聖書箇所 出エジプト記10:4,5,1315

 

10:4 もし、あなたが、わたしの民を行かせることを拒むなら、見よ、わたしはあす、いなごをあなたの領土に送る。

10:5 いなごが地の面をおおい、地は見えなくなる。また、雹の害を免れて、あなたがたに残されているものを食い尽くし、野に生えているあなたがたの木をみな食い尽くす。

10:13 モーセはエジプトの地の上に杖を差し伸ばした。主は終日終夜その地の上に東風を吹かせた。朝になると東風がいなごの大群を運んで来た。

10:14 いなごの大群はエジプト全土を襲い、エジプト全域にとどまった。実におびただしく、こんないなごの大群は、前にもなかったし、このあとにもないであろう。

10:15 それらは全地の面をおおったので、地は暗くなった。それらは、地の草木も、雹を免れた木の実も、ことごとく食い尽くした。エジプト全土にわたって、緑色は木にも野の草にも少しも残らなかった。

 

「いなごの災い」というテーマで、みことばに沿って見ていきたいと思います。

 

以前から、ちょこちょこと「いなご」のことで教えを受け、学びをさせていただいていました。そして「いなごの災い」に関しては、特に土曜日の集会でエレミヤ牧師が語っていました。それでこのことは、今の終末の時代を生きるクリスチャンに大いに関係があり、また大事なことだと思いましたので、今回はそのことを紹介させていただきたいと思います。

 

以下、エレミヤ牧師によるメッセージです。

 

少しずつ順に見ていきましょう。

 

10:4 もし、あなたが、わたしの民を行かせることを拒むなら、見よ、わたしはあす、いなごをあなたの領土に送る。

 

終末は、「出エジプト」をするのが神の御心です。「出エジプト」とは、この世化した教会から出て行くことです。そしてそのことがポイントとなります。

 

そして実際にこのこと、「出エジプト」のことは実現していきます。なぜかと言うと、教会がこの世化していくからです。

 

「いなごをあなたの領土に送る」のことばに語りかけがあります。「いなご」は、稲や麦など、みどりのものを食べます。ゆえに、いなごによって教会の食べ物が無くなることを言われています。つまり教会へ行っても、この世の話を聞かされてしまうということです。

 

メッセンジャーが訳の分からないことに力を入れていくので、いくら教会に行っても、まともなメッセージが無くなっていきます。けれども大事なメッセージを聞くことが大事です。

 

次の節を見ましょう。

 

10:5 いなごが地の面をおおい、地は見えなくなる。また、雹の害を免れて、あなたがたに残されているものを食い尽くし、野に生えているあなたがたの木をみな食い尽くす。

 

今、話しましたように、「いなご」は、みことばに関する災いやみことばのききんのことを言っています。そして、世の終わりのひとつの特徴として、霊的な事柄があります。それは御使いレベルの惑わしのことです。それゆえにクリスチャンの常識では対抗できなくなります。ですので、神の臨在を求めて歩むことを確立させていくことにポイントがあります。このことはある意味、「箱舟」(神の臨在)を作ることに通じます。それを行わないと霊的な洪水に流されてしまうからです。けれども「箱舟」(神の臨在)を作るなら、イスラエル人のように例外的に悪霊から逃れることができます。

 

続いて見ていきたいと思います。

 

10:13 モーセはエジプトの地の上に杖を差し伸ばした。主は終日終夜その地の上に東風を吹かせた。朝になると東風がいなごの大群を運んで来た。

10:14 いなごの大群はエジプト全土を襲い、エジプト全域にとどまった。実におびただしく、こんないなごの大群は、前にもなかったし、このあとにもないであろう。

10:15 それらは全地の面をおおったので、地は暗くなった。それらは、地の草木も、雹を免れた木の実も、ことごとく食い尽くした。エジプト全土にわたって、緑色は木にも野の草にも少しも残らなかった。

 

