聖書箇所 創世記12:13

 

 

 

12:1 その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。

 

12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。

 

12:3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」

 

 

 

「祝福を受けるために」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。

 

 

 

みことばの説明

 

冒頭のみことばで、主はアブラムに父の家を出ること、そして主が示す場所に行きなさいと言っています。さらに2節で、もしそのことを実行するのなら、アブラムを大いなる国民とすること、そして祝福を与えること、さらに大いなる名として、アブラムの名前は祝福となる、と言っています。そしてさらにさらに、アブラムを祝福する者を神は祝福すると、反対にアブラムをのろう者をのろうと、言われています。

 

 

 

それではメッセージに入ります。順に見ていきましょう。

 

 

 

12:1 その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。

 

 

 

11章のさいごのほうを読むと分かるのですが、アブラムの父テラと、アブラムと妻のサライとロトはカナンの地を目指して途中カランまで来ました。その時に主が、アブラムが言われたのが、上記みことばです。「あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地に行きなさい」と。このことばは一見読むと、自分のふるさと、つまり親元を離れて生活しなさい、なんていう風に取れるかもしれません。一面、それも語っているかもしれませんが、しかし聖書のことばの大半はたとえが使われていますので、そのあたりも見ていきましょう。

 

 

 

「父の家」とは「教会」のたとえです。「父」とは「天の父」のことですから、違和感無くそのように理解できると思います。そして何と、主は「父の家」、すなわち「教会を出なさい」と言っているのです。「ええっ?クリスチャンなんだから、教会を出たらダメでしょう?しかも聖書には互いに集まることをやめてはいけないと書いてあるでしょう?」と言われるかもしれません。たしかに人間的には、非常識のようなことばにさえ聞こえるでしょう。しかし、他でもない、主が言われたことばなので、たとえ私たちの常識や概念とは異なっても書かれていることが正しいのです。そして単に主は教会を出て、それで終わりだとは言っていないのです。「わたしが示す地に行きなさい」と言われているように、次に行く所を用意しておられるのです。いかがでしょうか?それなら安心ではないでしょうか?集会をやめる、なんていうこともないですよね??

 

 

 

ところで、なぜ、主が「教会を出なさい!」と言っているのでしょう?それこそカランの地にマグニチュード10を超える地震が来て、そこの教会が壊滅状態になることを見越して別の場所に逃げるように、なんていう風にアブラムに語ったのでしょうか?そうではないと思います。次節以降に書かれていますように、アブラムを祝福するために言われたことなのです。「教会」を出ることが「祝福」につながるってどういうこと?と思われるかもしれません。それについて2節から見ていきましょう。

 

 

 

12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。

 

 

 

「そうすれば」とは、今しがた説明しましたように、「教会」を出て、主が言われる示す場所に行くことを言われています。つまりそのまま従うなら、「祝福」すると言っているのです。たしかに「集まることをやめたりしないで」と聖書で言われていますように、一般的には「教会」を出るべきではありません。しかし例外があります。それは、「三日目」と「七日目」です。「はあ?何それ?」と思われるかもしれません。みことばに、「一日は千年のようであり、千年は一日のようです」とあるのをご存知でしょうか?今は、BC4000年からカウントして、7000年目の時です。そして「一日」を「千年」と考えるなら、「7000年目」とは、「七日目」ということになります。あるいはADから数えるなら、2000年が経過しているので、「三日目」ということにもなります。さらに「七日目」というのは、どういう日なのか?と言うと、創世記2章に「神は第七日目になさっていいたすべてのわざを休まれた」と書かれているのですが、それは「安息日」のことを言われています。そしてまさに今が、その時なのです。また、「安息日」とは、どういう日なのか?と言うと、「おかしな教理」や「おかしな霊」が「教会」を席巻する時でもあるのです。そのことが起こることを前もって分かっている神さまが、出エジプト記を通して語っていることばがありますので、参考までに見てみましょう。

 

 

 

