聖書箇所 創世記10:810

 

 

 

10:8 クシュはニムロデを生んだ。ニムロデは地上で最初の権力者となった。

 

10:9 彼は主のおかげで、力ある猟師になったので、「主のおかげで、力ある猟師ニムロデのようだ。」と言われるようになった。

 

10:10 彼の王国の初めは、バベル、エレク、アカデであって、みな、シヌアルの地にあった。

 

 

 

「この世の権力者」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。

 

 

 

9章を読むと分かるのですが、大洪水ののちに世界の民は三つの種族に分かれました。9章18節に書かれているように、セム、ハム、ヤペテです。そして冒頭の8節に「クシュ」とありますが、「クシュ」は「ハム族」の子孫です。ちなみに「クシュ」とは「黒色」とか「黒い」とか「エチオピア」という意味です。ですから「ハム族」とは一面「黒人」のことを言われていると理解できます。ただよく話していますように、聖書には多くのたとえが使われていますので、「クシュ」ということばのたとえの意味合いについても見ておきましょう。

 

 

 

「黒」という色ですが、「黒」は「白」とは反対のことばですよね?ちなみに「白」は、聖書において「神さまの義」にたとえられています。ですから「黒」は、「義」の反対、「罪」という意味があります。なので良い意味合いではないですよね?もちろん肌の黒い人種の皆が「罪人」ということではありません。「クシュ」、すなわち「黒」とは、「罪」をあらわす象徴である、という風にご理解いただけたらと思います。

 

 

 

そして「クシュ」から「ニムロデ」という人物が登場します。「ニムロデ」の意味は聖書人名地名小事典によると、「反逆者」と書かれています。「反逆者」と聞いて連想することばがあります。「反キリスト」ということばです。また、「反キリスト」は聖書の別の箇所によれば、「不法の人」とも言われています。さらに言うなら、「不法」と「罪」は大いに関係がありますので、「クシュ」とは「黒色人種」の他に、「罪」をあらわすことが理解できるでしょう。そして「クシュ」から生まれた「ニムロデ」は、ひと言で言うなら、「サタン」のたとえではないかと思います。「サタン」の意味も調べてみたのですが先ほどの小事典によると、「敵」とか「反対する者」とありまして、これは「ニムロデ」、すなわち「反逆者」と符号するのではないかと思います。

 

 

 

「ニムロデ」は8節にありますように、「地上で最初の権力者」になりました。この世においても様々な権力がありますが、しかし一番はじめに権力を持ったのは「ニムロデ」、すなわちサタンなのです。しかもサタンに権力を与えたのは他でもない、神さまなのです。と言うのは、「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。ということが聖書に書かれているからです。つまりサタンがこの世を司ることを、神さまに許されているということなのです。そう、私たちが住んでいるこの世というのは、「サタンの支配下」だということを言っているのです。もちろんサタンの上には神さまがいますが、次に権威が与えられているのは、「サタン」なのです。「それが何なんだ!」と言われる方もいるかもしれません。あるいは「サタンなんて別に関係ない」と言われる方もいるでしょう。でも、私たちが歩みをしていく上で、サタンの立ち位置に関してはよくよく知っていなければいけません。なぜかと言うと、クリスチャンの歩みの大半はサタンとの戦いだからです。その際に敵がどのような立場に置かれているのか?ということを知るのは大事だと思います。人間よりも上なのか?下なのか?神に認められているのか?そうでないのか?それによって戦い方が全く変わってくるからです。そのことを少し見てみましょう。

 

 

 

まず、人間よりも上なのか?と言うと、「上」です。「最初の権力者」ということばがその答えです。かつて「御使い」と「人間」の関係についてチラッと話をしたことがあったと思いますが、「御使い」は「兄」を、「人間」は「弟」を指すたとえとして使われています。人間の兄弟関係もそうですが、「兄」が「弟」より立場が上であるように、サタンと人間の関係も全く同様です。そして、「主のおかけで、力ある漁師ニムロデのようだ」と書かれていますように、「力」がある存在であります。たしかに私たち人間にも多少なりとも「力」はあるかもれませんが、何分、弟の立場なので兄よりは「劣る」ということは正しくとらえておきましょう。そしてこのことをきちんとわきまえておきましょう。まかり間違えても、「サタンなんて楽勝」とか「サタンが人間に従う」なんていう風に思っていてはいけません。もし、そういう概念をお持ちでしたら直ちに変えていきたいと思います。

 

 

 

次にサタンは神に認められているのか?と言うと、「認められて」います。「ええっ、悪魔が何で認められるの?ゆくゆくは火の池に永遠と入れられる存在なのに~?」と思われるかもしれません。サタンが後の世においてろくな目に会わないのは事実ではありますが、しかしこの世においては、「主権、力、この暗やみの世界の支配者たち」として大いに認められているのです。たしかにサタンを通して色々と悪しきことが行われたり、歩みにおいて嫌なことが起きてきたりするのですが、しかしどれもこれも神さまがサタンに許可を出しているのも一面の真理なのです。なぜそんなことが許されるのか?と言うと、先ほど話しましたように、クリスチャンの歩みは「敵との戦い」でありまして強い敵、あるいは敵の攻撃に対してどのように対応するか?を神さまがご覧になるためにあらゆる敵の攻撃は許されるのです。

 

 

 

