聖書箇所 創世記3:16

 

 

 

3:1 さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」

 

3:2 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。

 

3:3 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」

 

3:4 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。

 

3:5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」

 

3:6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。

 

 

 

メッセージの前に・・・

 

 

 

聖書を読んでいる方ならすでにお気づきだと思いますが、神さまと人との間に平和が保たれていたのは、創世記の2章までです。とても細かい話なのですが、聖書は全巻で1,189章あります。そのうちのたった2章だけが、神さまと私たちを分け隔てるもの、すなわち「罪」が無い状態でした。しかし、本日の章(3章)を起点に、喜ばしくはなかったのですが、「罪」(原罪)が入ってきてしまったのでした。大した話ではないかもしれませんが、そんなことも一応心の片隅に入れながら、共に学んでいきたいと思います。

 

 

 

「永遠の命に関する事柄について逆のことを言うサタン」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。

 

 

 

順に見ていきましょう。

 

 

 

3:1 さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」

 

 

 

,2章までは出てこなかったのですが、ここで突然「蛇」が登場します。「蛇」はたしかに生き物として実際に生息するものですが、聖書では「悪魔」とか「サタン」のたとえとして使われています。以下を参照してみてください。

 

 

 

参照 ヨハネの黙示録12:9

 

12:9 こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。

 

 

 

ところで、1節では蛇、すなわち「サタン」の性質について伺うことができます。「蛇が一番狡猾」とありますように、サタンは「狡猾」だということです。KJV訳だと「巧妙」とあります。しかも「あらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾」と言われているように、とにかく「一番狡猾(巧妙)」なのです。さらにこのあとを見ていくと分かるのですが、アダムの妻エバはみごとに蛇(サタン)にだまされたのです。ですからサタンは、人間よりも能力が上だということが言えるのです。言うまでもありませんが、もちろん神さまよりは下ですけどね。でも、エバが欺かれたように、私たちクリスチャンをだますのはいとも簡単であり、いわばだまし、欺きのプロ、天才なのです。もっと言うなら、それがサタンの仕事なのです。さらに言うならその仕事の目的は、「クリスチャンの永遠の命を奪う」ことなのです。

 

 

 

さて、蛇は女(エバ)に言いました。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」と。じつはこの質問がそもそも神さまと言われていることと違うのです。「園のどんな木からも食べてはならない」というサタンの問いに対して、創世記2章で神さまはこのように言われています。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。」と。サタンの「どんな木からも食べてはならない」のことばに対して神さまは「どの木からでも思いのまま食べてよい」と言われています。サタンが言っていることは一見読むと何の違和感もないのですが、神さまが言われていることと照らし合わせてみると、この時点ですでに神さまとは「逆」のことを言っていることが分かります。なぜ、こんな言い回しをサタンはしたのでしょうか?私の想像ではありますが、サタンははじめからポイントをズラして、人を的外れな方向へと引っ張っていこうという巧妙な策略を用いて人をだましたり、欺くのではないかと思います。はじめから「嘘」をついて、うまく人の心を別の方向へと向けさせるという手段を用いるのではないかと思います。こんな例が良いかどうかは分かりませんが、もし、あなたが住宅販売のセールスのお仕事をしていたとします。顧客を獲得するために、まずは電話をします。その時に突然、「家を買ってくれませんか?」なんていう風には話をしないと思います。たとえばはじめに「今の場所にお住まいになって、どれくらい経ちますか?」と少し遠巻きに質問して、相手が少しでも話に乗ってきてくれれば「賃貸ですか?」「今なら金利が低いのですが・・・」「安くて良い物件を紹介できるのですが」なんていう風に徐々に話を進めていくと思います。サタンの方法もそんな感じで、はじめからズバリというところはついてはきません。要は全うな手は使わないのです。神さまが言われたことばを使わないのです。「園の木から思いのまま食べてよいのですか?」なんていう質問はしないのです。そうではなく、「園のどんな木からも食べてはならないと言われたのですか?」と内容を少しズラすのです。そんな風に、人の心を自分(サタン)のほうにうまくなびかせるようにもっとも効果的な方法を用いるのでは?と思います。その結果、エバはサタンの策略に引っ掛かったのです。次を見ます。

 

 

 

3:2 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。

 

3:3 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」

 

 

 

