聖書箇所 創世記1:1,2
1:1 初めに、神が天と地を創造した。
1:2 地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。
メッセージの前に・・・
今回から旧約聖書に入ります。ちなみにマラキ書までは929章ありますので、もし最後までお話させていただけるとしたら、約18年かかります。私の寿命がいつまでか?なんてことは神さましか知らないことですが、神さまのお許しの時までは細々ながらも継続させていただけたらと、願っています。よろしければ・・・これからもよろしくお願いします。
「人々を暗やみから光へと導かれる神」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。
今さらあえて申し上げるほどのことではありませんが、冒頭のみことばは、聖書の始まりの箇所です。せっかくですので、ひとつずつ見ます。
1:1 初めに、神が天と地を創造した。
このことばは文字通り、神さまが「天」と「地」を創造されたということについて言われていますが、第二義的な意味合い、すなわちたとえとしての意味合いを見るなら「天」とか「地」は、「教会」のことをも言われています。また、天地万物を創造された神さまは、イエス・キリストでもあります。さらに掘り下げて言うなら、「教会」は「イエス・キリストのからだ」とも言われています。そして「イエス・キリストのからだ」である「教会」を建てたのは、あるいは建てていくのは、神、つまりイエス・キリストだということを上記みことばは言われているのです。たしかに実際の建物としての「教会」は人を通して作られます。でも、教会の中身、そう、教理や霊的な事柄について建て上げてくださるのは、神さまご自身(イエス・キリスト)なのです。そして「教会」とは何のためにあるのか?その目的とは何か?つまり「教会」(イエス・キリストのからだ)の役割とはどういうものなのか?について、次節のみことばがヒントとなります。
1:2 地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。
ここで「やみ」ということばが出てきます。ちなみに「大いなる水の上にあり」のところは、KJV訳だと「深い水の表面にあった」とあります。そしてその上を「神の霊」は動いていたと言われています。ここで分かるのは、「神さま」と「やみ」とが関係がある、ということですよね?しかし、「神さま」と「やみ」が何の関係があるのか?が、この箇所だけでは今ひとつ分かりませんので、他の箇所も参照してみたいと思います。
参照 Ⅰ列王記8:12
8:12 そのとき、ソロモンは言った。「主は、暗やみの中に住む、と仰せられました。
ここに「暗やみ」ということばが出てきます。これは先ほどの「やみ」と同じことを言われています。そして、「主は、暗やみの中に住む」ということが言われています。これはまさに先ほどの「やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた」のことばと符号するのでは?と思います。あっ、それから言い忘れましたが、「やみ」のところは、KJV訳だと“darkness”とあります。“dark”をそのまま訳すと、「暗い」の他に、「秘密の」「隠れた」「邪悪な」「陰気な」という意味があります。聖書的には、「邪悪な」とか「陰気な」という意味合いで使われているのでは?と私個人は思います。なので、あまり良い意味合いではありませんよね?また、これらのことばは、「罪」に関するのでは?と思います。ちなみに「暗い」(やみ)の反対語は「明るい」ということばですが、それは「光」ということばに通じるのでは?と思います。また、「光」に関しては、「わたしは、世の光です」とイエスさまは言われました。そう、たしかに主なるイエスさまは「光」のお方なのですが、しかし神さまは「暗やみの中」、すなわち「邪悪」とか「陰気」とか言われるところ、いわば「罪」のあるところに神さまはお住まいになるということを、このみことばでも言われているのです。そしてこのことばは、私個人としては非常に暗示的なことばだなぁと思います。この時点では、聖書において「罪」ということばは出てきていませんよね?それどころか、人も造られていない時ですよね?でも、初めであり、終わりである神さまは後に登場する人物、いわば私たちの先祖であるアダムとエバが「罪」を犯すことを見越して、というより、そのことをはじめからご存知だったので、前もってこういうことが書かれているのでは?と思います。
さて、主なる神さまが「光」のあるところではなく、「やみ」(罪のあるところ)にお住まいだということと、その理由について少しずつお分かりになっていらっしゃるかと思います。そうなんです、今申し上げたように、神さまは私たちが「罪」を持っている存在だということをよくお分かりで、しかもそれで終わるのではなく、私たちが「罪」から解放されることを望んでおられるのです。そのことについて、みことばを参照してみましょう。
参照 使徒の働き26:18
26:18 それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。』
「暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ」とありますように、私たちは、元々は誰も彼も「暗やみ」、つまりサタンの支配下に置かれていたということが分かります。でも、ずっとそのままで良いか?というとそうではなく、「暗やみから光に」とか「神に立ち返らせ」とありますように、サタンの支配下から脱出して、神さまに立ち返っていかなければいけません。そのためにはどうするのか?そこで登場するのが、イエス・キリストの御体なる「教会」です。はじめに話しましたが、「教会」がその役割を果たすのです。ズバリ言うと、「教会」の役割、大きな仕事というのは、「罪」からの「解放」なのです。もちろん人間にできることではありませんが、イエス・キリストが、ご自身の御体である「教会」を通してそのことをなさるのです。そして具体的には、キリストの肢体の一部となっている働き人(クリスチャン)を通して行われるのです。永遠の命に至るメッセージを語ったり、益となったり、徳を高めたりする証や預言をしたり、悪い霊からの解放のためのとりなしをしたりと、これらはすべて神さまの働き人を通してなされ、そしてこういったことを通して人々を「罪」から解放し、神さまに立ち返らせていくのです。私がまさにそうでしたし、これからもそうだと思います。かつて洗礼を受けながらも教会生活やイエスさまの信仰から離れていたことがあったのですが、その時はありとあらゆる「罪」の中にいました。でも、神さまの憐れみと助けと導きによって、再び教会生活とイエスさまの信仰に立ち返ることができました。それ以降、毎週教会に行くようになり、礼拝でのメッセージやお祈りとかを通して、少しずつ「罪」から解放されていくようになりました。そして今も、その繰り返しです。今はレムナントキリスト教会に行っていますが、エレミヤ牧師が語るメッセージや兄弟姉妹が語る証や預言を通して、「罪」から解放されたり、「霊的」に建て上げられていることを実感しています。そのような中で、「本当に教会の存在はすごいなぁ」と、つくづく痛感させられます。「イエス・キリストのからだ」とは、よく言ったものだなぁと思います。なので、「暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ」とは、ダテに言われているわけではなく、真実だなぁという風に思います。
大分前のことですが、某教会の一人のクリスチャンが牧師にこういう相談を持ちかけたそうです。「先生、教会に来ているあの人のことですが、かくかくしかじかで困っています。先生、なんとかなりませんか?」と。するとその牧師さんは微笑みながらこのように答えたそうです。「それは困ったことだね。でも、教会は罪人の集まりだからね」と。その話を聞いて、「ああ、その通りだ!」と思いました。それこそソロモンがお祈りの中で、「罪を犯さない人間はひとりもいないのですから」と言われているように、私たちは生まれつきの「原罪」を持っていますし、また、どんなに気を付けていても、「罪」を犯してしまいます。また、なかなか悔い改めることのできない「罪」もあるかもしれません。でも、教会でのメッセージや預言や証やお祈り等を通して、聖霊さまの語りかけを受けたり、じかに聖霊さまの力に触れていく中で「罪」の力から少しずつ解放されていったり、強められたりしていくのではないかと思います。もちろん聞く事柄や霊においてはその都度吟味が必要ですし、「らい病(罪)」は広がるものですし、それによって周囲の人々に感染してしまうケースもあるので、場合によってはあまりにも罪ばかり犯している人については注意をしたり、はたまた注意をしてもなおかつ悔い改めないようであれば、罪をきちんと悔い改めまではしばらく集会をご遠慮いただくことはあるかもしれません。しかしそうではあっても、基本的に「教会」という場所は人々を「罪」から解放したり、赦したりする場所です。そして、繰り返すようですが、「教会」つまり「イエス・キリストのからだ」は、その橋渡しの役目を担っているのでは?と言えると思います。そういう意味では、「教会」は神さまの目から見て、非常に重要な位置を占めていることが分かりますよね?そう、冒頭のみことば、「初めに、神が天と地(教会)を創造した」ということばは、私たちクリスチャン一人一人を絶えず「罪」から解放するために、そして神さまとの間に絶えず「平安」を保って喜んでクリスチャン生活を送ることができるようにと、神さまの配慮の下に書かれているみことばなのでは?と思います。「天と地」(教会)をなぜ、はじめに神さまが創造されたのか?の理由についてご理解いただけたかと思います。そしてごくごく基本のことではありますが、「罪」がある時に、「暗やみ」に私たちは置かれることとなり、そしてそれは神の支配下ではなく、「サタンの支配下」にいることになってしまいますので、いつでもどんなときでも、「罪」からの解放を求めていきたいと思います。教会で語られるメッセージや証や預言、あるいは、お祈りには、私たちに「罪」がある場合にはそのことを示し、また、解放するヒントや力がありますので、ぜひ、こういうポイントについても見ておいていただけたらと思います。
レムナントキリスト教会
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