聖書箇所 創世記32:1,2


32:1 さてヤコブが旅を続けていると、神の使いたちが彼に現われた。

32:2 ヤコブは彼らを見たとき、「ここは神の陣営だ。」と言って、その所の名をマハナイムと呼んだ。


「クリスチャン&教会の歩みや働きを助けるために、天使を遣わす神」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。


この場面は、ヤコブが叔父のラバンの家から離れて、エドムの野にいる兄エサウの所へ向かっている途中で、ヤコブの上に起きた出来事です。ヤコブはかつて兄エサウが自分を殺そうとしていたことを知り、逃げるようにして叔父のラバンの所に身を寄せました。つまり兄エサウには何も告げずに黙って生まれ故郷を離れたのでした。それゆえにヤコブの心中においては、兄エサウと再会するのはかなり勇気のいることだったのでは?と思います。もしかすると未だに自分のことを恨んでいるのでは?仕返しをされるのでは?とそんな不安を抱いていたと思います。そんな彼の思いをご存知の神さまは、少しでもヤコブの不安を軽くされようと思ったのでしょうか?上記に書かれているように、「神の使いたち(KJV訳:天使たち)」をヤコブの前に現わしてくださっのです。


さて、他の箇所でも、ヤコブに天使が現れた場面がありますので、見てみましょう。


参照 創世記28:11‐13

28:11 ある所に着いたとき、ちょうど日が沈んだので、そこで一夜を明かすことにした。彼はその所の石の一つを取り、それを枕にして、その場所で横になった。

28:12 そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。

28:13 そして、見よ。主が彼のかたわらに立っておられた。そして仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。


上記箇所は、ヤコブが自分の生まれ故郷を離れて、ラバンの家に向かう途中の時のことです。12節に「神の使いたち(KJV訳:天使たち)」とありますように、ここでもヤコブは、「神の使いたち(KJV訳:天使たち)」に会ったのです。いずれも「旅」の途中で会っていることが分かります。そして冒頭のみことばに「旅」ということばが使われていますが、英語(KJV訳)では、“his way”ということばが使われています。単純に「彼の道」と訳せます。さらに「道」ということばで、何か思い出しませんか?それはイエスさまが言われた、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネの福音書14章6節)ということを思い浮かべます。「わたしが道であり」「道」のところも、同じく“way”という単語が使われています。つまり申し上げたいことは、ヤコブもそうですが、「わたしの道」すなわち「イエスさまの道」、もっと言うなら、「いのちに至る道」、さらに言うなら、「永遠のいのちに通じる狭い小道」を歩んでいくというときに、「神の使いたち(KJV訳:天使たち)」が神さまから遣わされるのです。それこそ28章13節に、「主がかたわらに立っておられた」とありますが、必要に応じて、神さまが側にいてくださって、しかもそれだけではなく、「神の使いたち(KJV訳:天使たち)」をもお遣わしになるのです。そんな風に聞くと、とても心強いですよね??私たちが歩みの中で不安に陥っていたり、助けや守りを必要とするときに、神さまの配慮によって、天から御使いが遣わされるのです。もし、私たちが本当に「旅」をしているなら、すなわちイエスさまの言われた道を歩んでいるのならば、です。ヤコブのように、目に見えるかどうかは分かりませんが、しかし聖書にこのように書かれている以上、そうなんだなぁとご理解いただけたらと思います。


