心に落ちてきたのは、ごくごく最近のことでした。
神が遣わした者、すなわち、イエス様を信じること、もっと言うなら、すべての御言葉を信じることが、神の業であり、神の前に立派な行いであることを改めて理解しました。
その矢先に、ある人がこのようなことを言っていました。
「知り合いのDさんが、体調を崩している、目は網膜はく離の一歩手前だし、風邪を引いてしまって、大変だ」と。
私とDさんとは全く面識はありませんが、その方のために、祈りました。
ちなみに、Dさんは、神様を知らない未信者の方です。
神様がDさんを癒してくだいますように、神様が癒してくださることを信じますと、たった一言祈りました。
すると、どうでしょう?!
翌日、随分良くなったということを人づてに聞くことが出来ました。
御言葉に「それは人には出来ないことです、しかし、神にはどんなこともできます」とあって、そのことを、ただ、信じて祈っただけなのですが、主はDさんに見事に御業を現してくださいました。
自分をはじめ、人は時折、裏切りますが、御言葉は、決して裏切ることはないんだなぁと、改めて、教えられました。
聖書には、数々の御言葉が書かれていますが、信じなければ、損!と、そこまで、私は申し上げられます。
ですから、私たちは決して頑なにならずに、御言葉が語っていることを素直に聞いて受け入れていきたいと思います。
たとえ、どんな御言葉であっても、信じていきたいと思います。
信じていくことによって、真理を悟っていくからです。
箴言でも、悟りを得ることの大切さについて繰り返し語られています。
ある箇所では、悟りを「身内の者と呼べ」とまで書いてあります。
それほどに、悟りを得ることは、神の前に尊いことだと言えます。
ぜひ、真理を聞くだけでなく、悟りを得ていきたいと思います。
そして、悟ったのなら、主に祈り求めて御言葉を実践して多くの実を結ばせていきたいと思います。
レムナントキリスト教会
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