ここでエバがサタンの質問に答えています。はじめに「園にある木の実を食べてよいのです」と言っています。このことはその通りです。でも、3節で彼女は「神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。』」と言っています。じつはこの時点でエバは神さまが言われていることと違うことを述べています。神さまは「食べてはならない」と言われましたが、「触れてはいけない」とは言っていないのです。続いて彼女は「あなたがたが死ぬといけない」と言っていますが、2章で神さまは「それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬと言われています。蛇(サタン)のことばによって、エバの心情に変化が起きたのではないでしょうか?それまでは「必ず死ぬから絶対に食べない!」と固く決意していたと思います。でも、サタンの登場によって、エバの心は揺れ動きつつあることが伺えるのではないでしょうか?「必ず死ぬ」ということばを「死ぬといけない」ということばに変えることによって、もしかすると「死なないかもしれない」なんていう思いに変わっていったのではないか?と思います。それによって神さまのことばから離れてしまったのでしょう。さらに見てみましょう。

 

 

 

3:4 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。

 

3:5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」

 

 

 

エバの心の変化を鋭敏に読み取ったサタンは次の行動に出ました。「あなたがたは決して死にません」とサタンは言いました。はじめは「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」なんていう風にお手柔らかに話を持っていったサタンでしたが、「これは脈があるぞ!うまくだませるかもしれん!」とばかりに「決して死にません」なんて大嘘をついたのです。さらに追いうちをかけるかのように、「あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり~」なんていう風にもっともらしいことを言って、うまく説得しています。良いこと、つまり「特典」だけを強調し、しかし「永遠の命を落としますよ~」と肝心なことは決して言いません。もちろんそうですよね~。そんなことを言ったら「やっぱり食べるのやめた!」ということになってしまうのですから。そう、もっとも大事なポイント、こと「永遠の命」に関する事柄については口を閉ざす、あるいは逆方向を示すのがサタンなのです。神さまは「必ず死ぬ」と言いましたが、その真逆の発言をするのがサタンなのです。そして目先の良いことだけを示し、デメリットについては言わずにあとで大どんでん返しをする、という手段なのです。一例を挙げるなら、「クリスチャンは裁かれない」という教理がそうです。ちなみに「エバ」のことを「女」という風に書かれていますが、「女」は「教会」のたとえでもあります。そして大半の教会は、クリスチャンと名が付けば皆天国、裁かれるのはこの世の神さまを知らない未信者だということを述べます。たしかにこの世の神さまを知らない未信者は、はじめからイエスさまを拒否しているのでそのままこの世を去るなら裁かれて、永遠の滅びに入ってしまいます。ですからこれは本当です。しかしクリスチャンと名が付けば皆天国ということは、聖書のどこにも書かれていません。それどころか聖書の至るところでは、クリスチャンの裁きに関して述べています。ただ、聖書は多くの「たとえ」が使われているのでズバリ書いていませんが、しかしきちんと読むならそのことを理解できます。たとえばサムエル記や列王記や歴代誌には、天の御国に入るのに成功した王と失敗した王の事例がいくつもあります。また、新約聖書では賢いおとめと愚かなおとめ、麦と毒麦、良い魚と悪い魚なんていう風にクリスチャンのことを表現しています。賢いおとめは婚礼に招かれてキリストの花嫁になりましたが、愚かなおとめは「わたしはあなたがたを知らない」とキリストから言われてしまいました。これは御国を受け継がないクリスチャンのパターンです。また、麦は倉(天の御国)に納められましたが、毒麦は火(地獄)で焼かれました。毒麦は永遠の滅びに入ったクリスチャンのたとえです。そんな風に御国を受け継ぐクリスチャンとそうでないクリスチャンについて聖書は書いているのですが、しかしあろうことかそのあたりを見落としてしまって、「皆天国ですよ~」なんていう教えは、じつは蛇(サタン)由来のものなのです。たしかにこの世においては耳にも良く、何の問題も無いように思えるのですが、しかし地上の生涯を終えた時に「こんなはずではなかった」なんていう結果を招くことにならないでしょうか?本当にクリスチャン皆が天国に入れるのなら、「罪を犯してもOK!」「悔い改めなくてもOK!」なんていうことにならないでしょうか?あるいははじめから「天国行き」が決まっているのなら、そんなにしゃかりに信仰生活を送らなくても良いのでは?なんていう考えにならないでしょうか?まして「十字架」なんて背負う必要性なんて無いのでは?と思います。ゆえに「クリスチャンと名が付けば裁かれない」という教えは、聖書のことばを否定したり反対するものだということがお分かりになると思います。いくらこの世ではよくても、後の世で歯噛みしたり歯ぎしりしたりする結果となりますので注意が必要です。そうなんです、繰り返しますがサタンは「永遠の命」とは「逆方向」を示します。「永遠の命」に直結しないことに関してはそうではないかもしれませんが、「永遠の命」に関してはそうではないので、要注意です。仮に100ある教理のうちの99は本当だとしても、しかし、残りの1に関しては嘘を言い、はたまたそれが「永遠の命」を失うものだという可能性があるのです。1の教理によって、エバのようにみすみす永遠の命を逃すことのないようにくれぐれも気を付けていきたいと思います。さいごを見ます。