参照 出エジプト記16:2226

 

16:22 六日目には、彼らは二倍のパン、すなわち、ひとり当たり二オメルずつ集めた。会衆の上に立つ者たちがみな、モーセのところに来て、告げたとき、

 

16:23 モーセは彼らに言った。「主の語られたことはこうです。『あすは全き休みの日、主の聖なる安息である。あなたがたは、焼きたいものは焼き、煮たいものは煮よ。残ったものは、すべて朝まで保存するため、取っておけ。』」

 

16:24 それで彼らはモーセの命じたとおりに、それを朝まで取っておいたが、それは臭くもならず、うじもわかなかった。

 

16:25 それでモーセは言った。「きょうは、それを食べなさい。きょうは主の安息であるから。きょうはそれを野で見つけることはできません。

 

16:26 六日の間はそれを集めることができます。しかし安息の七日目には、それは、ありません。

 

 

 

マーカーを引いたところをご覧いただきたいのですが、22節で「二倍のパン」を集めたとあります。「パン」は「いのちのパン」すなわち「みことば」や「教理」のことですが、六日目には二倍のみことばや教理を集めた、つまり七日目の分まで集めた、ということを言っています。その理由が23節で言われています。「全き休みの日、主の聖なる安息」だからです。これは「安息日」に通じることです。そして26節で「安息の七日目には、それは、ありません」と書かれていますように、「七日目」には、六日目までのみことばや教理が無い、ということを言っているのです。「そんなはずはない、聖書はあるし、教会ではメッセージは語られているし・・・」と思うかもしれません。たしかにその通りであります。目に見えるところにおいてはそうです。しかし、聖書でこのように書かれている以上、神さまの前に「七日目」には、みことばや教理が無くなるのです。これは何を言っているのか?と言うと、「七日目」には教会でまともな教理が語られなくなる、ということを言っているのです。もっと言うなら、「六日目」までの正しい教理がおかしなものに変質していくぞ!ということを語っているのです。だから「七日目には、それは、ありません」と言われているのです。つまり「六日目」までの教理に戻れ!ということなのです。事実、ローマ・カトリック教会では、「地獄は無い」とか「他の宗教でも救いがある」とか、そんなことを言われているそうです。また、プロテスタントでは「艱難の前にクリスチャンは天に挙げられます」とか「福音は総合的に理解するものなので、行いは必要無い」などと語られているそうです。しかし、カトリック&プロテスタントの両者共に、それらはみことばには無いものであります。

 

 

 

私も実際に「艱難前携挙説」を推進していた教会に所属していましたし、さばかれるのはこの世の神さまを知らないノンクリスチャンだというようなメッセージを受けていました。みことばとは随分懸け離れていた教理を盲信していましたが、いずれも「六日目」の教理とは異なるものでした。しかしある時、神さまの憐れみによって気付きを与えていただき、そういった教理から離れることができました。ただ、その時に神さまから示されたことは、「正しい教理を学んで理解して受け入れるのは良いこと。しかし、おかしな教理を語る教会とは一線を引くこと。聖書のみことばから正しく真理を語る教会に行きなさい」という語りかけを受けました。そして実際にそのことを実行に移したのですが・・・それは私にとって非常に益をもたらすものとなりました。メッセージやみことばと前後してしまって恐縮なのですが、冒頭の1,2節のみことばに書かれていることは、自分自身の体験を通しても真実だなぁと思わされます。「教会」を出て、良いことなんて本当にあるのかなぁ?もしかしたら失敗するのでは?とはじめは半信半疑だったのですが、結果としてはここに書かれていますように、真の意味合いで「祝福」の歩みに入るようになりました。そう、主がアブラムに語ったことは、たしかにその当時、彼に示したことであったかもしれませんが、「聖書」という書物の大きな特徴のひとつとして、「終末」を生きるクリスチャンに向けて書かれている、という点があります。アブラムの時代に、「第七のミレニアム」つまり、「七日目」に起こること、つまりみことばの冒涜が起きることを神さまがよくよくご存知で、今の終末を生きる私たちが正しく歩みができるために、このようなことを何千年も前に語られたのではないか?と思います。さいごを見ます。