また、「神の使いたち(KJV訳:天使たち)」が遣わされる事柄に関して、もう一面のことを見たいと思います。32章の「神の陣営」と、28章の17節に書かれているのですが、「神の家」ということばに着目してください。「神の陣営」とは、今で言えば「教会」のことを言われていると思います。また、「神の家」も、「教会」を指します。そして「その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている」とありますように、「神の家」すなわち「教会」において、「神の使いたち(KJV訳:天使たち)」が天国と教会を行き来していることが理解できます。つまり個人のクリスチャンにおいて「神の使いたち(KJV訳:天使たち)」が遣わされると同時に、そして「教会」においても、「神の使いたち(KJV訳:天使たち)」が大いに遣わされることが理解できると思います。目には見えないかもしれませんが、やはりこのように書かれている以上、このことは実現していると思います。もちろんイエスさまが教会を治めていますし、導いておられ、助けてくださるのですが、しかし教会の様々な奉仕においては実際には私たちクリスチャンが行っていきますよね?その時にきっと「神の使いたち(KJV訳:天使たち)」による助けや守りも大いにあるのでは?と思います。なので、「目には見えないから」と不信仰になることなく、このことを信じて神さまの言われている働きや歩みに励んでいきたいと思います。そう、「神の使いたち(KJV訳:天使たち)」が遣わされることを大いに期待して、行っていきたいと思います。しかし、反面、このようなことも言えるのでは?と思います。たしかに「神の使いたち(KJV訳:天使たち)」は実在しますし、実際にクリスチャンや教会の歩みを助けてくださる存在ではありますが・・・しかしクリスチャンや教会が、神さまの示す方向ではない所を歩んでいたり、聖霊の言うことにちっとも耳を貸さないというときに、「神の使いたち(KJV訳:天使たち)」はではなく、「悪霊(悪い御使い)」が遣わされてしまう可能性がありますので、注意が必要です。「御使い」と言っても、「神の御使い」だけとはかぎらず、「サタン」もいるからです。たとえば、トロントペンサコーラの集会では、あろうことか「デーモン、デーモン」と呼び、キリスト教と称しながらも、悪霊を下しているそうです。これは、神の使いではなく、悪い御使い、すなわちサタンであります。ですが、このことには、全くポイントはありません。このような働きの集会にいくら参加し続けても、恐らく天の御国に入ることは難しいでしょう。もし、お心当たりがありましたら、そういう所からは直ちに離れていきましょう。


ですから、もし、「神の使いたち(KJV訳:天使たち)」を期待するのでしたら、神さまが示されている方向性を歩み、御心の働きをしていきたいと思います。そうしていくときに、おのずと「神の使いたち(KJV訳:天使たち)」が遣わされていきますので、ぜひ、そのように心がけていきたいと思います。「神の使いたち(KJV訳:天使たち)」はクリスチャンや教会を助けるために神さまに備えられていますので、そういったことも視野に入れて歩みや働きをしていきたいと思います。よろしければこういうポイントについてもとらえておきましょう。


いつの時か覚えていませんが、エレミヤ牧師がこのようなおすすめをされていたことを今、ふと思い出しましたので、お話したいと思います。レムナントキリスト教会はとても小さな群れなのですが・・・私自身はいつもそのことを喜んでいる者ではありますが・・・その時にエレミヤ牧師が「私たちは色々な働きをしています。そのためにはもちろん奉仕者も必要です。が、しかし・・・目に見える人数だけを見てはいけません。神さまが教会のことを色々と助けてくださる御使いのことをも頭数に入れて働きを進めていくべきです。」と言われました。このおすすめは私に深い感銘を与えるものとなりました。もちろん人数に関してですが・・・レムナントキリスト教会にかぎらず、他教会に通っていた時にも、今まで不満に思ったことはなかったのですが、でも、神さまにお仕えしている御使いも共に働きを助けてくださるんだぁー、と思った瞬間にとても心強いものを感じました。


また、Ⅱ列王記の6章には、預言者エリシャと彼に仕える若い者がアラムの軍勢によって取り囲まれたことについて書かれているのですが、その時に若者がエリシャに、「ああ、ご主人さま、どうしたらよいのでしょう」と不安を訴えたのですが、エリシャは、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。」と若者に言い、さらに、「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」と主に祈りました。すると、主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていたのです。私の勘違いでなければですが、これってまさしく、神の御使い(天使)の助けではないかと思うのです。なのでエレミヤ牧師が言われたことばは、本当だなぁと、聖書を通読する中においても、改めて理解することができました。そしてまた、レムナントキリスト教会では種々の働きを神さまから託されているのですが、いつも円滑に進められているのは、聖霊さまをはじめとする御使いのおかげでもあるなぁ、ということを痛感させられます。もちろん実際には奉仕者が行っていることではありますが、そのバックには聖霊さまや御使いが助けてくださっている、ということを心に留めおいてこれからも成すべき働きや歩みに励んでいくことができたら・・・なんてことを今回の箇所を通して改めて思いました。いつも大切なことを語ってくださる神さまに、栄光と誉れがありますように!