 

 

 

3:6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。

 

 

 

蛇(サタン)に散々説得させられて、うまくくどかれて、ついに女(エバ)は「善悪の知識の木」から取って、実を食べてしまいました。そして結果として「いのちの木」から退けられてしまい、永遠の命を失ってしまいました。このことから語りかけや今の新約の終わりを生きる私たちへの教訓を学ぶことができます。エバのことは決して他人事ではありません。たしかにエバ個人が失敗したことかも知れませんが、しかし私たちも彼女の轍を踏む可能性は十分にあり得る、ということを想定してこのように書かれている、ということはよくよくとらえておきましょう。エバの失敗は、未来の教会やクリスチャンへの警告として書かれているのです。さきほど「女」は「教会」のたとえだと言いましたが、特に終末はエバの轍を踏む教会やクリスチャンが続出するでしょう。なぜ、そんな風に言い切れるのか?と言うと、終末は蛇(サタン)が解き放たれて、教理や霊的な事柄がおかしくなっていくことが前もって預言されているからです。事実、そうだと思います。教理のことは、先ほどの「クリスチャンと名が付けば裁かれない」ということもそうですが、クリスチャンが艱難を通らずに携挙されるという教えも、蛇(サタン)由来のものです。それこそ「その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。」とありますように、たしかにエバにとって「善悪の知識の木」はそのように見えたのでしょう。しかし、結果として永遠の命から退けられてしまったのです。それと同じように、蛇(サタン)由来の教理というのも、私たちクリスチャンにとってそんな風に見えてしまうのです。「何が何でも艱難には会いたくない」なんていう思いにサタンはつけこんで、「艱難前携挙説」をキリスト教会に広めているのです。聖書には「かつてもなく今後もないようなひどい苦難の時がある」という風に、クリスチャンが艱難を通ることが書いているのですが、「艱難前携挙節」は艱難や苦難に会いたくないと思っている教会やクリスチャンにとってうってつけの教理です。聖書にはきちんと書いてあっても、真実がかき消されてしまうのです。真理に従って歩んでいこうと思っていない人にとっては恐ろしいことに聖書と真逆の教理が麗しいものに、それこそ「目に慕わしい」教理に見えてしまうのです。また、教理だけにかぎらず「霊的」な面に関しても同様です。レムナントキリスト教会ではトロントペンサコーラの集会についてビデオやDVDで問題点を述べてきました。ベニー・ヒンが集会の中で「デーモン、デーモン」と悪霊を呼び寄せているのですが、「そんなことはない!」と反対の声もあったそうです。その方もビデオで観た上でそういうことをおっしゃっているのでしょうけれど、悪霊を呼び寄せている集会が全うに見えるというのは、おかしいと思います。普通に考えれば悪霊を呼び寄せている器が、聖霊の働きを担っているとは思えませんよね?でも、もし心の内側に悪い思いがあったりするなら、そういうものも良く見えてしまう可能性があるのでしょうねぇ。私の想像なのですが・・・その集会では人が倒れたり、笑いのとりこになっている人たちが沢山いました。そのことがよく見える人にとっては、それが神さまから来た奇蹟の力だったり、賜物に見えてしまったのだと思います。そして願わくば、自分もそういう奇蹟を起こしたいなんていう思いがあったりするのでは?と思います。もちろん断定はできませんが、「デーモン!」なんて叫んでいる集会に何の違和感も覚えないということもそうですし、それどころか逆に奨励しているのでしたら、もしかするとそうなのでは?と思います。

 

 

 