たとえばヨブがそうでした。彼は神さまから太鼓判を押された、いわばクリスチャンの鏡とも言える人でした。しかしそんなヨブに対して、サタンはヨブの信仰を試すべく苦難を行ってよいか?なんてことを神さまに持ち出して、そして神さまはそのことを何と了承したのです!もし神さまがサタンのことを認めていなければ、話は成立しないわけですよね?でも、サタンを認めているがゆえに、そのことは許されてしまったのです。なので御心を行っているにもかかわらず、「なぜ、こんな理不尽なことが許されるのか?」なんていうことをついつい思ってしまうことがあるかもしれませんが、そのバックには「サタン」がいることを覚えましょう。さらにその背後には「神さまの許し」がある、ということも理解しましょう。そうしていくときに起きてくる出来事に対して色々と合点がいくのではないか?と思います。サタンが神に認められているがゆえに、ありとあらゆる攻撃が許されるのです。しかしそれは単に攻撃のみで終わるのではなく、私たちの信仰の真価を試すために、神さまが許されているという面も見なければいけないのです。さらにそれで終わりではなく、神さまから助けをいただいて正しく対応するときに、ありとあらゆる恵みや祝福のもととなり、結果としては益をもたらすものとなるのです。

 

 

 

「この世の権力者」すなわちサタンの立ち位置について概ねご理解いただけたかと思いますが、それでは最後に「この世の権力者」との戦い方について話をしたいと思います。まず、相手は私たちよりも「強い」存在だということは絶えず念頭に置きましょう。「楽勝!」なんていう考えは完全に捨て去りましょう。そう思った時点で勝ち目はゼロだということは理解しましょう。では、どうするのか?と言うと、とにかく神さまに助けを求めましょう。いくら敵が強いと言っても、しかし神さまよりは弱いので神さまに助けを求めるのです。どんなことであれ神さまに助けを求めるなら、だんだんと形勢が変わっていきますので。たしかに人間よりも力があり、主に認められているがゆえにはじめはサタンが優勢ではありますが、「お祈り」によって神さまの時にあっさりとひっくり返されますので、あきらめずにひたすら祈っていきましょう。また、その際にポイントがありますのでこのことも参考までに話しておきますね。

 

 

 

サタンとの戦い方に関してたしかに「祈り」が大事なのは事実ですが、しかし、もし私たち側に「罪」があるなら、「勝利」することは難しいという面は正しくとらえておきましょう。神さまが忌むべきものや聖絶したものを持っていたり、罪があったり、あるいは従うべきことを従っていないというときに、いわゆる「保留」の状態にしているものが少しでもあるときに、敵との戦いの場に立つのは難しくなってしまいますので、お心あたりがありましたら「保留」と思われものをまずは除外しておきましょう。その上で神さまに助けを祈り求めていくなら、神さまの時に勝利を取ってくださいますので期待してお祈りしていきましょう。もちろん癒しのお祈りの際に、「悪霊を追い出す」というお祈りをすることもあって、それによって「悪しき霊」から解放されるなんていうこともあると思います。しかしそれはそうとしてサタンに勝つためのポイントは、基本的にはどこまでも「神への従順」と「神さまへのお祈り」だということに関しては正しく正しくとらえておきましょう。

 

 

 

神に最初に権力が与えられ、なおかつこの世を支配し、力も強いサタンではありますが、「反逆者」と言われるごとく、神への従順はみじんも無いので、いわば、「従順」とか「悔い改め」ということを一番嫌がっていますので、反対にこちらがすべてにおいて「従順」になるときに、どんなにサタンが優勢であってもだんだんと身を引かざるを得なくなりますので、このあたりのことはよくよくとらえておきたいと思います。

 

 

 

ちなみにサタンは恐れるに値する存在なのか?と言うと、それはそうではありません。福音書の中でイエスさまはサタンに用いられている人について、「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」と言われているので最悪肉体に危害を加えられたとしても、はたまた死に追いやられてしまうなんていうことがあったとしても、決して恐れる必要は無いのです。サタンの立ち位置については正しくとらえ、対応する必要はあっても、何ら恐れることはありません。人を用いて脅しや弾圧や圧迫をかけてきたとしても、です。そのあたりは正しく理解したいと思います。

 

 

 

ではあっても、また繰り返しになりますが、この世においてサタンが人間よりも強いこと、そしてサタンも主が立てられた権威だということはきちんとわきまえて、その都度正しく戦って主に勝利を取っていただきたいと思います。いくらサタンとはいえ、反対に権威を侮ったり、軽く見ていくときに思わぬ落とし穴に落ちたり、信仰をひっくり返されたり、惑わしや思い違いや混乱に入ってしまいますので気を付けていきたいと思います。正しく敵と戦いをして、勝利を重ねていく延長線上には永遠の命が約束されていますので御心を感じましたら、ぜひ実践してみてください。こういうポイントについても、よろしければ見ておいていただけたらと思います。

 

 

 

 

クリスチャンになってから、この世はサタンの王国だということを知りました。また、それと同時に教会で牧師を通して語られるメッセージを通して、「見えない敵との戦い」だということを学ぶようになりました。ただ正直、どんな風に戦えばよいのか?について、今一度理解していませんでした。でもある時、エレミヤの部屋のHPのメッセージを読んで、「ああ、なるほど、そうなんだぁ」とうなずくものがありました。エレミヤ牧師が、「敵は強いし、敵は優勢である。しかしお祈りによって変えることができます」というメッセージをどこかに書かれていましたが、「そうかもしれない」と思って、そのことを実践するようになりました。それまでは、「悪霊」の追い出しのお祈りが良いのでは?と思っていたのですが、その時から神さまに助けや力をいただけるようなお祈りをするようになりました。そして実践してみた結果、それは真実でした。祈る前は正直、どれもこれも半信半疑なのですが、しかし、いざ助けをいただけるように祈っていく中で、神さまの助けを次々と目の当たりにするようになりました。今回の箇所を通してこちらには何の力がなくても、敵に対して勝ち目がゼロであっても、神さまに助けを求めていくことは本当に大事なことだなぁと改めて思いました。いつも大切なことを語ってくださる神さまに栄光と誉れがありますように。