15節の「それら」とは、その前の節の「いなご」のことを言われています。そして「ことごとく食い尽くした。」とありますように、いなごが全土を食い尽くす、ということを言っています。これはつまり、メッセージや教理があっても、しかし本質的なことがいなごに食い尽くされた、ということを言われております。一例を挙げるなら、艱難前携挙説が推進されていたり、クリスチャンが裁かれることについて語られていないこととかです。

 

そしてエジプト化した教会に留まるなら、(罪の)奴隷のままとなります。みことばの本質的なことが食べられてしまっているからです。ゆえにこの世化した教会と一線を画すことは非常に大事なことであります。

 

ちなみに「いなご」に関連する事柄が、黙示録やヨエル書にもありますので見てみたいと思います。

 

[聖書箇所]ヨハネの黙示録9:3,4

9:3 その煙の中から、いなごが地上に出て来た。彼らには、地のさそりの持つような力が与えられた。

9:4 そして彼らは、地の草やすべての青草や、すべての木には害を加えないで、ただ、額に神の印を押されていない人間にだけ害を加えるように言い渡された。

 

ここでも、いなごによって災いが下されることが書かれています。

 

[聖書箇所]ヨハネの黙示録9:7

9:7 そのいなごの形は、出陣の用意の整った馬に似ていた。頭に金の冠のようなものを着け、顔は人間の顔のようであった。

 

ここで、「いなご」の特徴について説明されています。「頭に金の冠のようなものを着け、」とあります。「金の冠」ということばですが、「金」は「信仰」に通じることばです。ですので、一見すごい信仰者のように見えます。しかし実際は悪霊のような働きをします。ちなみに「人間」は、「クリスチャン」を指すことが多いので、ゆえに「人間の顔のよう」とは、クリスチャンのように振舞うことを言われています。

 

さらに「いなご」の特徴が書かれていますので、引き続き見てみましょう。

 

[聖書箇所]ヨハネの黙示録9:8

9:8 また女の髪のような毛があり、歯は、ししの歯のようであった。

 

「女の髪の毛のような毛があり」とは、女性に権威が与えられたことを言われています。つまり軍隊のような組織をあらわします。「しし」は、Ⅰペテロの手紙に、「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」とありますように、「サタン」のことです。

 

[聖書箇所]ヨハネの黙示録9:9

9:9 また、鉄の胸当てのような胸当てを着け、その翼の音は、多くの馬に引かれた戦車が、戦いに馳せつけるときの響きのようであった。

 

「胸当て」とは、エペソ人への手紙6章18節で言われている「正義の胸当て」に通じます。そして神の正義を行うというふれこみで、そのじつ正しいクリスチャンを迫害します。ですから世の終わり、キリスト教会が狂暴になっていくということが理解できると思います。正しいクリスチャンを裁判に訴えたり、あるいは死刑等が起きてくるのではないかと思います。

 

また、ヨエル書にも「いなご」に関することが書かれていますので、よろしければ見ていきましょう。

 

[聖書箇所]ヨエル書1:2,3

1:2 長老たちよ。これを聞け。この地に住む者もみな、耳を貸せ。このようなことがあなたがたの時代に、また、あなたがたの先祖の時代にあったろうか。

1:3 これをあなたがたの子どもたちに伝え、子どもたちはその子どもたちに、その子どもたちは後の世代に伝えよ。

 

この箇所でも、これからいなごに噛みつかれるような大変な時代がキリスト教会にくる、ということを言われています。

 

[聖書箇所]ヨエル書1:4

1:4 かみつくいなごが残した物は、いなごが食い、いなごが残した物は、ばったが食い、ばったが残した物は、食い荒らすいなごが食った。

 

あらゆる正しいみことばが、いなごの災いの教理に食い荒らされる、ということを言われています。これはつまり、キリスト教会の根本的な教理が投げ捨てられる、ということを言っています。ペテロやヨハネのような土台石をはじめ、最後キリストまで投げ出される、ということです。そうです。あらゆるみことば、正しい教理が皆いなごによって食い荒らされて教会から失われていくのです。