今回はサタンの特性のひとつとして、みことばと逆方向へと持っていく存在だということを述べましたが、ご理解いただけましたでしょうか?もちろんサタンの言う全てが「嘘」ではありません。「神は愛」だということは本当ですし、「未信者が裁かれる」ことも事実です。でも、それはクリスチャンの永遠の命とはあまり直結しません。「神が愛」ということを知るだけでは、永遠の命を得られないことをサタンは知っているので、そのことは許すのです。また、未信者が裁かれることも、クリスチャンの永遠の命とは直接関係がないので、このことも許すのです。でも、クリスチャンが永遠の命を得ることに関しては、逆方向を示すのです。・・・サタンは自分が決して天の御国に入れないことを知っているので、クリスチャンにも得させまいとこのことに嫉妬を燃やし、何が何でも得られないような画策を色々と考案するのです。ですが、エバのようにまんまとそれに乗せられたり、引っ掛かってはいけません。そして聖書では、そういったサタンの策略や画策が許されていることも言われていて、そんな中でも、イエスさまに従ってきちんと永遠の命をゲットするのか?という風に私たちに問われている、という一面についてもよくよく理解しておきましょう。たしかに生きている間、常に見えない敵(サタン)との戦いが許されますが、しかしイエスさまの声を聞いて従っていくときに、エバのようにあっさりとだまされてしまうことからその都度回避できますので、信じて実践していきたいと思います。また、はじめに申し上げましたように、サタンのほうが私たちより能力は上ですので、敵のことを決して過小評価することなくいつもイエスさまに拠り頼んで、御声にきちんと聞き従っていきたいと思います。逆方向を示すサタンですが、私たちが正しく対応するならだましや欺きから守っていただけますので、ぜひそのような歩みをしていきたいと思います。そして永遠の命を得ていきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

私自身もエバの体験は何度も、いえいえ何十回も、いいえ数えきれないくらいしてきました。しかも今でもその可能性は十分に秘めていると思っています。でも、その要因のすべては自分の内側の「罪」にあるということを神さまからご指摘していただき、サタンにまんまと乗せられて失敗してしまった時はその都度悔い改めるようにしています。教理の面でも、かつては上記に挙げたクリスチャンが裁かれないという教理や艱難前携挙説を盲信していましたし、それについて喜んでいましたし、それどころか未信者の人に伝道する機会がある時には、クリスチャンになれば艱難は通らずに天国へ行きますよ~、なんてことを平気で伝えていました。また、霊的な面においても、ペンサコーラのリバイバル集会のことは知りませんでしたが、他の集会に行ったことがあり、その時にアメリカから来られていた器が下していた霊は恐らく「悪霊」だったと思うのですが、それを「聖霊」の働きだと勘違いしていたこともありました。なので、人さまのことを何も偉そうに言える立場ではないのですが、しかし一人でも多くのクリスチャンがそのような敵の罠から徐々にでも逃れていくことができたらなぁなんていう思いでメッセージをさせていただきました。レムナントキリスト教会に行くようになってからは弟子の歩みにも入らせていただきましたが、それで万事がOKというわけではなく、聖書に「選民をも惑わす力」について書かれていますように、それこそ御使いレベルの惑わしに引っ掛かることも度々ありましたし、今後も皆無とは言い切れないと思います。いえいえ、大いにそういう可能性は秘めていると思います。ただ、やはり程度の差はあっても惑わしに引っ掛かる要因もすべて自分のほうにあって、それは自分の思いを優先して神さまに従っていない時にそうなってしまうことが多いということに、ここ最近神さまの憐れみによって気付かせていただいています。感謝です。メッセージの中でも書きましたが、結局のところサタンのほうが、能力が上回っているので人間的なレベルでは到底勝ち目は無いのですが、しかし唯一勝てる方法があります。それは一にも二にも、はたまたすべてのことにおいてイエスさまが言われる通りに従うことです。そうするなら、敵に打ち負かされることはありません。ただ、そうは言ってもやはり人間は弱いので、理性では分かっていてもどうしても負けてしまう時もあります。でも、そんな時にはすかさず悔い改めて、すぐに神さまの言うことに従っていくようにしていきたいと思います。教理や霊的なことにかぎらず、ありとあらゆる誘惑や落とし穴は許されていますが、でも、イエスさまだけを見上げて、なおかつすべてのことに従って永遠の命を得ていきたいと、本日の箇所の学びを通して思いました。いつも大切なことを語ってくださる神さまに栄光と誉れがありますように。