 

 

 

12:3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」

 

 

 

2節でも、アブラムの祝福について語られています。「あなたを祝福し」とか「あなたの名は祝福となる」ということが言われています。さらに3節ではアブラムを祝福する者を、主は祝福すると言われています。「今の時代にアブラムはいないから、私たちには関係ないことだよね~」と思うかもしれません。私もかつてはそう思っていたひとりでした。しかしたとえを理解するなら、私たちにも大いに関係する事柄だということがお分かりになると思います。よく話していますように、「聖書」は「イエス・キリスト」を証する書です。ゆえにここに登場する「アブラム」もある意味、「キリスト」の型とも言えるのです。「あなた」のところを「キリスト」に置き換えてみると・・・「キリストを祝福する者を主は祝福する」になります。また、「キリストをのろう者を主はのろう」になります。そして「キリスト」は、神でもあり、また、「ことばは神であった」とも言われていますように、「キリスト」は「みことば」でもあります。なので、「みことばを祝福する」とは、みことばを曲解することなく、素直に受け入れることを言われています。そうするなら、「祝福」されるのです。しかし反対に「みことばをのろう者」、つまりみことばを曲げたり、おかしな教理を広げたりする人は、「呪われて」しまうのです。そして呪われるとどうなるのか?そのままの状態でクリスチャン生涯を終えてしまう、というときに、「天の御国」を受け継がない可能性があるのです。なので、このことは粛々と考えていきましょう。そして正しく選択をしていきましょう。

 

 

 

今回は、①みことばから正しく教理を学ぶこと、②曲がったことをメッセージする教会からは遠ざかること、③そうするなら祝福に与るということについて話をしました。先ほど、ここに登場する「アブラム」は「キリスト」の型でもある、ということを述べましたが、イエス・キリストが降臨された時は旧約時代の終わりの時で、教会&クリスチャン共に非常に堕落していました。「会堂」と呼ばれる大半の「教会」において、偽善的なことばかりが語られていました。もちろんキリストはそのことを是正するために、そこでもメッセージを語られていましたが、しかしそこに定着していたわけではありませんでした。「会堂」ではなく、「荒野」というところを拠点としていました。「荒野」とは、どこのことか?と言うと、「わたしが示す地」のことで、具体的には「地下教会」のことを言われていると思います。そして、このことは「仮庵の祭り」を祝うことに通じます。今回、詳細に関しては触れませんが、聖書の所々において、終末は「仮庵の祭り」、つまり「みことばに書かれていない別の教理を語る教会を離れて地下教会を行い、おかしな教理や霊について、みことばから指摘する働きに従事」することをおすすめしています。そう、かつてキリストがされていましたように、今の時代も外部の教会に対して、おかしな霊や教理に関しての警告を発信するのです。私はそのことは真実だと思って実践しているわけですが、学びや働きをしていく中で、日ごとに確信が強まっています。なので、もし、「本当にそうかもしれない!」なんていう風にわずかでも思われましたら、ぜひおすすめします。「教会を出る」ということ自体、そもそも「非常識」のように思われますが、聖書のことばが正しいことですし、はたまた神さまが行く場所も備えてくださるのですから・・・もっと言えば、みことばに従うなら「全責任」を神さまが負ってくださるので、御心を感じましたら信じて実践してみてください。そして信じて実践する人が「祝福」に入ることが約束されているので、ぜひおすすめいたします。反対に、おかしな教理を語る教会にいつまでも固執してしまうときに、「祝福」や「恵み」を逃してしまう可能性がありますので、神さまの前に正しく賢い選択をしていきたいと思います。この地上においても祝福と恵みに満ちた歩みをし、のちの世においては神さまからの誉れを受けていきたいと思います。