 

[聖書箇所]ヨエル書1:5

1:5 酔っぱらいよ。目をさまして、泣け。すべてぶどう酒を飲む者よ。泣きわめけ。甘いぶどう酒があなたがたの口から断たれたからだ。

 

また、いなごは教理もそうですが、もう一面として聖霊の働きに災いをもたらします。つまり聖霊の働きも、皆いなごに食い荒らされるのです。

 

[聖書箇所]ヨエル書1:6

1:6 一つの国民がわたしの国に攻め上った。力強く、数えきれない国民だ。その歯は雄獅子の歯、それには雄獅子のきばがある。

 

「わたしの国」とは、「キリストの国」のことです。そして「わたしの国に攻め上った」とは、カトリックやプロテスタントが食い荒らされるという預言です。このことはこれから実現していくと思われます。また、「雄獅子のきば」とありますように、サタンの論理によってそれはなされていくのではないかと思います。

 

[聖書箇所]ヨエル書1:7

1:7 それはわたしのぶどうの木を荒れすたれさせ、わたしのいちじくの木を引き裂き、これをまる裸に引きむいて投げ倒し、その枝々を白くした。

 

このことばは、マタイの福音書24章の宮(教会)の崩壊のことを言われているのでは?と思います。宮である教会の教理が崩壊され、一つの石、すなわち使徒や預言者やキリストの教えがひとつも残されない、ということを言っていると思います。

 

[聖書箇所]ヨエル書1:810

1:8 若い時の夫のために、荒布をまとったおとめのように、泣き悲しめ。

1:9 穀物のささげ物と注ぎのぶどう酒は主の宮から断たれ、主に仕える祭司たちは喪に服する。

1:10 畑は荒らされ、地も喪に服する。これは穀物が荒らされ、新しいぶどう酒も干上がり、油もかれてしまうからだ。

 

「穀物」は、みことばのことを言われています。また、「新しいぶどう酒」とは、聖霊の働きのことを指します。そして、これらが無くなっていくということを言われています。

 

[聖書箇所]ヨエル書1:13

1:13 祭司たちよ。荒布をまとっていたみ悲しめ。祭壇に仕える者たちよ。泣きわめけ。神に仕える者たちよ。宮に行き、荒布をまとって夜を過ごせ。穀物のささげ物も注ぎのぶどう酒もあなたがたの神の宮から退けられたからだ。

 

世の終わりには、先ほども話しましたように、宮(教会)の崩壊が起きます。「神の宮」とは、「神の教会」のことです。ゆえに、「穀物のささげ物も注ぎのぶどう酒もあなたがたの神の宮から退けられたからだ。」のことばを通して、正しいメッセージは公の教会から無くなるということをここでも言われています。具体的には、獣の国の強圧の下、正しいメッセージは排除され、その結果神の怒りは凄まじくなります。ゆえに私たちはこのことを見越して歩みや働きをしなければいけないのです。

 

 

以上のことをエレミヤ牧師がメッセージされていたのですが、「いなごの災い」について多少なりともご理解いただけましたでしょうか?最近、度々語っていますように、公の教会においては、こういった「いなごの災い」が少しずつ入りつつあるように私個人も思っています。じかに目撃したわけではありませんが、日本のキリスト教会の中にも同性愛者が働き人として用いられていたり、そこまでに至らなくとも、しかし同性愛者を容認する方向へ行きつつある、ということを耳にしています。こういうことも、まさしく「いなごの災い」の一部なのでは?と思うのですが、いかがでしょうか?余計なお世話かも知れませんが、万が一にもこういったことにお心当たりがありましたら、ご一考されることをおすすめいたします。そしてここしばらく繰り返し語っていますように、仮庵の祭り(地下教会)をぜひ、おすすめいたします。よろしければこのようなこともご理解いただけると幸いに思います。